2014年06月28日

名文やや嫌味がかる 〜外山滋比古『ことば春秋』〜

もう本当に手がきつい。
ハッキリ言ってもう字を書きたくない。
今の今まで、「心に残った言葉」を書いていたのだ。
今回は、最大の規模となった。
18ページ、かかった時間はおそらく5時間を超えているのではないか。

『昨日は今日の昔』のところにも書いたように、彼の文章は本当に分かりやすく、簡潔、明快である。
つっかえるところがほとんどない。
文と文とのつながりの分かり辛い坂口安吾(今読んでいる)や、文そのものが分かり辛い谷川俊太郎とはえらい違いである。

今回、彼の文章はなぜそうまで分かりやすいのか、その原因の一端を掴んだ。
言葉の使い方が、非常に適切でタイムリーで、うまいのだ。
辞書の例文のようにぴったりフィットしているのだ。

それに彼は日本・外国問わず、いろんな諺、名言、エピソードなどを心得ている。
あまりにもボキャブラリーの豊富な人物である。

ただ今回はちょっと、嫌味になる文章が目立った。
要望をそのまま文章にしているのである。
読者はそれとなく書かれた文章に反応するのであって、そのままというのはどうかと思う。

また、
「ありがとうといえないのか」
という題名など、とにかく他に対する文句が多かった。
玉に疵といったところである。
                              (1988.8.18  17歳)

§箴言集§

¶講演を聞きにくる女の人はたいてい筆記具をもっていて、せっせとメモをする。
そちらに忙しくて講師の顔などほとんど見ていない人さえある。
これならラジオをきいているのと変わらない。
字を書けば、耳の方はお留守になる。
頭だって話に集中しにくいだろう。
メモをあとで復習するなら意味もあるが、多くはとりっ放しで、読み返さない。
ムダだ。

ぼんやり聞いていた方がよほどよく頭に残る。
数字や人の名前、書名で忘れては困るところだけメモするのが賢明である。
                                        ──「メモ」

¶私も手帖には目がない。
いくらでもほしい。
手帖をもらえば喜ぶところはアフリカ人とそっくりで、そういう遠方に同好の友がいると思うのは楽しい。
                                        ──「手帖」

¶何か思いついたことがあると、手帖に書きつける。
前後の脈絡などお構いなしで、ただ記録する。
ちょっと線を引いて、すぐ次のことを書きつける。
余白はない。
昔からそれくらい資源を大事にしている。
と言うのは冗談だが、そうでもしないと手帖がたまらないのである。

びっしり、まっ黒に記入しても多い年には六冊、七冊の手帖を書きつぶす。
メモ魔というイヤな言葉がある。
自分で自分のことを魔だなどと思ったことはないが、良識ある人から見ればメモ魔の容疑は充分であろう。
                                        ──「手帖」

¶君子ハ南面スという言葉もあるほどで、われわれの文化はもともと南方志向的である。
家屋もできれば日当たりのいい南向きに建てようとする。
南をあこがれる心理を持っているのだろう。
南は陽、北は陰だが、山陰の人たちがこの陰という字を嫌っているという話をきいたことがある。
やはり南方志向のあらわれである。
                                        ──「北面文化」

¶業者の方ははじめから「いちげん」主義である。
二度来てくれなくて結構、その代わりやって来たカモからは後悔のないだけ絞り取ろうと考えている。
客がまた成上がりレジャー族で恒心がなく、あちこちさまよっていて行きつけのところのない連中が大部分だから、まんまと網にかかる。
ものの使い捨ては批判され出したが、客の使い捨てはいっこうに反省されない。
人間はもの以下なのか。

そう言われてもしかたないくらいお客はふがいない。
豆腐が十円安いからと遠くのスーパーまで買いに行ったりするくせに、いったん旅行に出ると、デノミでも起こったみたいに気前よく札びらを切る。
不当な請求書をつきつけられても腹を立てたりはしない。
もっとも、帰ってきて、十円、二十円が気になるような生活に戻ると、ジワジワ悔恨が頭をもたげてくる。
                                   ──「使い捨て時代」

