2014年07月24日

感受性に賭けるしかない 〜Think the Earth プロジェクト『百年の愚行』〜

もう、地球環境問題も賞味期限が切れかかってきた頃だ。
もちろん、問題は消えたわけではない。
さらに悪化している。
我々が飽きただけだ。
今でも毎年地球上からは北海道+四国+九州分の面積の熱帯林が消え続けている。
マダガスカル島ではかつて国土の8割あった森林が、今では2割となった。

色んな揶揄はあるだろう。
「光と陰の陰だけだ」
「もっと他にもあるだろう」

私にはこの100枚の写真の選択は、なかなか味があるように思えた。

アメリカのワシントン州では低レベル核廃棄物を詰めたドラム缶が無造作に土砂に打ち捨てられている。
1961年アメリカペンシルヴァニア州セントラリア付近の炭鉱で起こった地下火災は現在でも燃え続けている。

1935年頃アフリカで捕まえられ両手を広げて上に縛り上げられたゴリラの瞳は何を見つめているのか。

サンフランシスコの道路料金所は15レーンもあり、全て上から下まで渋滞。

ニューメキシコ州アラモゴルドで人類史上初めて核爆発する時、大気が爆発して地球が破滅する可能性があった。
科学者達はその確率を「100万分の3以下」と算出し、実験に踏み切った。

1984年インド・ボパールで起こった化学工場爆発事故。
最終的な死者数は16000人。
土から顔だけをのぞかせた乳幼児の瞳は、茶色く濁っている。

チェルノブイリで被曝した赤ちゃんの頭が、後ろに細く長く伸びている。
なんだかよく分からない。

1988年アフガンのジャララバードで弾帯を巻いて大の字になって水面に浮いている顔を潰された兵士は、子供なのではないか。

1989年アフガンのカブールの病院でベッドに横たわる地雷により両足を失った少女。
写真は一瞬だが、彼女はこのままこれからの人生を生きていかねばならないのだ。

20世紀に起こった戦争は1億以上の地雷を残し、年間10万個撤去されているが、このペースだと全て除去しきるのにあと1000年かかる。
撤去は手作業のため、年間60人が作業中に死傷している。
撒布の方はハイテク化が進み1分間に1000個撒けるようになった。

白人用と黒人用と分けられた洗面台(1950年アメリカ・ノースカロライナ州)。
アパルトヘイト反対集会に集まった黒人に発砲する白人警官
(76人死亡。1960年南アフリカ・シャープヴィル)。

ルーマニアでHIVの混入した血液を輸血され、HIV感染した4308人の幼児とエイズ発症した5179人の子供。
そのほとんどが孤児である(チャウシェスクが中絶を禁止したため)。

セントルイス号の俯く2人の少女(1939年ベルギー・アントワープ)
後に乗客(907人)のほとんどは収容所に送られた。
まことに写真でしか伝えられないのは表情である。

砂の上に顔を横に向けて横たわり、「死にかけている」ルワンダ難民の子供(1994年旧ザイール・ゴマ)。
ゴミの山の上で座って泣く子供(1996年フィリピン・ルパング・パンガコ)。

99枚目の写真には「死を待つ人々の家」が出てくる。
そう、マザー・テレサ。
救済の象徴、マザー・テレサ。
目の前の1人を救ったとしても、全体から見れば微々たるものでしかない。
しかし1人の人間にできることは目の前の1人を救うことだ。
私がボランティアというものに抱き続ける割りきれないもの。

この100枚の写真を見ると、社会とは何か、政治の目的とは何かという原初が浮かび上がる。
せめて政治家だけでも見てほしい。

全ての人々がこの本を読めば、確実に何かは変わるはずだ。
まだ人々にはこれらの写真から何事かを受けとる感受性が、残されているはずだ。

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2014年07月23日

厚顔無恥な矛盾の書 〜林秀彦『日本人はこうして奴隷になった』〜

徹底的に現代日本を批判し、ついには読者に喧嘩を売る。
救いもない。もうダメだという結論である。
反論する者はいないだろう。
もう“手がつけられない”レベルだと判断して。

「日本人は奴隷である」を初めとする前半の所論は、私と軌を一にするところだった。
それで引き込まれたわけだ。

だが全体は破綻している。
「次に私が一見詩のような短い文節の文章でこの本を締めくくるのは、決して詩作を試みたのではなく、君たちを信じずバカにしている現われだと知っていただきたい」(P.335〜336)
「人間を信じる以外に人間に道はない。
当たり前の話だ」(P.345)
これだけで充分だろう。

「日本人に生まれたことは、呪われたのと同じことだ」(P.330)。
で、
「人類が滅びつつあるとき、日本民族がいかにすばらしかったか、
われわれしか人類を救えなかったのだ」(P.343)
とくる。

様々な哲学書からの引用があり、筆者が博覧強記なのは分かるし、それらの部分部分はためになる。
所詮そういうものしか本に求めてはいけない時代なのだろう。

あくまで己の思想を完成させる材料として読むべきだ。
頭の中で己の世界観の点と点が結び付いていく実感は得られた。

これほどボロカスにけなし「生きていけない」とする日本社会に、筆者はどうやって生きていっているのかと思わざるを得ないが、宜なるかな、筆者はバブルの頃日本を捨てて、18年間オーストラリアで暮らしてきた。
そして死を迎えるために日本に戻ってきたのである。

一体どんな立場からの批判なのか。
筆者は高名な脚本家らしく、加えて哲学の素養がある。
語学も堪能らしく、語源からの解説が多い。

だがとりあえず脚本家の現代社会論としては、随想的な中身を期待するものだ。
それは具体的でもある。
高齢者免許講習の話や入院時の尊大な院長の話、また定住先の大分での演劇指導の話などがそれにあたるのだが、そうしたお望みの場面は少なく、なんだか落ち着かないページが結構な分量続くのだ。
それが語源知識を披瀝しながらの哲学チックな、大学入試の現代文素材に近い部分なのだが、例えば免許講習の話と病院の話に「尊厳」ということの哲学的・言語学的な説明を絡めて延々とやるのだが、要するに
「高齢者免許講習と入院の際、私は人間の尊厳を踏みにじられた」
と言いたいのだろう?  という印象しか残らない。

「ドラマのラッパ」「人間尊厳のラッパ」の章ではこうしたタイクツな文章が続く。
「ドラマのラッパ」の章では筆者の本分の演劇論に力が入る。
演劇とは最高の芸術であり、演劇こそ人間そのものなのだそうである。

かつて矢口高雄の漫画で演劇を崇高に愛する先生が出てきた時に抱いた演劇への違和感は、しかし消えることはなかった。

変なもので評論にも流行り廃りがあり、ひところの「西洋礼賛、日本は遅れている」論の流行から環境問題の生起等を経て「いや日本の良さがありそれが世界を救うのだ」論へと移り変わったが、その伝でいくと筆者の主張は前者である。
でもそれなら西洋(その中心は人間学だが)はそんなに素晴らしくうまくいっているのか?  とツッコミを入れたくなる。
その伝で、
「日本語は非論理的」で
「日本人には創造力がなく模倣しかできない」、となる。
いずれも流行りの文明論では否定されていることである。
それはやっぱりそうなのか?

「インチキゲンチャー」や「限界の根底」という筆者独自のキーワードが出てくるが、「限界の根底」という言葉遣いはどうもピンとこない。

誰にも文章のクセというのはあるのだろう。
筆者の場合は「体言、」の用法が独特で読みにくい。

確かに哲学の素養は高いのだろう。
だが筆者はイルミナティの陰謀を信じている。
もしそれがと学会の言う通りトンデモ論だとしたら、高度な学識が途端に虚しくなってしまう。

個人的には「遺伝計量学」に関する記述が一番ショックだった。
バカの子はバカという……。




タグ:林秀彦
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2014年07月19日

青春時代の恋愛こそ人生至上のものである for「踊子」 〜浅田次郎『見知らぬ妻へ』〜

◆「踊子」
珠玉である。
誰しも1編だけだったらこうした物語を人生にもっている。
触発されて私も書いてみたくなった。
先にやられた感もある。

「死ぬまで損なわれず、傷つきもしない宝石のような記憶を、ナオミは僕の胸にそっと置き、そしてたぶん僕も、ナオミの白い腕にそれを托したと思うから」(P.41)

村上春樹『風の歌を聴け』の最も好きな一節を彷彿とさせる。
青春時代の恋愛はまさに一生の宝であり、換言すればそれこそが人生の目的なのだ。

「忘れない」という言葉も重要だ。
お互いがお互いを「忘れない」と言い合っている。

ひと夏の恋愛だった。
ナオミは同棲している大学生の子を孕んでしまい、産む決意をして中央本線で帰っていくのだ
(コーはその大学生を袋叩きにし、ナオミと別れさせるのだが)。

幕開けのシーン、出会いのロング・キスシーン、そして別れのシーン……。
実に素晴らしい。

性的な描写はあるが、主人公コーとナオミは情交していない。
代わりにコーから譲られる形で親友のマモルがナオミを抱く。
といってもコーは18歳の高校生ながらセフレが3人いる。
なおかつ回想している30年後の現在は医者になり社会的成功も収めているとくれば、セフレなど絶無で社会的地位もない私は嫉妬せざるを得ない。

朝まで踊れる螺旋階段の店にいる時少年課の一斉補導が入り、外に出て逃げ出そうとするコーにいきなりナオミがキスをして恋人のふりをすることによって助けたのが2人の出会い(=恋の始まり)なのだが、ファインプレー賞はそのラブ・シーンをしばらく観賞して
「たいがいにしろよ」
と見逃した刑事かもしれない。

青春時代の火の出るような熱い恋愛が、人生には必要なのだ。

◆「スターダスト・レヴュー」
スターダストというサパー・クラブで主人公圭二がピザソースを作るシーンなんか特に、『テロリストのパラソル』を彷彿とさせる。

10年前にチェロを捨てた圭二
(今はスターダストでピアノの弾き語りをしている)
が凱旋記念コンサートで今や世界的指揮者となった関東交響楽団音楽監督小谷直樹と再会し、オーディションとして10年ぶりにチェロを弾くシーンはよかった。
演奏イコール節子を回想するシーンなのである。

ただ、圭二の別れた恋人節子が小谷の妹だというのが判りにくい。
圭二と別れた後小谷と結婚したのかと誤解していた。
では圭二が小谷に感じた「暗い嫉妬」(P.75)とは何なのか。

普通物語の設定としては、圭二のチェロの腕前は極上でなくては収まらぬはずだが、圭二がオーケストラをドロップ・アウトした理由(節子と別れた理由)は指揮者からヴァルガー(下品)と言われたからだし周囲も同調している様子だった。
またオーディションの結果も小谷に 
「暗い音」「何のために、こんなことをした」
と言わしめるものだった。
ならば小谷はなぜそんなに圭二の腕前を買いかぶっていたのか。

圭二の節子への愛も、
「夢に見ぬ日は、一日もなかった。
君はどうか知らないが、僕は十年の間ずっと、君を愛し続けてきたよ」(P.76)
と言うが、
「本当のことを言うと、君と恋をして結婚すれば、僕の未来は拓けると思っていた。
つまり君に恋するより先に、僕は君の家に恋をしていた」(P.77)
「あなたが好きですと言ったのは君の方だった。
正直のところ、僕はあのとき感激するより先に、しめたと思った」(P.78)
とあるので感情移入できない。

さらに言うと
「高校生のころからずっと、僕らみんなのマドンナだった」(P.76)
節子がなぜ「内気で変わり者」(P.76)で「まわりに敵も多い」(同)圭二に惹かれたのかの描写も弱い。

圭二が後半でエリ
(十代の家出娘の頃知り合った。赤坂の夜をくらげのように漂っている。最後は圭二のアパートに居候することになる)
を抱いた後
「けさのエリは妙に自分と似合った。
エリが変わったのだろうか。
いや、そうではあるまい」(P.74)
との描写があるが、これが
「勝手ばかり言ってすまないけど、君を愛することは、もうやめる。
赤坂も、それほど悪い町ではないから──」
との決意につながっているのだろうが、結局節子を諦めるのは本心なのかどうかがはっきりしない。
本心ならもっと強い現在の生活(赤坂)への思い入れの描写があってしかるべきだ。

結びも、
「『ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン』
牛刀を握って俎板に掌を置いたとき、さて右にしようか左にしようかと、圭二は少し迷った」(P.82)
となっているが、「右にしようか左にしようか」の意味が解らない。
あえて謎を含ませているのか。
まさか掌を切ろうとしているのではあるまいが。

◆「かくれんぼ」
『20世紀少年』のような趣がする。
題は「もう、いいよー!」の方がよかったのではあるまいか。

結局ジョージが行方不明になった真相は明かされぬままである
(英夫の推理するように恨み重なる
(ジョージはパンパンのあいのこだから差別された)
町への復讐としての狂言という蓋然性が高いが
(と書いたら「大がかりな狂言よりも、そう(失踪だと)考える方がやはり自然だろう」(P.112)とある)、
そうするとジョージの母親の立ち去る時の「恨みがましい目つき」(P.110)の説明がつかない)。

刑事が聞き込みに来た時英夫は
「一緒に遊んだけれども、夕方かえで山で別れた」(P.110)
と答えたが、
「口裏を合わせたわけではなかったが、由美子も同じ答えをした」(同)。
偶然としてはできすぎであろう。

英夫と由美子との「乾いた結婚生活」(P.113)
(由美子は結婚前に武志と付き合っており、英夫との結婚は腐れ縁の尻拭い(これもよく考えると分からないことだが)だという考え方)
はこの少年時代のトラウマとつながりがあるという設定なのだが、由美子がその事件の起きた日である8月9日に英夫に一緒にかえで山へ行ってと頼む理由が
「私、あなたのこと好きだから。
信一や紀子のおとうさんっていうだけじゃなくてね、あなたのこと愛していたいから」(P.116)
となると、ムリヤリ感が出てくる
(ちなみに結びの一文は
「汗ばんだ頬が肩にもたれかかったとき、英夫は妻を愛していると思った」(P.122)
で、整合性は見事にとれている)。

それにしても登場人物が簡単に社会的成功を収めている奴ばっかり(子供もエリート校生)で妬んでしまう。

◆「うたかた」
なかなかの良品である。
房子は幸せの象徴である団地から離れたくなかった。
そこは房子の人生そのもので、それを失うことは考えられなかった
(団地は取り壊されることになっていた)。


世俗的には房子は人生の成功者のはずだった。
ただ、10年前に夫を亡くした。
子供は2人とも成績優秀で、息子は一流商社のニューヨーク支店長となり新聞記者になった娘はフランス人と結婚してパリ在住となって、外国へ出ていったのだった。
もし国内だったら……。
もちろん2人とも、母に一緒に暮らすように促してはいた。

ところで現場検証している刑事のうち上司の方は
「倅はおまわり。娘は売れ残っている」(P.127)
という家庭状況で、部下に
「最悪の環境ですねえ」(P.128)
と言われてしまっている。
しかしこれは最高というアイロニーなのではないか。

団地にはほぼ同時に同年代の家族が大挙入居し、子供達はやがて成長して独立し、そして房子以外の老親達は子供の元へと引っ越していった。

房子と他の住人達との違いは何だったのだろうか。
房子には餓死以外の道はなかったのだろうか。
房子は社会的成功を収めては、幸せな人生を築いてはならなかったのだろうか。

◆「迷惑な死体」 
一気に読ませてしまう。
コミカル風味である。
加藤良次(24歳。駆け出しのヤクザ(3年目))が部屋に帰ると見知らぬ男の死体が横たわっていた。

どうするのか(ヤクザだから素直に警察に届けるわけにもいかない)。
この男は誰なのか。
誰がこの男を殺したのか。
この場を誰かに見られたら、犯人扱いは免れないだろう。
ドキドキハラハラとなる。

男は巨大組織「関西」が同「極竜会」に全面戦争を仕掛けるために送り込んだ殺され役の鉄砲玉・村野だった。
死体の始末を命じられたのは極竜の末端のチンピラ、清水(駅前でトルエンの密売をしている)。
良次は一晩だけ清水にアパートの部屋を貸したことがあり、その時清水は鍵をコピーしていたのだ。
で、始末に困って良次の部屋に、という次第。

ただ、話をコミカルに終わらせるために、清水が死体を良次の部屋に置いたのは一時的、ということになった。
最後に清水はワゴン車で死体を引き取りに来るのである。
そこのところがリアリティ面から見るとなんだかなあ、となる。

良次には幼なじみの恋人澄子がいる。
掛け値なしに一途に良次を愛している。
元はエリートの彼氏がいた。

初めてパクられた時身柄引き受け人として来てくれたのだが、
「でも俺──その晩あいつにひでえことをした。
俺のこと惚れてるんだって思ったから。
そんなはずねえよな。
俺、あいつにひでえことしちまった」(P.168)。

ちょっと待て。
時系列が混乱する。
つまり「あいつの部屋で日記のぞい」(P.167)て彼氏の存在に気付いたのは「ひでえこと」
(明示されていない。無理矢理体を奪ったということか)
をした後、ということか
(日記のくだりが先に書いてあるのだが)。

澄子は働きながら夜間の大学を出て一流企業のOLとなった。
苦労して身を立て、そしてエリートの彼氏を得た。
その絵に描いたような幸せコースをだらしない自分に振り向かせることによって壊してしまったのではないかと、良次は自責の念に駆られているのだ。

だから結びで、母に
「『おふくろは、おやじが飲んだくれだから一緒になったんか』(略)
『だからさ、あんなおやじだったから、気の毒に思って嫁さ来たのか』」(P.174)
と尋ねているのだ。

それに対して母はこう答えた。
「『そうじゃないよ。あたすは、おとさんに惚れてた』(略)
『(略)女っていうのはね、おまえの考えるほどやさしくはないよ。
嫁こさ来て苦労ばっかすると思ったら、まっぴらごめんさ」(P.174)。

つまりおふくろは澄子であり、澄子の良次への愛が本物であることを示唆している。
再読で、初読時に気付かなかったことがこれほどクリアに浮かび上がったのは初めてのことだ。

◆「金の鎖」
ちょっと反則気味、の感。
奇を衒い過ぎたか。
中川千香子
(40代。美人。トップ・ファッションメーカーのエース・デザイナー)
は、かつての恋人桑野浩之に生き写しの彼の息子に出会う。

「浩之を今も愛している。
あれからいくつもの恋はしたけれど、これは恋ではないと自分に言い聞かせていた。
そしてひとつの恋が終わるたびに、やはり愛しているのは浩之だけなのだと思った」(P.180〜181)。

で、これが嘘なのだ。
「偽りだったけれど、過ちだったとは思わない。
自分にとっても、誰にとっても必要だった嘘は、罪ではあるまい」(P.202)。

彼女が本当に愛していたのは、渡辺
(会社を一緒に大きくしてきた古くからの同僚。部長)
だった。
ところが親友だった佐知子
(彼女もまた天才的なデザイナー)
がその渡辺と結婚した
(そして彼女は3年前に癌で急死した)。

「西陽に隈取られた佐知子の微笑が、眩しくてならなかった。
だから、ありもせぬ感情を、行きずりの男の記憶の上に塗り重ねた。
そうして渡辺に対する感情を、虚偽の壁の中に塗りこめてしまおうと思った」(P.193)。
そして
「初めての男を忘れられなくて、結婚もしないファッション・デザイナー」(P.185)
を装っていた。

だが渡辺は、千香子の嘘に半ば気付いていた。
「だが、俺は半信半疑だったよ。
(略)
ともかく、俺はあんまり信じちゃいなかった。
佐知子が言うには、そのヒロちゃんとのことがトラウマになっちまってて、真剣な恋愛ができないんだって。
言いわけだろ、それは」(P.187)。
「もしかしたらおまえは、いつもそうやって飽きた男を捨ててきたんじゃないのか。
悪女になりたくないから、初めての男を勝手な偶像にまつり上げて、心変わりを正当化してきたんじゃないのか」(P.189〜190)。

筆者としては渡辺の鋭さを描きたかったのだろう。
しかしあまりに完全な鋭さだと、別れの儀式
(佐知子に渡辺と付き合っている(結婚する)ことを告げられた後、千香子は「1時間だけ渡辺を貸して」もらい、自分の気持を整理する)
の時に千香子が
「サッちゃんのこと、幸せにしてあげてよ、ナベさん」(P.195)
と涙を流したのに対して
「おまえ、いいやつだな」(P.195)
と頭を撫でてしかやらなかった彼の鈍感さと齟齬をきたしてしまうので、「初めての男を勝手な偶像にまつり上げ」たところまでは見抜いたものの、その狙いまでは見通せなかった
(飽きた男を捨てる心変わりを正当化するため、と解釈した)
ということにしたのだろう。

だがそのあおりでP.189の
「私、ナベさんの気持が初めてわかったの」
以下のくだりが極めて分かりづらいことになってしまった。
渡辺が何に対してキレているのかが掴めない。

千香子が本当は浩之でなく渡辺が好きなのだということを読者に伝えるシーンで、
「朴訥で誠実な、いつも朝早くから夜遅くまでタグの付けかえをしたり、ラックを担いで階段を昇り降りしている、恋愛などとはおよそ無縁な感じのするに、恋をしていた」(P.193、太字引用者)
とあるがこれはいただけない。
婉曲表現主義の悪例だろう。
ここは絶対に、「男」でなく「渡辺」でないといけない。

ボス
(千香子らの会社の社長。20年で会社を100倍にした)
のはからいで、千香子は渡辺と結婚しそうな、本作中では珍しいハッピーエンドの予感を残してこの小編は結ばれる。

「金の鎖」とは、彼女が別れの儀式の後シャンゼリゼの小さな宝飾店で買った金のブレスレットだった。
それを腕に巻いて、彼女はこれは浩之が買ってくれたのだと
「奥歯をきつく噛みしめながら自分自身に呪いをかけた」(P.196)。