¶そのうちに(ホテルのテレビは)百円で一時間しか見られなくなった。
こんなところにも値上げはあるのだ。
ワイド番組だと百円では最後まで見られない。
それで、いかにして百円を長もちさせるかを根本は考えた。
まずCMが始まったら電源を切り、終わった頃を見はからってコンセントをさし込む。
こうしてCMのたびに何十秒かずつかせぐ。
Cが長いのはかえってありがたいそうだ。
ぼんやりメーターの進むのにまかせてコインテレビを見るのはお金を払ってCMを見せてもらうお人好しだと根本は笑った。
                           ──「ただではないCM」

¶このごろ医を仁術だと思っている人はない。
お医者の仁術はニンジツと読むのだと思っている。
さもなければ、サンジツでお金持になるのが近代医学の極意なんだろうと、貧乏人がひがみ、ささやく。

仁術でも算術でもいいが、大切なのは、いかにして人ひとりを死なすかのシジツである。
その研究の余地は大いにあると見た。
                                        ──「入院」結び

¶──君には非の打ちどころがないが、ひとついけないところがある。
服を“盗んでいる”ことだ。

おどろいた友人は、とんでもない、これは自分の服だ、と弁明したのはもちろんだ。
相手のイタリア人はそんなことではない。
日本人なのにどうしてヨーロッパの服装をしているのか、と言っているのだと補足した。
友人は二度びっくりした。
思いもかけなかった。

彼は和服をもって行っていなかったが、ぜひと言われるままに、しかたなく、寝間着に三尺帯を巻いて歩いてみせたら、やっぱり、りっぱだとほめられたそうだ。

こちらに借りているつもりがなくても!相手からは無断借用、盗用と見られることがあるから、こわい。
サルマネ日本人という国際的批判も無自覚的借用から出たサビである。
新しい文化を摂取したつもりで、いい気になっていると、思いもかけぬ冷水を浴びせられる。
われわれはどうも借りることを簡単に考えすぎるようだ。
                                  ──「借用・盗用」

¶なるべく近く見せかけて客の足を引こうとする気持ちはわからぬではないが、長い目で見れば結局は信用を失って損だ。
中学校の英語の教科書にあった“正直は最上の策なり”(オネスティ・イズ・ザ・ベスト・ポリシー)を思い出した。
                    ──「距離の“あげ底”」結び

¶大きな荷物を手にエッチラコッチラ歩いている人間の姿はお世辞にも美しいとは言えない。
それに比べると、たとえば、競走馬の見事なスタイルはどうだ。
ほれぼれするではないか。
『ガリバー旅行記』でスイフトが人間より馬の方がずっと高等だ、美しいと言ったのが決して皮肉でも逆説でもないことがわかってくる。
とにかく馬の姿には自然の美しさがある。
                                    ──「重い手荷物」

¶勉強などだれだっていやにきまっている。
放っておいて、甘い顔をしていて、させられるわけがない。
ツトメシイルと書くではないが。
いやでもやらせるのが教師のつとめだ。
笑ってばかりいられるわけがない。
教育者はコワイものだ。
                                  ──「“人間距離”」

¶適当な間合いが必要で、年齢で言えば、年がくっつきすぎても、離れすぎてもいけないのである。
師弟の年齢の差は、私の経験によると、二十五年プラスマイナス五年。
つまり、先生は生徒と二十年以上三十年以下のトシの開きのあるのがいいようだ。
                                    ──「“人間距離”」

¶まず、日曜、休日の朝は思い切り早く起きる。
勤めのある日が七時半起床なら六時ごろ床をける。
(バカも休み休み言え。
休みに早起きしてたまるか、などといきまかずに、まあ、お聞き下さい。)

顔を洗ったら飯は食べずに、ひとりでぼんやりものを思う。
何が頭に浮かぶか知れないが、朝の思想は清純である。
この神聖な時間を新聞の俗悪な記事などで汚してはもったいない。
いけないのは小説を読むことである。
心掛けのいい人は前の晩にプランをつくっておく。
そうでなくても、休みの日の朝読む本がきまっているといい。
日曜画家というのがあるが、休みにまとまった勉強をする習慣があれば日曜学者になることも可能である。

飯を食っていないのだから「朝飯前」の時間が続く。
昼になったらたっぷりおいしいものを食べる。
時起床ならすでに六時間仕事をして相当疲れている。
食事のあと眠くなるだろう。
ふとんに入って本格的に寝る。
雨戸がしめられればいっそう感じが出る。
何時間か寝て目をさまし、さて、もう朝も遅いらしい、寝過ごしたかと錯覚するようだったら成功である。
すなわち、そのときを第二の朝として、それから夕食までをまた「朝飯前」
考え別の仕事をする。
よいことうけあいで、こうして一日を二日にすることができる。
                                        ──「日曜学者」

¶勤め先の同じ連中が集まってしゃべるから、上役の悪口くらいしかサカナにするものがない。
ロータリークラブが支部の会員を一業一人に限っているのは、内輪のことは話題にしないように、なるべくおもしろい会になるように、という工夫であって、さすがと感心する。

一般に会というものをもっとおもしろくしないと、世の中もおもしろくならない。
                        ──「愉しい座談」結び

¶はじめての人に会う前に、その人の書いたものがあれば、それを少し読んで行くと、難しい話も案外すらすらはこぶものである。
インタービュアーで成功している人は、たいていこういう目に見えない努力をしている。
書いたものを読んで、相手の風にあらかじめ吹かれておけば、おのずから気心も知れようというもの。
臨時に相手の心がうつるのだ。
気風という風をもっと大切にしたい。
                                    ──「大切な気風」

¶小さな子供が電車の中で立っているから席をすすめたら、その子の母親が、ありがとうございますが、立たせておいた方がこの子のためですから、と断ったという。
ドイツ人の母子の話で、さすがに向こうの母親はしっかりしているね、という解説がつく。
                          ──「楽々人間」出だし

¶転校はいやなものだが、世の中へ出てみて、はじめてこれがどんなにプラスになるかがわかる。
日本は島国。
民族としても転校嫌いで定住を喜ぶ。
だからこそよけいに動くことを怖れず顔見知りしない雑草文化を目指すべきだろう。

子供の転校を親が怖れなくなるのは、その第一歩である。
                              ──「楽々人間」結び

¶やっぱり、と思ったが、(ひどい目にあった)次の披露宴では珍しい算術を教わった。
1から10までの数を二つに分けて掛け合わせると、1×9=9、2×8=16、……で5×5=25が最大になる。
夫婦も同じ力を持つのがいいというスピーチを社長さんがした。
こういう社長がいるというだけで何だか気の利いた会社のように思われてくるから不思議だ。
                               ──「企業イメージ」

¶自分の名前は小声でしか言わない。
われわれは天孫民族かどうかは別として、ケンソン民族なのだ。
                                    ──「名を惜しむ」

¶英語だと、グッドモーニング、ビルなどというが、日本人はおはようだけだから、グッドモーニングのあとへ名前をつけない。
相手からすれば妙な感じであろう。
                                    ──「名を惜しむ」

¶北海道の小さな駅、幸福行き愛国駅発行の国鉄切符が昨年バカ売れに売れ、三百万枚とか四百万枚とかに達したという話だ。
若ものが結婚のプレゼントなどにしていたのを大企業が目をつけて大量に買い付けた。
                                  ──「実体より名称」

¶シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』で「あいつは他人の言い出したことについてくるような人間ではない」
(He will never follow anything / That other men begin.)
という文句を見つけた。
シセロのことを言ったブルータスのことばだが、そう言われる人間になりたいと思った。

その後、ある陶芸家のことば 
「道を歩かぬ人、歩いたあとが道になる人
にめぐり逢って、これあるかな、と感心したから、こちらにくら替えした。
                            ──「道を歩く」出だし

¶もっとも、雑談を生産的にするにはちょっぴり工夫がいる。
まず、他人の噂話を避けること。
人名が出てくると、話はとかく低俗に流れやすく、夢が語れなくなる。
もうひとつは、なるべく違ったことをしているもの同士が集まって、存分に話せる雰囲気をつくることだ。
同業者の間では話が小さくなっておもしろくない。
                              ──「雑談の効用」結び

¶おしゃれはモノのよしあしによるのではなくて、身につけたものを生かすかどうかにかかっている。
                              ──「身についたおしゃれ」

¶言葉は最大の身だしなみ、最高のお化粧であることは、フランス人がいちばんよく知っている。
お嫁に行く娘にフランスの母親がいうそうだ。

「何ももたせてやるものはないが、美しいフランス語だけはもって行かれるね」

それが何よりの贈りものになる。
日本も早くそういう国にならないかなと思う。
                               ──「身についたおしゃれ」結び

¶すべては金もうけのためだと考えている。
日本の観光業者は日本人の中でももっともひどいエコノミック・アニマルである。
                              ──「ひどい観光」