その「縛めを解」(P.206)き、その金の鎖は浩之の息子にやった。
千香子にとって浩之はあくまで
「どうでもいい行きずりの男」
でしかなかったが、物語の設定としてはやはり深く濃く愛し合った設定の方がよかったのではないか。

別れの儀式のシーンの出だし、
「その夜、トロカデロ広場のテラスから見たパリの夜景を、千香子は忘れない」(P.194)。
煌めく名文である。

◆「ファイナル・ラック」
競馬ものの、ファンタジー。
最後まで、通読する気を催さなかったがやっと通読してみてもまあ叙情詩みたいなものか。
筆者に傾倒している人なら満足して読むのだろう。

ビギナーズ・ラックをもたらしてくれた予想屋の老人がタイムスリップ?してきて野崎一郎
(ビル・メンテナンス会社の営業。四半世紀競馬に通いつめている)
にファイナル・ラック
(50万円×40倍=2000万円。団地からマンションに移るのだろう。伏線が張ってある)
をもたらす、というもの。
他に含みは何もない。

ただ、一郎が競馬をするのはこれで最後、という書き込みが弱く結びにしかないため、P.231の妻のセリフ
「何だかかわいそうな気がするけど、たったひとつの楽しみまで取り上げちゃうみたいで」
の意味がとりにくい。

友達の梶山
(出世していく銀行員。巨額の使い込みをする)
の自殺の意味のもたせ方も今一つ。

奥野健男が太宰の「帰去来」だったかを「書かずもがなの作品」と評していたが、そんな観がある。

◆「見知らぬ妻へ」
チラッと漫画で読んでいた。
題がうまい。
「妻を見知らないってどういうことだ?」
とそそられる。

ただ、今となっては「へ」が気になる。
手紙とか伝言といった要素は感じられない。

あらためて振り返ってみるとありきたりな話ではある。
ボッタクリバーのキャッチ(客引き)をしている花田章が、中国人ホステス
(客と泊まる、すなわち売春する。ヤクザ昭和会に管理されている。
「日本中の昭和会のシマをたらい回しにされて、体がぶっこわれるまでコキ使われる」(P.271)運命となる)
玲明
(レイメイ(リンミン)。27歳。「雇う側にとってかけがえのない女であることは一目瞭然」(P.255)な容姿)
と偽装結婚し、情を移していくというもの。
一般受けしたのはその舞台となる裏社会の淫靡さの紹介が受けたのだろう。

クライマックスシーンで玲明は走り去ろうとするバスの窓から、花田にもらったペンダントを投げ返す。
それを受けてこうある。
「玲明がペンダントを投げたのには、深い意味はないのだろう。
もしかしたら男がそれを取り返すために、後を追っていると思ったのかもしれない」(P.275〜276)。

ブチ壊しである。
何を言っているのだ。
玲明から花田への愛の証しだろうが!

それにしては確かに、なぜ玲明が初対面から花田に媚びたのかの書き込みが弱い。
花田でなくても誰であっても、偽装結婚をして自分を守ってくれる男だったら同じように媚びたのか。
そうだとすると確かに花田プロパーへの愛、とは言い難くなる。

離婚後唯一自分を慕い
「東京の高校へ行く」
と言ってきていた娘(中学生)との電話での会話は全編を伏流しているのだが、玲明との別れの後の会話が分かりづらい。

「〈おにいちゃんがね、絶対だめだって。おとうさんも喜ぶわけないって〉
(略)
〈(略)私ね、苗字かわっちゃうんだよ。あいつがそうしろって、そうしなきゃだめだって〉」(P.277)。

東京の高校へ行くことに対して、なのだろうが確証が弱く読んでいて不安になる。
兄が「おとうさんも喜ぶわけない」とする根拠も「?」である。
で、そのことと苗字がかわることはつながりがあるのか。

それまで花田にとっては、
「娘の意思を拒否するのは、神が祈りを拒むことと同じ」(P.249)
であり、
「娘からの電話が(略)命の絆のようにも思える」(P.239)
ほどのものだった。

それをきっぱりと遮断する。
玲明を失い、それなら娘をとるというのなら分かるが、これでは自暴自棄との違いが鮮明でない。

ともかく花田は全てを失ってしまった。
玲明を失ったことがどうして娘も断つという判断に結び付くのかの説得力が乏しい。

そして総じて玲明の内面描写が弱い。
これもまた婉曲表現主義の悪弊でなければよいのだが。

「接吻は不幸の味がした」(P.259)。
痺れるねえ。
ここは「キス」でも「口づけ」でもなく、「接吻」でなければならない。
                             (2013.12.27〜2014.1.1  42歳)


タグ:浅田次郎
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2014年07月15日

暇潰しにもならぬ文章力のなさ 〜和久峻三『赤かぶ検事奮戦記23 嵯峨野光源氏の里殺人事件』〜

文章が読みやすい、というのが小説の重要な要素の1つではなかろうか。
あるいは肝腎のストーリー構成力と並ぶほどの。
だから村上春樹がNo.1なのだ。
ミステリーでは東野圭吾、宮部みゆきなのだ。
巷間過大に評価されている宮部みゆき人気の謎の答えが1つ解けた気がする。

例えば
「そこは、茶室風にしつらえられた部屋で、真ん中に大きな掘り炬燵があり、足を伸ばして座れるように座布団が配置されていた」(P.97)
という文がある。
なぜ座布団が配置されていると足を伸ばして座れるようになるのか、さっぱり分からない。
こんな文に出くわすと、読む気が失せる。
こなれぬ言葉の結び付きは無数に見られるし、読点は不必要に多い。

こうした違和感をもたらす様々なバリエーションに共通するよってきたる要因というのは、端的に言ってしまうと行数稼ぎに他ならないのである。
ああ、また冗長主義批判をしなくてはならなくなった。

思えば以前、私は松本清張『けものみち』を読んで、その満ち充ちる悪文を類型化して整理したことがある。
ひたすら労力の要った作業であった。
それと同じ気持に駆られているが、あらゆる意味でその余裕がないので、それはしない。

主立った3点だけあげると、
@中止法あるいは並列で異なることではなく同じことを繰り返したり、
A「すると、こういうことだね?〜」と言って話を再び繰り返してまとめたり、
B1度思いついたフレーズを“異口同音”に話させたりする。

@の例。
「そう言えば、夕顔の上品な身のこなしや、おっとりとした風情ある立ち居振る舞いなどから考えても、下町の女のそれではなかったことに源氏は気づきます」(P.114)。
「身のこなし」と「立ち居振る舞い」はどうちがうのか。

Bの例。
「現代の女性の心の中にも、夕顔のような可憐でやさしい気持ちと、その一方では、六条御息所のように好きな男を独り占めにしておきたいと願う妄執や、嫉妬に身を焼く“恋の鬼”が、じっと息をひそめながら同居しているんじゃないでしょうか」(P.42〜43)、
これは行天燎子
(諏訪警察署の警部補。行天珍男子(うずまろ)(同じく諏訪警察署の警察官)の妻)
のセリフ。
「それどころか、女心の中には、必ずと言っていいくらい、六条御息所が棲んでいるのではないでしょうかね。
つまり、愛する男を独り占めにしておきたいと願う、愛の妄執とでも言いますか、嫉妬に身を灼く恋の鬼が、人を愛する女の心の中に、いつも、息をひそめるようにして棲みついているのではないでしょうか……」(P.115)、
これは錦部哥夜子(六条御息所)のセリフである。
「妄執」なんて言葉を違う2人が偶然使うはずがなかろう。

一番の問題点は、なぜ当然最大の関心点に話の流れがズバッといかないのか、という点である。
これも行数稼ぎか。

殺された北本英一カメラマンの残したフィルムに、犯人の姿がバッチリ写っている
(そもそもなぜカメラマンに撮られるような所で殺したのか?)。
で、その犯人が明かされるのは5ページ後である。
それまでは他のコマの写真の話をしているのである。

石塚真津子
(石塚輝雄(光源氏。諏訪温泉の老舗旅館「石長」の7代目当主、社長)の妻。葵の上)
はトロッコ列車から錦部と山添増雄(錦部の従弟)に突き落とされたのではないかということになるのだが、それなら乗客が満員だったのだから目撃者がいるのではないかというごくまっとうな疑問には全く言及されることなく話が進んでいく。

『源氏物語』では六条御息所が夕顔と葵の上を呪い殺すので錦部が疑われる形で話が進んでいくのだが、では夕顔こと玉置静香(23歳。石塚の愛人)と北本カメラマンが殺された時のアリバイは? という話も一切出てこない。

長峰警部補(京都府警)と行天燎子と赤かぶ検事
(名前は柊(ひいらぎ)茂。長野地検松本支部勤務)
が錦部の家に行って話を聞く時も、さっさと追及を進めずに錦部に『源氏物語』の講釈を許し、夕顔が呪い殺される話が終わると次に葵の上が呪い殺されるくだりを話そうとし、赤かぶ検事もそれを止めるどころか要望するのだ。

読み手としては冗長部分・読みにくい部分を捨象し、ストーリーのみを再構築し直す必要を迫られる。
この程度の文章力でも作家になれるのだと解釈すれば希望をもたらしてくれる作品ともいえよう。
                                     (2014.1.21  42歳)



タグ:和久峻三
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2014年07月12日

己を愛し、然る後に人を愛すべし。されば愛されん 〜瀬戸内寂聴『生きることば あなたへ』〜

「愛したとたん、苦しみがはじまるのが恋というものです」(P.6「まえがき」)。
なるほど、愛とは苦しみなり、か。

「孤独は人間の本性なのです」(P.8同)。
俺以外の人はそうは見えないが、そうなのか。

「逢った者は必ず別れます。
別れのつらさには、決して馴れるということがない。
いくどくり返しても、別れはつらく苦しい。
それでもわたしたちは、こりずに死ぬまで、人を愛さずにはいられない。
それが人間なのです」(P.11「一  わかれ」扉)。
唯一の例外は本物の恋愛だと思うのだがなあ。

「逢った人間は必ず別れなければなりません。
死なない人間がいないように、別れのない人間どうしの関係も
ありえないのです」(P。22同)。
会者定離。
無常……。

「人との出逢いのあとには、必ず想い出が残されます。
(略)
生きるとは、人に出逢い、やがて別れていくこと」(P.32同)。
サヨナラダケガ人生ダ……。

「生きている与えられた限られた時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います」(P.40同)。
死んでいく時は独りなのだから……。

「人間が好きで、だからこそ小説書きになったわたしにとっては、人との出逢いが、たといそのため、苦痛や悲哀を伴っていても、生きている何よりの証しとして嬉しく有難いことに思われます。
まことに、人はなつかしく、恋しく、哀しいものです」(P.42同)。
出会いこそ生きている証し、か。

「人は孤独だから互いに手をつなぎ、肌と肌であたためあおうとします。
心と心で語りあいたいと思い、相手をほしがるのです。
自分の孤独をわかってくれる相手がほしい。
そしてその孤独を分かちあってほしいのです」(P.57「二  さびしさ」)。
でも誰でもいいというわけじゃあない。