¶観光業者が心を入れ変えるまで、旅行をしないようにしようと思う。
                              ──「ひどい観光」

¶「仲間」という英語コンパニヨンの語源は、ともに食事をする間柄の意味だという。
わが国でも“同じかまの飯を食った仲”は特別な親しさを感じるし、学校の寮でいっしょだった友人にはたんなる同窓とは違った気持ちをもちつづける。

中国料理は大皿に盛ったものをみんながとり分けて食べる。
西洋の料理でも食卓で肉を切り分ける。
それに対して日本料理は、はじめからめいめいの前に食べものが分配されていて、たいへん個人主義?  である。
                              ──「よき友とは……」

¶それにしても、幼年の歴史がいかに心の中でたわいもなく変容するものか、こんどのことでつくづく思い知らされた。
しかもそういう変形した幼い日の思い出を心の柱として生きてきたのである。
いまさら、その柱は中がうつろだったといわれてみても、これまでの半生をもう一度やり直すわけには行かない。

人間とは、そういうものかもしれない、と思ったりする。
                              ──「幼年の歴史」結び

¶当分は半信半疑、というよりも、まさか、と思っていたが、その後数年して、別の姓名判断の大家からも、また、すばらしい名前だとほめられた。
シェイクスピアの『マクベス』に三人の魔女が出てくる。
その魔女にあなたは王様になると言われてマクベスはその気になる。
一度だけならともかく、二度まで同じことを言われてみると、マクベスではないが、そんな気がしてくるから妙だ。
そのころ、父はいまから思うと死の病にとりつかれて入院中であった。
見舞ったついでに、このことを伝えると、前にはさほどうれしそうな顔もしなかったのに、こんどは喜んで、そうか、そうか、と何度もうなずいて見せた。
それからしばらくして父は亡くなったから、最後にいい親孝行をしたと思う。
                              ──「ジビフル・ジョンブル」

¶勉強も仕事も、果物と同じで、朝のうちが金、昼は銀、夜は銅、深夜になれば石くらいである。
                              ──「朝は金」

¶こういうぜいたくな世の中で子供を育てるには、質実剛健はりっぱな目標になる。
それでこそ心身も鍛錬できるだろう。
不自由がちな生活をしている子供たちには質実剛健と教えたくせに、いまこそ必要だという時代になったら、だれも口にしなくなってしまった。

そればかりではない。
ゆとりのある生活をしよう、豊かな人間性を育てよう、などと言い出した。
豊かさの中で、そんなことを言えば、ぜいたくをすることかと勘違いしかねない。
どうも、いつの時代も教育は逆のことばかりしているような気がする。
                              ──「質実剛健」結び

¶昔、フリジアにマイダスという王様があった。
手の触れるものをすべて黄金にして下さいと神様に願ったところ、願いは過分にかなえられて、食べものまで金になった。
困ったマイダスはまた元のようにしてもらったという話がある。
                             ──「年齢」出だし

¶そのドイツ人夫妻がイタリアのシシリー島でレストランに入り、テーブルにつくと、黙っているのにドイツ語のメニューをもったボーイが流ちょうなドイツ語で話しかけてきた。

どうしてドイツ人とわかったのか。
訊いてみると、椅子の坐り方、タバコとマッチをテーブルにのせた、その仕草でわかった、と答えたという。
                              ──「外国人」

¶西洋でも、世の中でいちばん恐ろしいのは、女房の説法と雨もりだと告白した古い詩がある。
                              ──「モルがこわい」

¶すぐれた外国商品は“ものいわぬ大使”だと言うが、このストーブがそれだろう。
                              ──「ものいわぬ大使」

¶それはそうだが、東と西の違いも、やはりはっきりしている。
タタミの大きさが同じでないなどというのは、どちらかといえば、小さな問題である。
                               ──「所変われば」

¶東の味は塩辛すぎておいしくない、と関西人が批判すれば、東の人は上方の味は妙にあまったるくて、と不平をもらす。
同じ寿司でも江戸前と大阪寿司ではまるで違う。
東がそば中心なら、西はうどんでこい、と自慢する。
                              ──「所変われば」

¶ただ、外国で生活する人たちが日本流のうるさい音をたれ流したら、たちまち“悪者”扱いされることを、外国へ行かない人も、せめて知識としてはもっていた方がよいだろう。
                              ──「大きな音」