「自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない」(P.61同)。
俺は充分孤独だと感じているがなあ。

「自分はこんなにさびしいのだから、あの人もきっと人恋しいだろうと思いやった時に、相手に対して同情と共感が生まれ、理解が成り立ち、愛が生まれるのです」(P.64同)。
思いやりから、愛は生まれる。

「愛する人があって、自分が愛されている自覚が、生きることにはいちばん大切なうれしいことです」(P.75同)。
あまりにも当たり前過ぎることの再確認。

「孤独に甘えてはいけません。
孤独を飼い馴らし、孤独の本質を見きわめ、自己から他者の孤独へ想いをひろげるゆとりを手に入れないかぎり、孤独の淵から這い出ることはできないのです」(P.78同)。
おっと、ピリッときた。

「男の背のさびしさに気づき、それに惹かれてしまったら、女はもう、その男に捕らえられたといってもいいと思います」(P.81同)。
背中で語る、か。

「『時』はその人とともに生きつづけます。
肉親よりも、夫婦よりも、空気や太陽よりも、人は自分の時と永遠につきあわなければならないのです。
そして時をふり返るというのは、よほど幸福な時か、ほんとうに孤独に打ちひしがれた時であるようです」(P.85同)。
まさに今。
もちろん後者。

「恋愛が下手、恋人ができないという人は、相手の気持ちを察する想像力に欠けている人です」(P.116「三  くるしみ」)。
誰だ、えらそうに「現代人は想像力が欠けている」と言っていた奴は。

「女は恋人の上に理想の男の仮面をかぶせ、ほんとうの恋人と思いこんで身をやいていきます」(P.117同)。
なるほど、これが女性の恋か。

「み仏は、ただ向こうから何かを与えて下さるのではなくて、人間のなかに自分で立ち上がり、自分で考える力をよみがえらせて下さるのだと思います。
それにみ手をかして下さるのです」(P.145「四  いのり」)。
他力本願を誤解すべからず。

「死者の魂は、生き残された者がいかに、彼らのことを切に思い出すかによって輝きます。
死者を忘れないということは、自分の原点を忘れないということです」(P.156同)。
自分の原点は、吉田松陰だ。

「人を怨む心ほど辛いものはありません」(P.159同)。
愛の対極。

「神や仏は、人間の弱さのすべてを見とおして、すべてをゆるし、受け入れ、励まし、ときには叱ってくれるものなのです。
(略)
わたしたちが忘れていてもいつでも一方的にわたしたちを見守り、はらはらしながら、弱いまちがいの多いわたしたちの生を大過なきよう、幸せであるよう祈ってくれている力なのです」(P.166同)。
最も得心できる神仏論。
「はらはらしながら」というのがいい。

「自分をよくととのえたなら
自分こそ得がたい
主人になるだろう
(法句経一六〇)」(P.175同)。
己を客観視するというのは真理なのだなあ。

「幸福になるためには、人から愛されるのがいちばんの近道です。
そのためにはまず、自分が自分を愛さないといけません。
よくがんばっているなと、自分をほめる。
そして自分が幸せな気分になるのです。
自分が自分を愛して幸せになったら、そのあなたを見て、必ず人が近づいてきます。
するとその人も幸せになり、自分ももっと幸せになる。
幸せとは、循環なのです」(P.190「五  しあわせ」)。
つまり、頑張らないといけない。

「みんな自分の身に起きた不幸が、世界一のように思いこみたがります。
けれども世の中には不幸と同じくらいの幸福もばらまかれているのです」(P.201同)。
むむっ、よく見ると「世の中には」か。
「自分」じゃないの?

「自分以外に心にかかる人がいるということ、それが生きる喜びです」(P.202同)。
自分ではないわけか。

「大いに人を愛し、たとえそこで傷ついても、次にさらに愛は深まることになるでしょう。
恐れることはありません。
傷を恐れていては愛することはできないのです」(P.209同)。
ノブと同じこと言ってるなあ。

「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです」(P.214同)。
ん?  「才能に努力しつづける」?

「『己れを忘れ他を利するものは慈悲の極みなり(これを「妄己利他(もうこりた)という)』
自分の幸せだけを考えない。
自分の利益だけを考えるような生き方はしない。
自分の生きていることが人の幸せにつながるよう、自分を犠牲にして他の幸福のために奉仕する。
そういう生き方をしてこそ、わたしたちはほんとうに生きているという、生きる喜びにつながるのだと思います」(P.216同、カッコ内引用者)。
堤さんを思い出すなあ。

「どうせ何かの縁で引き受けてしまった以上、どの仕事も喜びをもって心から進んでやりこなすのです。
厭々することには情熱は湧きません。
情熱の湧かない仕事は成功するはずがありません。
仕事をはじめるとき、必ずこれはできる、うまく予想以上にできると自分に暗示をかけます。
必ず成功するのだから嬉しいはずだと自分にいいきかせます。
すると、やりたい気持ちが盛り上がってきて、肉体も精神もいきいきしてきます」(P.217同)。
仕事の方法。

「昔のこと、済んだこと、いやなことは忘れて、かわりにいいことはいつまでも覚えているようにしましょう。
(略)
腹の立つことは毎日毎日いっぱいあります。
いっぱいあるけれどそれにこだわっていたら、ただでさえ悪い器量が、ますます悪くなります。
だからそういういやなことは忘れようと決めたのです。
それからは気持ちがとても楽になったのです」(P.218同)。
長生きの秘訣。

「愛というのは、人を喜ばせること、人のために尽くすことです。
それには気持ちの先まわりをすること。
相手がいま、何を欲しがっているかを見抜き、そのことをしてあげる。
いやがることはしない。
愛とは、想像力です」(P.219同)。
では“自己愛”とはなんだ?

「自分のなかで表現されたがっている命のうめき声を聴く能力を持たなければ、わたしたちはものを創るきっかけがつかめません。
そのうめき声を聴きとる耳と心を持つには、努力して自分を磨いていかなければならないのです。
そのためには自分が好きなことを一生懸命やってみることでしょう。
どれをやっていいか分からないときは、片っぱしからやってみたらいいのです。
そうすると、自分が一番好きだと思っていたものが二番目で、それよりもっと好きなものがあったのに気がつくこともあるのです」(P.220同)。
「命のうめき声」か。


既成仏教が権力=体制の護持役にしか過ぎぬことは歴史が証明しているところであり、オウム事件でも見たところであった。
「仕事があることはとても有り難いこと」(P.186)
「どこでも自分の置かれた場所で一生懸命努力すればそこに真の生きがいを見いだせる」(P.198)
あたりはその役割を遺憾なく発揮している。

しかし筆者の面白いところは、単なる仏教徒(仏教が全て)ではない点である。
「神や仏」という言い方をしている。
そして原爆犠牲者の例をあげ
「わたしは仏教に帰依した者ですが、因果応報という意味を、このような形では納得できません」(P.162)としている
(ちなみに彼らには「定命」(じょうみょう)があったのか?)。
ある意味仏教批判であろう。

この線を伸ばしていくと、反体制志向が垣間見えるところまでくる。
「しかしいつの時代でも、掟からはみだし、その罰を骨身のたわむほど受けても尚、反逆の道を歩かねばならない人間がいます。
その人の流す血によってのみ、女の歴史は書きつづけられているような気がします」(P.120)。

出典一覧(本作はアフォリズム集である)には
『瀬戸内寂聴・永田洋子  往復書簡─愛と命の淵に─』
の書名も見える。
まあしかし別に反体制志向までいかなくとも、仏は
「すべてをゆるし、受け入れ」(P.166)
るものなのだから、本来の仏教は永田をも許し受け入れるはずなのだが、逆に体制護持に回っているのは摩訶不思議というしかない。

「わたしは宇宙と一つにとけあった自分を感じ、山の聖霊の気がからだじゅうに流れこむのを受けとめていた」(P.221結び)。
宇宙との一体感。
これはP.176にも出てくるのだが、私は宇宙まではいかないにしても、P.176〜177にある
「大自然の雄大さ、美しさが心を満たし、自分という卑小な存在が、山河大地と一体となり、自若として動じない大安心が得られるように思えます」
というような大自然との一体感なら味わったことがあるのだ。
あれは忘れもしない、初めてRと会った後福智山に登りその山頂に立った時のことだ。
大自然に吸い込まれ、溶けてしまいそうな感覚に陥った。

またP.221といい
(「その夜はたまたま中秋の名月であった」で始まる)、
P.204〜205といい
(「鈴虫をくれた客が帰った夜、ひっそりとした庭におりて、わたしは、いただいた鈴虫をどこに放とうかといい場所を探してまわった〜月光の下でわたしはふと、浄土だなと思っていた」)、
まるで散文詩のような趣の文章もある。
後者は見開き2ページで、センター寄せの配置がしてある。

アフォリズムは最長が見開き2ページで、ほとんどは1ページのセンター寄せである。
最短は1行。
段落・行頭1マス空けもなく(この辺はネット的)、必ずしも行末まで埋められず、詩のように途中で行替えしているところもある。
おのずと余白が多い。
私もこのような装丁で本を出してみたい。
字数(分量)も少なくて済み、読者もサクサク読めるから一石二鳥というものである。

P.101の
「一(いち)を十(じゅう)にきりかえてしまう」は、
「−(マイナス)を+(プラス)にきりかえてしまう」
の誤植であろう。

筆者は
「出家とは生きながら死ぬこと」(P.45)
と言う。
この辺の境地は、私などに分かるべくもないのだろう。
                                   (2014.1.2  42歳)

タグ:瀬戸内寂聴
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2014年07月10日

惜しいところで埋まらない宮部みゆきとの距離感 〜宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』〜※ネタバレ

コメディ・クライム(クライム・コメディ?)と呼ぶらしい連作短編集である。
表題作「ステップファザー・ステップ」以下
「トラブル・トラベラー」
「ワンナイト・スタンド」
「ヘルター・スケルター」
「ロンリー・ハート」
「ハンド・クーラー」
「ミルキー・ウェイ」
と全7編から成るが、既読の『峠』『見知らぬ妻へ』の読書録執筆も完結していないので、さすがにここは各編ごとに書いていくのはやめておこう。

筆者自身
「ライトなライトな仕上がり」
と評している通りで、連作仕立てではあるが一応1編ごとにごく軽めのミステリーが含ませてある。

それにしてもこの文庫本はなんと第57刷で、世人が
「いま、宮部みゆきが断然スゴイ!」
などとそこまでもちあげているのが読後をもってしてもどうしても解せない。
私自身の宮部みゆき体験というのは『理由』で
「なんとまあ朝日新聞が好きそうな作家なことよ」
やられてしまったから。
ただ『模倣犯』は映画で観てわけが分からなかったから原作にあたってみたいとは思っていたが。

宗野直(ただし)と哲(さとし)という双子の中学1年生が、セリフの短い部分部分を交互に喋る。
すると行数が稼がれる。
筆者が自分で
「会話を割って行数を稼ぐなんて、三文作家がとる姑息な手段である」(P.257「ハンド・クーラー」)と言う次第になる。
これは村上春樹『1973年のピンボール』で既出なのだ。