¶それにしても、近代のもっとも聡明な知識人だと思っている漱石が稲を知らなかったというのは、やはり子規とともにおどろいていいことであろう。
                              ──「コメのなる木」

¶「学校の廊下や校庭にゴミが落ちていたら拾うか」

こういう質問に対して、拾うと答えた日本の小学生は五%、百人に五人しかいない。

わざわざ「日本」と断ったのは、国際比較調査の結果だからである。
フィリピンの子供は四〇%、シンガポールの小学生は三九%が、拾うと答えた。
                              ──「子供部屋」出だし

¶昔の人は
“売家と唐様(からよう)に書く三代目”
と言った。
初代は裸一貫からたたき上げて、産をなす。
二代目は幼いときに貧しい暮らしを知っているから、大きくすることは無理でも、家を守ることができる。
ところが三代目はいけない。
わがまま放題に育つ。
苦しいことに堪えることが難しい。
ちょっとしたつまずきで、たちまち破滅を招く。
住む家も売らなくてはならなくなる、というわけである。
                              ──「かわいい子の旅」

¶ところが、実際には、秋はあまり本が売れない。
ひどく売れないという声もある。
だからこそ、秋に読書週間があるのだ、という理屈になるのかもしれない。
ちょうど暑くて食欲のない土用は、放っておけばウナギなど食べようとする人はない。
だから知恵者が土用うしのウナギという年中行事をこしらえた、というのと同工異曲か。
                              ──「主婦の読書」

¶「パーキンソンの法則」で世界的に有名なC・N・パーキンソンという文明批評家が歯が悪くなった民族に未来はないとのべている。

それは中国の歴史を見ればわかる、という。
天下をとった部族が美食になれる。
すると歯をやられる。
ナマの食べものを食べている周辺の部族が中央に攻め上ってくると、あっという間に亡ぼされてしまう。
こんどは勝った方がまた手のこんだ料理で歯を弱くして、新手の歯のつよい“蛮族”にとって代わられる。
中国の歴史はこのくりかえしだったとパーキンソンは言うのだ。                                              ──「目と歯」

ラベル:外山滋比古
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2014年06月26日

活字で笑うという初体験 〜遠藤周作『わが青春に悔いあり』〜

110円。
この本の値段である。
もちろん定価ではなく、古本市でのものだが、
「何か安くて(100円前後で)面白そうなエッセイ集でも買ってみようかな」と本当に何気なしに買ったのがこの本だった。

買ってすぐの頃は、何か医者、病院などに関する項を多く目次に見たので、
「なんだ、そういうのが中心なのか。
もっと日常的な話題のエッセイが欲しかったのにな」、
と読む前から期待外れと思っていたのだが、まさに嬉しい誤算で、大変面白い傑作エッセイだった。

この本を読む前は、遠藤周作といえば、あまりに純文学過ぎて近寄りがたいような敬遠の気持をもっていて、著作もキリスト教とか宗教的な題材のものばかりと自分には無縁な作家と見なしていたのだが、いざこの本を読んでみて、いっぺんに遠藤周作が好きになってしまった。
特に、「外国語はムツかしい」の編では、外国語(フランス語)習得時のとんでもないエピソードこれでもかこれでもかと紹介されていて、思わず爆笑してしまい、しばらくは思い出し笑いを禁じ得ないほどだった。

──と書いてくると、この本はギャグばかりなのかと思われるだろうが、そうではない。
これから生きていく上でぜひ知っておきたいこと、大切なことを、箇条書き風に、親切にたくさん教えてくれて、大変ためになった。
どんなことかというと、手術時の様々な心構え、夫婦生活での知恵などの分野に渡ることだった。

またそれだけでなく、いわばエッセイの本流とでも言うべき、筆者の人情味溢れるいくつかの経験も回想風に書かれており、特に筆者が慶応の医学部でなく内緒で文科に入ったことを父に告げると、それを聞いた父は
「出て行け」
と言い、さらに追い討ちをかける強烈な一言
「お前は米くい虫である」
を筆者に浴びせたところなど、まだいくつか心に訴えるような体験談があった。

さらにまた別のエッセイ集、その次は『沈黙』にトライしようと思っている。
                                          (1990.3.20  18歳)