そして本作の双子は徹頭徹尾明るくかわいく描かれている。

だからこそ、たいへんに惜しかったのは(これが本稿の最重要点)「ヘルター・スケルター(周章狼狽)」であった。
もしここで私の思い通りの展開であったなら、私の宮部みゆきへの評価も変じていたろう。

ここまで全くのノーマーク固定キャラだったこの双子が、実は両親
(ともに同時に愛人と駈け落ちし、双子を遺棄した)
を殺した犯人ではないのか? という展開になったのである。
残念ながら真相はシロだった
(ダム湖から引き上げられた車中から発見された2体の白骨死体とも両親のものではなかった)。

主人公の「俺」
(職業的な泥棒。35歳。双子の疑似親父)
は疑われていることに気付いた哲が自分の料理の皿に毒を盛ろうとしていると勘違いして激しく詰め寄ったのだが、その後の“仲直り”も今一つ釈然としないものだった。

「トラブル・トラベラー」の結びは
「考えてたんだよ。
君らは実の親を『父さん、母さん』と呼び、俺を『お父さん』と呼ぶ。
なぜ、俺には『お』がつくんだろう。
案外、深い意味があるのかもしれない──と」(P.109〜110)
なのだが、「案外深い意味」にはついに触れられずじまいだった。

筆者は意図的にエロを避けているのだろうが……。
哲の担任の灘尾礼子先生
(美人。25、6歳。強姦されて、全面否認している犯人の公判の尋問に出廷するために双子の妹と入れ替わるというトリックを使う)
は「ワンナイト・スタンド(1日限りの芝居)」で登場した後も出てくるのだが、「俺」は口説こうと思った割には進展は全くなかった。

そしてついに、双子の両親は最後まで直接登場することはない
(電話では登場する)。
物語の締め括り的には消化不良感が残るのだが。
「俺」も父親の声は最後に留守録で聞きはするのだが、ついに写真も見ず顔は分からないまま終わるのである。
写真を1枚も見ることがないというのも不自然な話だ。

「俺」がパイル地のシーツに右足の小指の爪を引っかけて剥がすシーンでは、声を上げて笑った(「ヘルター・スケルター」)。

今私は、定まった運命をあらかじめ知ることのできぬ焦燥感に身を焦がしているところなのだが、そんな時には次の「ミルキー・ウェイ(天の川…自訳)」の結びがふさわしい。

「明日のことを思い煩うことなかれ、だ。

天の川の流れつくところが何処かなんて、いったい誰に知ることができる?
運命も、未来の出来事もそれと同じようなものだ。
行くべきところに行き着く。
だからそれまでは、流れのままに気楽にしていこう。

それで充分、俺たちは幸せなのだから」。
                                        (2013.12.30  42歳)

タグ:宮部みゆき
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2014年07月09日

ひたすら連絡、移動、会議 〜東野圭吾『白銀ジャック』〜※ネタバレ

パッと見よく分からない題名であるが、「ジャック」というのは「ハイジャック」「バスジャック」のジャック、すなわち「スキー場ジャック」という意味である。
スキー場に爆弾が埋められ、金
(「身代金」という言葉を使っているが違和感を覚える)
を要求する脅迫状が次々に届く。
犯人は誰か。

もう1つ、昨年入江香澄
(義之の妻。達樹(当時小4)の母)
に激突しスノーボードのエッジで頸動脈を切断して死なせてしまい逃げ去った犯人は誰なのか。

私が脅迫犯として疑ったのは、1に入江義之
(スキー場を恨まず、損害賠償を求めていない。「現実を受け止めさせる」という理由で息子とともに宿泊しにきている)、
2に桐林祐介
(1回目の金の受け渡しの時、金を運ぶ根津昇平
(パトロール員のリーダー的存在。準主役)
の後でリフトに乗っていた。直後に置いた金がなくなったので彼が関係しているのではと思った。タネ明かしでは回収したのは増淵英也
(“二次犯人”の1人(もう1人は桐林)。北月町長増淵の息子。桐林とは友達で、入江香澄を死なせた「犯人」)、
とあった。しかし彼のボードの腕前は大したことはなく、
「だとしたら、スキーにしろスノボーにしろ、かなりの腕前だ」(P.130)に反する)
だった。

桐林は半分当たったことになるが
(あくまで“二次犯人”だから)、
入江は後半で根津と倉田玲司
(主役。40歳過ぎ、独身(最後には藤崎絵留(28歳。美人。パトロール員)と結ばれる)。索道部(リフトやゴンドラの運行を行う)マネージャー)
が疑い出したから犯人の可能性は消えた。

大穴で日吉老夫妻
(夫は浩三、妻は友恵。初登場時から北月エリア
(本作のカギを握るスキーエリア。新月高原スキー場中、採算がとれないお荷物ゲレンデで、新月高原ホテルアンドリゾート株式会社がスキー場を売却するために、ここに爆弾を埋めて雪崩を起こし、そうして転売時に切り離そうとしたのだった。つまり真犯人は筧純一郎社長、中垣ホテル事業本部長、松宮忠明索道事業本部長、宮内総務部長、増淵町長らなのだった。爆弾を実際に埋めたのは小杉友彦社長秘書。北月エリアが営業停止されたことで北月町は大ダメージを受けなんとか再開をと懇願したが、会社は経費がかかるので昨年の事故を口実にクローズしておいた方が都合がよかった)
に拘っていた。実は売却先の星雲興産会長。結局北月エリアを含めて買い取ることにし、ハッピーエンドを作り出す)
かと射程を変えたが、別の意味の意外な正体だった。

真相を補足しておくと、英也と桐林は、爆破計画を阻止するために
「爆弾を逆手にとってスキー場を脅迫する」(P.388)
ことにしたのだ。
クロス大会の開催が決定しており、そのコースを作れるのはアタックコース・ゴールドコース・北月コースの3つしかなかった。
脅迫状の中で、北月コースのみに安全宣言を出した。
すると大会のコースは北月コースに作るしかなく、そうすると北月コースは営業再開するしかなくなるので、したがって爆破はできなくなる。

脅迫(現金授受)は計3度行われているが、2人は1度目と2度目しかやってなく、3度目のは初めから取引中止→爆破にもっていこうとした真犯人連中によるものだった。

2人が警察に届けなかった理由は、英也が
「父親を犯罪者にはしたくなかった」(P.388)から。
2人がなぜそこまでスキー場を守ろうとしたかの根拠が弱い。
それに肝腎の奪った金はどうしたのかは分からないままだ。

「英也によれば、運搬役に『荷物を背負った状態で斜度四十度の斜面を滑走できること』という条件を(真犯人らが)つけてきたのも、そうすれば必ず藤崎絵留が選ばれると見越したからだろうとのことだった」(P.391。カッコ内と太字引用者)
とあるが、なぜ根津は選ばれないのか。
根津だって滑れるのだ。

3度目の授受の際、これまでとの相違点として、
@電話にホテルの館内放送が聞こえていたこと
A以前はボイスチェンジャーを使っていたのに
「今回は口にハンカチか何かを当てて声をくぐもらせている感じ」(P.290)だったことがあるのだが、推察はできるものの、解決編で明確な言及がなかった。

それにしても、倉田と絵留が結ばれるのなら、根津と瀬利千晶
(20歳前後。「吊り上がり気味の目と大きな口」(P.26)「なかなかかわいい」(P.149)。本格的なスノーボーダーで、クロス大会にも出場する)
も結ばれそうなのに、これはあえて予感を匂わすに留めたのか。
絵留も
「根津君好みだと思うけど」(P.149)
と言っているが。

これまでの東野作品は単なるミステリーではなく、プラスラブロマンス、プラスファンタジーといった付加要素があった。
少なくともラブストーリーは必ずあったのだが、これはミステリーのみ。
読み進める原動力やワクワク感も今一欠けた。
東野作品としては、いかがなものだろうか……。
                                          (2014.1.11  42歳)


タグ:東野圭吾
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2014年07月08日

愛する者にとって幸せな道を選ぶという生き方 〜東野圭吾『秘密』〜※ネタバレ

「和室では直子が明日の準備をしていた。
時間割を書いた紙を卓袱台に置き、それを見ながら教科書やノートを鞄に詰めていく」(P.134)。

これがおかしくってたまらないのである。
「直子」は平介(39歳。自動車部品メーカー「ビグッド」の生産工場勤務)の妻(36歳。「最近は少し太り気味で、小皺も目立つようになっていたが、小さなことにこだわらない、表裏のない性格は、一緒にいて気持ちがよく、楽しかった。頭のいい女でもあった。藻奈美(2人の娘。11歳、小5)にとっても、いい母親だと思っていた」(P.32))なのだが、それは意識(魂)で、肉体は藻奈美なのだ。

母子は長野でのスキーバス転落事故に巻き込まれ、藻奈美のみが奇跡の生還を果たすが、中身(意識・魂)は直子に入れ替わった。
つまりファンタジー・ミステリーというわけである。

ここで展開の興味が2点に絞られる。
1つは、やがては藻奈美の肉体には本人の魂が戻り、直子との本当の別れがやってきてそれがフィナーレとなるのだなあという展開予測と、もう1つは2人の“性愛”の行方である。

心は妻だが身体は娘──。
いくらでも陰猥な展開が広がるが、あいにく東野はそういう系の作家ではなかった。
16歳の「直子」と1度試みかけたことがあったが、やはり断念している。

「直子」は中学生、高校生と成長していく。
平介と「直子」の生活が続けば続くほど、「直子」との別れのシーンの辛さが増していく。

だから終わってほしくなかった。
いつまでも続いてほしかった。
だが、そんなわけにはいかない。
直子の言う通り、
「どんなことにも終わりはある」のだ。
そしてこのことは、私の追い求めているテーマとも通底する。

平介は小6〜高2にかけての「直子」と過ごした。
高2の夏、
「藻奈美の身体に藻奈美の魂が戻り、直子が消えた」。

しかしそれは、実は直子の演技だった。
平介が「直子」を藻奈美として扱い、彼女の父親になろうと決意したのを受け、直子は自分を消し藻奈美になりきろうと決意したのである。

いうまでもなく平介への愛を貫くためだ。
世間体など全て捨ててしまう覚悟があれば別の選択もあり得たろうが、それがなければそうするしかなかった。
こうして2人は愛し合いながらも別れることになる……。

25歳で「直子」は根岸文也(詳細後述)と結婚する
(「直子」は大学病院の助手になり脳医学を研究する道を進む)。

4度泣いた。
直子が肉体として死に、「藻奈美」が目を覚ますシーン(P.22〜26)、
母子を引き上げた消防団員の話のシーン
(「我々が見つけた時、大人の女性一人が下敷きになっているように見えました。
ところがよく見ると、その女性の下に女の子が隠れていたんです。
女の子を庇うように、女性が覆いかぶさっていたわけです。
様々な破片が突き刺さったりして、女性は血みどろでしたが、女の子は殆ど無傷でした」)(P.33)、
「直子」が三郎(直子の父)の蕎麦を食べるシーン(P.281〜282)、
そして「直子」が「消える」シーン(¶@)。

読み始める前に巻末の作品紹介
(「妻と娘を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだ筈の妻だった」)
を読んだのは失敗だった。
本作自体の作品紹介を載せるという粗雑なことをするのは文春文庫だけだろう。

ミステリーの方にも触れないわけにはいかないので触れておく。
事故を起こしたバスの運転手梶川幸広は、給料を多くもらうために無理を押し過労を重ね、それが事故につながった(彼自身も事故で死亡)。
彼には離婚した前妻・根岸典子(札幌在住。ラーメン屋を営む。元ホステス)がいて、ひそかにその間の「息子」文也の大学進学資金として毎月10万円以上を2年間ほど送り続けていた(梶川の現在の妻征子と娘(逸美。中2。征子の連れ子)はそれを知らず、貧乏暮らしをしていた)。
文也もそのことを知らず、幸広は女をつくって自分達を捨てて逃げたと思い込んで憎んでいた。

しかし文也は幸広の子ではなかった。
典子は幸広と結婚する直前、とっくの昔に別れた昔の男と
「1日だけ付き合ってくれ」
と頼まれて情交し、それでできた子供が文也だったのだ(文也もずっと本当の父を知らなかった)。

幸広は本当の父が自分でないことを知り、文也の父親としてやっていけないといって家を出たのだった(典子は8年間幸広を「騙し続けていた」(P.372)。真の父親が幸広でないことに気付いていた)が、その後文也にとって父が自分であるのとないのとどちらが幸せかを考え、あえて文也の父親であり続けることにしたのだった。

幸広の選択の指針は「自分が愛する者にとって幸せな道を選ぶ」というものであり、これは平介が「直子」に対して、そして「直子」が平介に対してとった選択ということにもなるのである。
                                                     (2014.1.7  42歳)

§名シーン§
¶@曲が流れるのとほぼ同時に彼女は目を開いた。
しかし平介はすぐに話しかけたりはせず、さっき藻奈美といた時のように海を見つめた。
彼女も同じ方向を見ていた。

「ユーミンのCDなんて、よく買えたわね」
彼女が口を開いた。
落ち着いた声だった。

「顔から火が出そうだった」

「でもがんばって買ってくれたんだ」

「直子が好きだったからな」

また少し黙って海を見た。
海の表面は眩しく、見つめていると目の奥がちくちくと痛んだ。

「最後にもう一度ここへ連れてきてくれてありがとう」
直子がいった。

平介は彼女のほうに身体を向けた。

「やっぱり……最後なのか」

彼女は彼から目をそらさずに頷いた。

どんなことにも終わりはあるのよ
あの事故の日、本当は終わるはずだった。
それを今日まで引き延ばしただけ」
そして小声で続けた。
「引き延ばせたのはあなたのおかげよ」

「もう少し何とかならないのか」

「ならないわ」
彼女はかすかに笑った。
「うまく説明できないけど、自分のことだからわかるの。
もう、これで、直子はおしまい」

「直子……」
平介は彼女の右手を握った。

「平ちゃん」
彼女は呼びかけてきた。
「ありがとう。さようなら。忘れないでね」

直子、ともう一度呼ぼうとした。
しかし声にならなかった。

彼女の目と唇に微笑が浮かんだ。
そのまま静かに彼女は瞼を閉じていった。
首がゆっくりと前に折れた。

平介は彼女の手を握ったままうなだれた。
だが涙は出なかった。
泣いてはいけない、と誰かが耳元で囁き続けていた。

しばらくして彼の肩に手が置かれた。
顔を上げると、藻奈美と目が合った。

「もう行っちゃったの?」
と彼女は訊いた。

平介は黙って頷いた。

藻奈美の顔が歪んだ。
彼女は彼の胸に顔を埋めてきた。
わあわあと泣き出した。

娘の背中を優しく撫でながら、平介は海を見た。
遠くに白い船が見えた。

ユーミンは『翳りゆく部屋』を歌っていた。(P.428〜429。太字引用者)







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2014年07月07日

レインスティックに込めた愛 〜東野圭吾『夜明けの街で』〜※ネタバレ

男と女が出会い、そして別れる。
切ない。
特に最終局面で出会いの場面を回想されるともういけない。
『宮本から君へ』の「検問突破!」がそうだった。

不倫がテーマの、甘美なラブ・ロマンスである。
ミステリーもあるが、私にとっては重要でない。
男は建設会社第一事業本部電気一課主任の渡部、30代後半。
女はそこへ派遣社員としてやってくる仲西秋葉、31歳。

「小さめの顔は奇麗な卵形で、鼻筋は定規をあてたように真っ直ぐだった」
「和風美人タイプの整った顔立ち」(P.10)。

渡部には2歳下の妻有美子と幼稚園に通う子の園美がいる。
だから不倫に煩悶する渡部の内面描写がずーっと続く。

それにしても秋葉を想う気持に気付き久しぶりの恋愛の感覚に浸る初期の渡部の内面描写はよかった。
楽しかった。

果たして最終的に渡部はどうするのか。
渡部は秋葉をとる決断をした。
翌日妻にその話をすると決めた。

しかしクライマックス・シーンの後、秋葉は言うのだ。
「もう一緒にはいられない」(P.361)。
「あたし、あなたのことを利用してた」(P.362)。

理由は、
「あの人たち(父の仲西達彦(経営学の客員教授をはじめ色々な仕事をしている)と叔母の浜崎妙子(バー「蝶の巣」のマダム))を苦しめるため。
あたしがどんな不道徳なことをしたって、あの人たちはあたしを責められないから」(同)。
もう1つは、
「不倫を体験したかった。
どんな思いがするものなのか知りたかった」(同)。

もちろん、これは嘘である。
彼女が本当に渡部を愛していたことは、別れのシーンの涙が証明している。
それでも渡部が秋葉にしがみつかなかったのは、小さくまとまらせたかったのか。
「きみにどんなことが起きても、必ず守ってやるって約束したじゃないか!」
と叫んでほしかった。
有美子は実は夫の不倫に気付いていたが、母子とも捨てられることはなくなった。

2人の愛の期間は、9月(推定)〜翌年3月までの7ヵ月だった。
なんと濃密な7ヵ月であっただろう。
秋の温泉宿への泊まり旅行、
アクロバット的に会ったクリスマス・イブ(¶@)、
秋葉のけなげさが浸みるバレンタイン・デー(¶A)、
秋葉に妻との離婚の決意を告げる横浜デートその1、
レインスティック(これが題名の方がよかったのではないか。
題名に惹かれて読んだのだが、『夜明けの街で』という題名は必然性がない)
を傾け手をつなぐ横浜デートその2(¶B)、
秋葉が目に涙を滲ませセックスをしたホワイト・デー(¶C)……。

そうなのだ。
必要なのは自分にとっての秋葉なのだ。

さて、ミステリーについても軽く触れねばなるまい。
渡部が最終的に秋葉をとるのかどうかと、もう1つの焦点は東白楽強盗殺人事件の時効が成立するかどうかだった。

秋葉は 
「三月三十一日。
その日が過ぎれば、いろいろとお話しできるかも」
「その日はね、あたしの人生にとって、最も重要な日なんです。
その日が来るのを何年も……」(P.49)
と言っており、のみならずこのセリフは後でも出てくる。

そして2人が付き合うきっかけとなったともいえるセリフ、
「それ(謝ること)が出来ればどれほど楽か……。
素直に謝れるぐらいなら、あたし、こんなに苦しくない──」(P.33)。

この2つにより、秋葉は犯人ではないことになる(実際そうだったが、しかしそのために後者のセリフが宙ぶらりんになってしまっている)。

本条麗子(達彦の秘書。
達彦の愛人とされていたが、真相は真の愛人である妙子の存在をカムフラージュするために(真の不倫相手が妙子であれば、自分にとって妹なので母は離婚届に判を押さなかったから)愛人に仕立て上げられた)
は殺されたのではなく、自殺したのだった。

それを秋葉が殺したと勘違いした達彦と妙子が、秋葉への疑いを逸らすために、強盗の仕業に見せかけようとして偽装工作したのだった。

秋葉は2人に感謝するどころか罰を下すことを決意する。
「お父さんからいわれたとおりに嘘をついている間に(秋葉は死体を見て気絶したので何が起きたか全く知らないことにしろと2人に指示された)、あたしは決心した。
真実は時効の日まで黙っていようって。
あたしが黙っているかぎり、お父さんと妙子さんにとって、あたしは殺人者。
二人はあたしを守らなきゃいけない。
起きてもいない犯罪を隠蔽したという十字架を背負うことになる。
それが罰だと思った。
本条さんへの償いでもあった」(P.360)。

最大の疑問点は、なぜ秋葉は自分が殺していないことを黙っていたのかということ。
P.354にはこうある。
「でも、(父は)あたしには一度も訊かなかった。
本条さんを殺したのかって。
それであたしは決心した。
訊かない以上は、あたしも答えない。
あたしが殺したと思い込んでいるのなら、それでもいいって」。

秋葉は、偽装工作してくれるのは自分を助けるためだとは思わなかったのだろうか。
思っていれば、訊かれなくても
「私が殺したんじゃない。
自殺したのよ」
と答えているはずである。
答えないためには2人への相当強い憎しみが必要である。

で、その根拠付けとなったのが麗子の遺書(せめて秋葉には現物を持ってきてほしかったが)。
「彼女はお父さんのことを愛していたのよ。
それがどれほど深いものなのか、遺書を読んで初めて知った。
そんな彼女に対して、この人たちは、信じられないほど残酷な仕打ちをしたのよ。
恋人は本条さんという暗黙の了解の陰で、ずっと密会を続けてた」(P.358)
「この人たちは最低の人間なの。
生きる価値なんてない。
この人たちはね、自分たちの不倫関係を隠すために、一人の女性を犠牲にしたのよ」(P.357)。

今度はなぜそれほどまで(15年間かけて罰を下さないといけないと思うほどまで)秋葉は強く麗子に肩入れするのかという根拠付けが必要になってくるのだが、まあこれくらいにしよう。
犯行の偽装工作者が真犯人を勘違いしていたというのは、確かにミステリー的には斬新である。
                                        (2014.1.5  42歳)

§名シーン§
¶@八時ジャスト、僕はレストランに到着した。
店を囲むように張り巡らされたガラスの向こうに東京の夜景が広がっていた。
ボーイに案内されて窓際の席に行くと、黒いワンピースを着た秋葉が座っていた。
僕を見上げた彼女の瞳は、少し潤んでいるようだった。