ラベル:遠藤周作
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2014年06月25日

人間とは何かという答えの見付からぬ問い 〜下里正樹『「悪 魔」と「人」の間』〜

自分と七三一は半歩も違わない──
筆者はそう言う。
日本人は、集団の中で己を隠し、行動する性質をもっている。
“赤信号、みんなで渡れば怖くない”
というフレーズがそれを如実に表している。
日本人のそういう集団性の怖さを大いに主張していた。

「丸太」と呼ばれ、様々な生体実験をされた約3000人余りの捕虜達。
この本には、その人間として扱われなかった「丸太」達の無念さも書かれていた。

909号という1人の「丸太」がいた。
彼は、
「娘に、妻に、一目会わせてくれ。
必ずここに戻ってくる」
と懇願したが、受け入れられず、赤痢菌注射で絶命した。
これまで気付かなかった、「丸太」の人間性、感情的なものを知った。
これまで七三一というと、その残酷さばかりに気持が向き、「丸太」側の気持には気付かなかった。

真理探求は、度が過ぎるとこういう人道を外れた“奇形”を生む。
筆者はこのことも強く訴えている。
人間とはいかなるものであるか、という答えの見付からない問いかけをしているようだった。
                                                     (16歳)

ラベル:下里正樹
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2014年06月20日

地球環境論は常に曖昧 〜福岡克也『地球大汚染 黙しているのはもう限界だ』〜

狂気の沙汰としか言いようのない無為の時間が過ぎた。
実質的に、大学時代に入って完読し切った本は、未だにこの1冊のみである。
「実質的に」というのは、小室直樹のカッパブックスなどを買い集めて、それらを部分的に読んでいたりしたからだ。

買ったのが確か今年(1990年)の4、5月。
それから約7ヵ月。
緑ガ丘公園の四阿でほっかほっか弁当を食いながら読み、息苦しく疲れも癒せない電車の中で立ち読みし、読み終わったのが夏休みに入る少し前の、7月初め頃。
これだけでも恐るべき遅さだが、ここまでならまだいい。
問題は、ミニ感想文執筆が、今日までさらに4ヵ月延ばし延ばしになったことである。
言い訳を言って済む問題ではとうの昔になくなっている。

部屋(と呼べる代物では到底ない)ではほとんど全く読まなかった。
いや、読めなかった。
隣のバカ野郎が毎日毎日毎日毎日×100、テレビを声高くして見ているからである。
このバカ男ときたら、ともかく、部屋に入るやいなや、まるで尿意をもよおした人がやっとトイレに入れたかのごとく、すぐさま、即刻、テレビをつける。
そしてつけたまま平気で寝、外出する。
電灯など1日中、ひいては永久につけているのではないか。
決して誇張ではない。
電気代は、新聞奨学生と従業員が使用した総額を、平均して負担して払う仕組みになっている。
つまり、このバカが遠慮会釈なく湯水のように使っている電気代は、私などの平均以下の電気しか使っていない者に上乗せされ、結局バカは得しているのである。
理不尽どころの話ではない。

このバカに関して最も腹立たしかったことは、今年の5〜6月頃のことだ。
この間、私は新聞配達のあまりの過酷さに耐え切れず、大学を1ヵ月以上長期に渡ってズル休みを続けていた。
「耐え切れず」ということはつまり、眠いのだ。
もし自分の部屋が本当の個室だったら、夕刊まで寝ていればいい。
それには何の問題もない。
しかし、この部屋もどきが本当の個室ではなかったため、それはできなかった。
どういうことかというと、このバカ男がいるため、部屋に入って眠れなかったのだ。
1度、眠りかけていた時、大学に行く準備をしたバカが私の部屋を通りながら、
「あれえ!?」
とか言っていた。
必ず何か一言言うのである。
だから、私はソーッと自分の部屋なのに物音を立てないように自分の財布を取って外に出たり、まだ開いていないゲーセンに行ったり、前にも書いたように人目を気にしながら緑ガ丘公園の芝の上で寝たりしなくてはならなかった。
そして、9時、10時、11時とかになって、もういないだろうと思って部屋に帰ってきても、なんとまだいるのである。
それは例のテレビの音と、スクーターのDioによって確かめられた。
だから、私はDioが大っ嫌いになった。
いくらなんでももういないだろうと思って帰ってきて、あのDioがある時の悔しさ、悲しさ。
とても言葉では表せない。
将来私がスクーターに乗る機会を得たとしても決してDioだけには乗るまいと心に誓った。
そこで私は文字通り、JITTERIN'JINNの「アニー」という曲にあるような、
「自転車に乗って毎日ブラブラ」
という自堕落な生活を余儀なくされた。
そこで最も腹が立ったことというのは、“時間を無駄に過ごさねばならなかった”ということだ。
とにかくこの時間は寝たかった。
それなのに寝れなかった。
つまり何もできなかったということだ。
この時間に寝ておけば、夜、目が冴えて、本が読めたはずだ。
ところが寝れなかったため、結局夕刊配達が終わって貧弱なメシを食ったらもう眠いのである。
何もすることがないのだったら本を持っていって公園で読めばいいじゃないか、と思うかもしれないが、午前中にそれだけの意欲があれば大学へ行っている。
とにかくこの時間、私が為すべき唯一の行動は、睡眠であった。
前に書いたように、この本や新聞を、公園で読んだりしたこともある。
しかしあれは稀なことだ。
他にどうしようもなかったから、やった1つの実験的行為だ。
毎日できることではない。
とにかく、あのバカ男のせいで私は時間を無駄に過ごさざるを得なかった、このことが物凄くムカついてしょうがないのである。