「来ないかと思った」
彼女は言った。

「まさか。どうして?」

「だって」
彼女はふっと吐息をついた。
「元々無理なことだから」

「無理じゃないよ。約束は守っただろ」

「うれしい。でも……」
彼女は俯いた。

「なんだ?」

秋葉は僕を見つめ、手を伸ばしてきた。
彼女の指先が、テーブルに置いた僕の手に触れた。

「うれしいけど……こわい」

「何いってるんだ」

僕はボーイを呼び、シャンパンを二つ注文した。

12

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。

その時間が輝きに満ちていればいるほど、そしてそれを得るために払った犠牲が大きければ大きいほど、一瞬の後に僕の手から離れてしまう。

イブの夜を僕たちはホテルで過ごした。
秋葉はこれまでのどんな時よりも美しく、かわいく、さらには妖艶だった。
僕たちは裸で抱き合い、セックスをしては見つめ合い、後から振り返ると恥ずかしくなるに違いないような愛の言葉を交わし、気持ちが高まってくるとまたセックスをした。

眠ってしまうのが惜しくて、僕は彼女に腕枕をしてあげた状態でも、がんばって目を開けていた。

「眠くなったら眠っていいからね」
本心とまるで違う言葉をかけた。

大丈夫、と秋葉はいった。
だけどその数分後、彼女は寝息をたて始めた。
デジタル時計の表示は午前二時を過ぎていた。

秋葉の髪の匂いを感じながら僕は目を閉じる(P.135〜137)

¶A「二日ぐらいどうってことないよ。
もっと長い間、籠ってたことあるもん」

「長い間?」

僕が訊くと彼女は膝を抱え、その腕の中に顔をうずめた。

はっとした。
何かが頭の中で弾けた。

「年末にカナダに行ってたというのも嘘だったのか」

秋葉は答えない。
僕は彼女の肩に手を置いた。

「どうなんだ?」

彼女の肩は震えていた。
やがて細い声が聞こえた。

「あなたを苦しませたくないから……」

僕は首を振った。
かけるべき言葉が何ひとつ思いつかなかった。
僕は彼女の身体を抱きしめた。

「でも幸せ」
秋葉はいった。
「今夜会えるなんて、夢にも思わなかった」

輝く雪が僕たちに降り注いでいた。
僕は雪面に目を落とした。
彼女が描いていたのはハートマークだった。
ハートには矢が刺さっていた。(P.189〜190)

¶B食事の後、中華街を二人で散歩した。
外国の民芸品を揃えている店があったので、冷やかすことにした。
秋葉はレインスティックというものを手にした。
竹で出来ていて、中に細かい砂でも入っているらしく、傾けるとザーと雨が降るような音がするのだ。

「インドネシアの森の中にいるみたい」
そういって彼女は目を閉じ、竹筒を傾けた。
「果物を採りに森に入ったわけ。
そうするとにわか雨が降ってきて、あたしたちは大きな木の下に逃げ込んで、降り止むのをじっと待っているの」

「あたしたち?」

「あたしとあなたよ」
秋葉は目を閉じたままでいった。

「傘は持ってないのかな」

「そんなもの必要ないの。
だって、永久に降り続けるわけじゃない。
雨はいつか止むもの。
濡れたって平気」

「寒そうだな」

「寒くなんかない」
彼女は目を開け、じっと僕を見つめた。
「二人で手を握り合ってるんだから、全然寒くない。
お互いの体温を感じながら雨が降り止むのを待つの」

「降り止まない雨はない……か」

「あなたも目を閉じて」

秋葉にいわれ、瞼を閉じた。
森をイメージした。
隣に秋葉がいる。

そして雨が降ってくる。
細かい雨が二人の身体を濡らしていく。
僕は手を伸ばし、指先を動かした。
彼女の指に触れた。
僕たちはしっかりと手を繋いだ。(P.258〜259)

¶C「あたしをどこかに連れていって。
二時間でいいから。
その後は家に帰っていいから」

「秋葉……」

「不安なの」
彼女は悲愴な目をしていった。
「あなたが家に帰ると思うだけで、どうしようもなく不安になる。
もうあたしのところに戻ってこないような気がするの。
そうでないというんなら、あたしの我が儘をきいて」

彼女の訴えは、僕の心を揺さぶった。
辛い思いが伝わってきた。(略)

わかった、と僕は答えた。

僕たちが入ったのは、古びたラブホテルだった。
芳香剤の匂いがしみこんでいるようなベッドでセックスをした。
秋葉が上になった時、僕はどきりとした。
その目に涙が滲んでいたからだ。
しかし僕はそのわけを訊かなかった。
訊くのが怖かった。

「約束してほしいことがあるの」
セックスの後で彼女がいった。

何、と僕は訊いた。

「あたしにどんなことが起きても、必ず守ってくれると約束して。
あなただけはあたしの味方だと信じていたいの」

僕は息を止めた。
秋葉の言葉の意味を考えた。

「どうしたの?  約束できない?」

僕は彼女の髪を撫でた。

「そんなことはない。約束するよ」

よかった、と呟き、秋葉は僕の胸に手を置いた。(P.312〜313)

¶D※クライマックス
「さっきいったことは嘘」
秋葉は微笑んだ。
「あなたでなくてもよかったってことはない。
やっぱりあなたでよかった。
すごく楽しかったし、どきどきした。
ありがとう」

彼女の瞳が涙できらきらと光るのが、薄暗い中でもわかった。
少女のように無邪気な表情をしている。
十五年前に戻ったのかもしれない、と僕は思った。

最後のキスをしようと、一歩前に出た。
ところがそれを察したように彼女は後ろに下がった。

「もうだめ。ゲームオーバーだから」
そういうなり秋葉は手を挙げた。
一台のタクシーが、僕たちのすぐそばで止まった。

「送っていくよ」

僕の言葉に彼女は首を振った。
涙で頬を濡らしながらも微笑みを残し、無言で車に乗り込んだ。
僕は窓越しに覗き込んだが、彼女はこちらを向こうとはしなかった。(P.363〜364)

¶E「だから、考えたんだって」
秋葉は僕の手を握ってきた。
「レインスティックよ」

「あれが何か?」

「いったでしょ。
二人で手を繋いでいれば、どんなに冷たい雨が降ってきても全然寒くない。
お互いの温もりがあれば、じっと雨が降り止むのを待てる。
降り止まない雨はない。
きっとこれから、いろいろな苦労が長雨みたいに降ってくるんだろうけど、あたしは耐えられる。
あなたと一緒ならね」

中華街の民芸品店で、秋葉がなぜあんなに熱心にレインスティックを傾けていたのか、僕はようやく理解した。
彼女は自分の決意を確認していたのだ。

「手を繋いでいてくれる?」
秋葉が訊いてきた。
彼女には珍しく、甘えるような目つきをしていた。
だがその目の奥には、断崖絶壁を背にしているような必死の光が宿っていた。

否定などできるはずがない。
僕は握った手を自分のほうに引き寄せた。
彼女の身体は僕の胸に飛び込んできた。

「当たり前だろ」
そういってしまっていた。(P.263)

¶F「いつもあなたは精一杯のことをしてくれた。
イブの日だって、バレンタインデーだって。
あたし、一生忘れないと思うもの(略)」(P.280)

¶G「俺、帰るよ」

「どうして?」
大の字になったまま彼女は訊いた。

「君が酔ってるみたいだから」

歩き出そうとする僕の足に秋葉はしがみついてきた。
「行かないで」

(略)

僕は腰を落とし、彼女の肩に手を置いた。
「もう休んだほうがいいよ」

「渡部さんは?」

「俺は帰るよ」

「だめ」
彼女が抱きついてきた。
「こんなところで一人にしないで」

6

(略)

ゆっくりと秋葉の身体を抱きしめた。
指先は彼女のしなやかさを感じ取った。
彼女の体温が、静かに僕のほうに流れてきた。

なぜ彼女が泣いているのかわからなかった。
(略)

僕たちは唇を合わせた。
(略)

(略)
僕は秋葉の肩に手をかけ、自分のほうに引き寄せた。

彼女は抵抗しなかった。
そのまま自然に僕たちは抱き合い、再びキスをした。
(略)

唇を重ねながら、こんなことをしていると取り返しのつかないことになる、と考えていた。
(略)

僕は彼女をベッドに連れていこうとした。
彼女がいった。
「電気、消して」

「そうだね」

僕は電気を消した。
闇の中で僕たちはもう一度唇の感触を確かめ合った。
目が少し慣れてからベッドに移動し、同時に腰掛けた。

「ごめんなさいね」
秋葉がいった。

「どうして謝るんだ?」

彼女は答えなかった。

僕たちはゆっくりと身体を横たえていった。(P.68〜73)


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2014年07月03日

偽自己の仮面をかぶり損なった者の悲劇 〜井戸誠一『呪われた人々』〜

今の時期に、この本に出会ったというのも因縁的である。
「家族」というもののもつ2つの側面について考えさせられた。
社会制度の中における家族という一般論と、私的な、あくまで個人的問題としての現実の家族について、である。
そして「家族」について考え巡らすことは、自分の運命にも連なる。

家族とは何か。
それは社会支配制度における、最底辺の政治的・経済的単位である。
社会制度上、秩序をなすためには人間は、それを形成しなくてはならないのである。
性質上、それは人間の本性の抑圧にはたらく。
ただ、いくらそれが社会的強制とはいえ、始終顔を突き合わせていれば情が湧くものであり、世の大勢・主流を成す“円満”な家族というものの大部分はこれであろう。
それに加えて、私にはとてつもなく不思議な力と言わざるを得ない、“慣れ”というものもある。
いくら不本意とはいえ、とりあえず一緒にいればなんとかなり、うまくいく。
全ての婚姻が偽物とはいわない。
“本物の愛”で結ばれた婚姻は本物であり、貴重である。
だが残りの大部分は、仕方なしに社会的義務として結婚したのだろう。
そうでなければ、全くの作られた関係である見合い結婚の説明がつかない。
そのくせ人々は、統一協会の“無作為抽選式”合同結婚式を、自分達も本質的には同じことをしているくせに、「非常識だ」とけなす。
ちょうど、建前では女遊びをするような、あるいは女性遍歴の派手な男性は結婚相手として敬遠せよというくせに、実際にはでは1度も恋愛経験のない男性がいいのかとなるとそっちも気味悪がるのと同じである。

うってつけのエピソードを見付けた。
森鴎外が今まさに死なんとする時に、「実家裕福の後妻」(意味不明瞭。妻の意としておく)は耳元で
「パッパ、パッパ、パッパにいま死なれたら、私たちはどうして生活していけばいいの!」
と叫んだという。
以後、鴎外の無二の親友だった賀古鶴戸は二度と森邸を訪れることはなかった。
そこには、肉親の離別に対する一片の人間的悲しみもない。
ここに、私の言いたいことの重心はある。

私は最近、
「(いわゆる)親であること」、
さらに進んでは
「その親から育て上げられた子であること」、
すなわち
「家族存在すること」
そのこと自体が、体制者たるべく宿命づけられているのではないかと考えるようになった。
いわゆる、というのは、いうなればマクドナルドで微笑みながら食事をし、いっぱしのマンションなりマイホームなりに住む、広告イメージに出てくるような家族であることを指している。

定常的な親がいるということは、社会単位として家族が機能を果たしているということになる。
その機能を果たすには、維持努力がいる。
その中核は賃労働である。
親は老いれば働けないから、子に維持努力を託す。
それあらばこそ、保険として未成熟期間の養育に当たるのである。
つまり親にとって子の養育は、老後投資・将来保障に他ならない。