さて、そろそろ本題である本の感想に入らねばならない。
内容については、大いに不満だった。
環境問題は今や一般的に大きく広まっている。
みんなの関心事である。
「どうなる」
「どうすればよいか」、
この2点を明確にする必要がある。
なぜなら、これまでの環境問題の論じられ方は、
「このままだと〜になるだろう」
「〜なるかもしれない」とかあまりにも曖昧だった。
歯切れが悪かった。
だから一般大衆の反応も曖昧になる。
また、
「ならばどうすればいいのか」、
これは誰もが思うことなのに、明確な答えはなかった。
だから、汚染がますます進む。
せいぜい、フロンガスの入ったスプレーを買わないようにしよう、とかいうバカげた行動しかとれない。
長い目で見れば それは確かに環境保護運動の第1歩かもしれないが、問題解決の方法として根本的に間違っている。
そんなもん、ごく一部の人が買おうが買うまいが、それに依存している生産体制が存在する限り、関係なく生産され続け、消費され続けるのである。
それに、もはや長い目で見ている余裕などないのだ。

したがって、これからの環境問題論に必要な視点は、正確な事実認識(「こうなるだろう」ではなく「こうなる」という情報)、それに、それに対する具体的対応の方法である。
この2点がこれまでは欠落していた。

私は主に前者の視点をこの本に望んだ。
しかしそれは充分に満たされなかった。
小見出しは衝撃的なことが書いてあるが、内容がそれに対応してないのだ。
それに一番の矛盾は、筆者は
「ところで、ガンは患者に告知するべきだろうか」
と、この危機をガンにたとえている。
ということはもう助からないということが前提となっていなければならない。
ところが後半には
「今が地球を救える最後のチャンスなのかもしれない」
と、いくつかの保全策が書かれている。
助かるのか助からないのかハッキリしろ、と言いたい。
それと事実認識についてだが、この本から学んだことを私が一般大衆に呼びかけるとして、彼らが
「おお、それは大変だ。そんなに事態は深刻だったのか」
と、ある程度の衝撃を受けるような事実を語らねばならない。
でないと意味はない。
ではこの本を読んでそれは得られたか、というと、得ていないのだ。
確かにいくつか衝撃に近いデータもあったが、それでもまだそれらは予想の域を出ていないのだ。
つまり、やはりというか、環境論はこれまで通り曖昧さを残す結果となった。
環境論から曖昧さを除去しない限り、一般大衆が自らの危機として環境問題を捉える日は、いつまで経ってもこないだろう。

これまでは、このミニ感想を書いていなかったため、新しく別の本を読むのも、なんとなく気がひけた。
電車の中で『アメリカの逆襲』を読む時も、
「その前にミニ感想を書いてしまわなければ」
と焦り続けていた。
今、こうしてやっと書き終わったことで、やっと喉に食物が詰まったような感じで食事をするような気分から解放されることになる。
諸悪の根源は新聞配達、新聞“妨”学会である。
私は今この搾取に対する怒りでいっぱいである。

                                           (1990.10.10  19歳)



ラベル:福岡克也
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