ただ、全てそうした打算と意味付けると、さすがに虚しいものがある。
一応、理想として“肉親の情愛”を思い描きはする。
だからそのように装う努力はする。
「家族」は、情愛を取り繕う。
それは虚栄としても作用する。

高崎隆夫は、肉親を6人惨殺し、1人自殺させた。
高崎家は、石倉屋と号する味噌屋を営んでいた。
隆夫はその若旦那で、その父安起は大旦那だった。
花江が隆夫の嫁かつご寮人で、3人の子があった。
上から、春子、隆一郎、妙子である。
安起の嫁かつお家さんがすみ。
隆夫は高崎家の次男坊で、上に長男坊の源一郎があった。
源一郎には2人の子があり、それが小夜子と千鳥だった。

“事件”当時、高崎家に生活していたのは安起、すみ、隆夫、花江、小夜子、千鳥、春子、隆一郎、妙子、五朗。
この内事件当日、安起と五朗は居合わせていなかった。
源一郎は関東大震災で3年前に死んでいた。

だから隆夫は、自分の子3人と姪2人と母を殺したことになる。
で、偽装工作のために妻に自殺させるのである。
夫から
「俺が皆殺しした後、お前は全責任をもって自殺しろ」
と言われた妻が、
「はあそうですか」と言って従うというのも、時代性を表している。
事件が起こったのは、大正15年5月15日である。

もちろん隆夫は死刑となる。
まだ当時は尊属殺人重罰規定が生きており、母すみ1人を殺しただけでも死刑となるのである。
本書は大量殺人から死刑に到る隆夫の顛末記である。

動機は、父(そして広くは両親と私はとる)への復讐である。
しかし肝心の父は生き延びている。
要するにあっさりと殺すよりも、蛇の生殺しのようにする方がより残酷だと考えたのであろう。
事実、安起は全ての財産(源一郎の遺産も含めて)を使い尽くし、家業も譲渡し、屋敷さえ売り払い、何もかも失った。

安起が最も気を払ったのは、「家」の隆盛だった。
その「家」を潰すことが、安起へのてきめんの復讐となった。
小夜子と千鳥が巻き込まれたのは、安起が隆夫を無視して2人を承祖相続人に指定したからである。
これにより隆夫は、石倉屋の跡取りの立場にありながら財産分配も受けられぬことになり、また家督相続権からも営業承継権からも除外された。
安起から徹底的にこけにされたのである。

春子と隆一郎が殺されたのは、犯行発覚を防ぐための口封じである。
妙子は一家心中の道連れみたいなもので、残すのは不憫としたのであった。

殺され方は生々しく、酸鼻極まる。
すみの殺され様はこうであった。
「面相がなくなるほど、裁縫ゴテで殴打されている。
そして、五寸釘が三本頭に打ちこまれ、喉といわず胸といわず、出刃庖丁でめった突きされている。
そのうえ、角太の火箸が腹部に打ちこまれ、蒲団をぬけ、畳にまで突き刺さっていた。
…本田主任が、すみの右耳から打ちこまれた大工用ノミを抜きながら、…」

あと、惨殺といえるのは小夜子、千鳥、春子である。
私は、すみよりも小夜子が惨殺されたのにショックを受けた。
隆夫には、直接的・個人的恨みはなく、いうなれば「家」を潰すという形式目的のために巻き添えにされたに過ぎない。
なぜ、惨殺しなければならなかったのだろうか。
殺害時の狂気が一気に迸ってそうさせたとしか解釈できない。
しかも、小夜子は「わたし」(井戸誠一)がほのかに想いを寄せていた女の子だったのである。

「わたし」の父・井戸又市は石倉屋の番頭で、隆夫の一番のシンパだった。
当然、一家は高崎家と家族同様のつきあいをしていた。

高崎家は、いっぱしの資産家ということも手伝って、地元ではしごくまっとうな体を成していた。
問題があるのは隆夫の方とされ、放蕩息子として悪名が轟き渡っていた。
だから全国はもちろん近所の人も、隆夫の一方的突発的な狂乱によって名家が瓦解してしまったと捉えただろう。

だが、それは繕った姿なのだ。
内部は腐り切っていた。
これはあらゆる箇所から自明である。
「犯人」隆夫も、その妻花江も、小夜子も、小夜子の継母さわ子も、広い意味では長男源一郎も、「家」の被害者なのである。
いうなれば隆夫は、己の運命に反逆したのだ。

「わたしはこどものころから、何べんとなく親父に殴られ、涙が出つくしてしまいました。
死刑にするといわれても、涙がでまへんわ」。
この一言に、隆夫の全ての哀しみが込められている。

対して安起の、隆夫に対する一言はどうか。
「これ(源一郎の死)が隆夫の奴と代っていてくれたらなあ。
極道息子はのうのうと生きていやがるが、親おもいのお前(源一郎)が死んでしまうなんて、ああ、ああ、いくら悔やんでもどうにもならんものか」
と、繰り返し繰り返し隆夫の面前で嘆いた。
弁護士はこれが、事件の直接的引き金となったとする。

本来家を継ぐはずだった源一郎が学問に目覚め京都帝大に入学してしまったために、隆夫はあおりを喰って中学を退学しなければならなくなった。
隆夫もまた京都帝大入学を目指して猛勉強していたし、その頃はまだ品行方正ぶりも申し分なかった。

隆夫は泣きながら、畳に額を擦りつけて中学をやめさせないで下さいとひたすら哀願した。
安起の頭には「家」を守ることしかなかった。
すみが阿吽の呼吸で「財産」をエサにしてチラつかせ、翻意を促した。
しまいには
「素直にこどもらしく、『はい』と、いいなさらんか」とイエの権威剥き出しの恫喝をした。
隆夫には従う以外術がなかった。

隆夫はこの時以来、父を憎み続けた。
安起の尋常でない暴力が続いた。
隆夫は
「おゆるしくださりませ。
どうかおゆるしを。
おねがいでございます。
おすくいください。
おたすけくださいませ」
と手を合わさんばかりに許しを乞うた。
安起の暴力はやまなかった。
隆夫が妻子をもってからも、何百、何千回と殴った。
隆夫の唯一の抵抗は、薄笑いを浮かべることだった。

彼の唯一のシンパ・又市はこう言って彼を励ました。
「日本人のよいところは、犠牲的精神やと教えられました。
わたしかていうてみれば、家の犠牲になって働いとるようなものです。
僅かの給料はほとんど父が持って帰る。
わたしの楽しみは何でっしゃろ。
それは自分が働くことによって親がよろこぶ、それだけです。
あんたかてその気になって働いてみなはれ、八人のご兄妹の犠牲になって、俺は石倉屋の商売を盛りたてるんじゃ。
そのように思えば、あんたには酬いがあります。
兄弟や親から感謝される。
これも案外気色のええもんでっせ。
こころの底から、ほのぼのとしたよろこびが湧いてきます」

見事に、最初述べた「家族」の社会制度的役割を示してはいないだろうか。
こうなればまさに、子は親の思うがままになる。
後のシーンでその“犠牲的精神”を擁護肯定し、
「それはちょっとおかしいのではないか」
という疑問を封じるのだから、既成仏教はこの頃から根本的に堕落していたのだ。

隆夫がいわれた通り家業に献身専念したとして、一番得をするのは誰だろうか。
又市がはしなくも言っているように、それは親と兄弟だろう。
では彼らは、又市の説く通り本当に隆夫に感謝するだろうか。
本当に感謝してくれるのであればまだよい。
おそらく表面的には感謝の意を示すだろう。
だが本心ではどう思っているか。
うまいこと犠牲を厭わぬように仕立て上げることができたワイ、うまくいったぞ、というのがいいところだろう。

それでも実利さえあればよいのだと割り切ったとしよう。
事実、隆夫も当初は財産分捕り計画を図ろうとした。
それがうまくいっていれば、あるいはそれで「家」への復讐心も満足できたかもしれない。

実際には安起の方から“防衛策”に出て隆夫はないがしろにされたのだが、それならもし隆夫が最後までまじめに家業に献身し続けていたならば、実利的な酬いがあったのだろうか。

「残るのはこのボロ家と借金だけよ」
と隆夫は推測しているが、私もそうだろうと思う。
とすれば、その際の隆夫の人生とは何なのか。
コキ使われるだけコキ使われ、報酬すら残らない。
体よく利用され、ボロ布のように使い捨てられるだけの人生ではないか。
そのうえ、そんな彼の気持は誰も解ってくれない。
「家」内部の腐った状態は誰も見抜けない。
もし訴え出たとしても、誰もまともには取りあってくれず、一笑に付すだろう。

これは今でもそうだ。
子供が家庭内暴力等を起こす。
悪いのは、加害者は子供の方で、親は被害者と見なされるだろう。
「親の責任」というのも、チラホラと取り沙汰されるようにはなった。
しかしそれはあくまで新聞紙上的論調で、タテマエ論である。
「清潔な選挙を、政策を基に投票しよう」
といくら言ってみても票は金で動き、企業の賄賂や談合がけしからんといくら言ってみても体質の改まることはないのと同じである。

現在、少年法を“改正”し、少年でも凶悪犯罪者には死刑を、という提唱は広く受け入れられる土壌にある。
教師夫妻が息子の家庭内暴力に耐えかねついに刺殺した事件で、北野大などは親への同情論を吐いた。
確かにそれは合理的である。
悪しき合理主義である。

だが、私の立論には1つの決定的と思える弱点があるように思われる。
「家族」の中の親と子のあり方が本当にそのように普遍的・構造的なものであるなら、世の「家族」はすべからくそのような陰惨悲惨な内情を呈すべきではないか。
ところが世の「家族」の大勢は現実にはうまくやっている(ように見える)ではないか。

私にもこれは疑問だった。
だが、木村敏『異常の構造』に、膝を打つような示唆があった。

なぜ、全員が破綻しないのか。
「分裂病者の家族成員個人個人の共感能力は非常に悪いのに、当の分裂病者自身はもっともすぐれた共感能力をもっているという結論に達している。
…分裂病者とは、各成員が共感能力を持ちあわせないような、相互信頼と相互理解の欠如した家族の中に、『場違い』に一人だけ高い共感能力をもって生まれついた気の毒な人間なのではないだろうか。
…分裂病者は、家族の中でただひとりあたたかい人間的な共感能力を持ちあわせていたからこそ、分裂病におちいらなくてはならなかったのではないだろうか。
圧倒的に多くの分裂病者が、幼いときには親孝行ないい子だった、といわれるのも、この推測を裏づける事実であるように思われるのである」

隆夫が分裂病者であったかは解らない。
だが、この推測は広く、破綻者全員に敷衍していいように思う。
家族の他の「健常者」は、共感能力を持ちあわせないのではなくて、厳密には共感能力を鈍磨・麻痺させてしまったのだろうと思う。
それはどういうことによるのか。

「分裂病者が育てられたのと同じ家族内にあって遂に分裂病におちいることをまぬかれている人たちは、多かれすくなかれ堅固で容易にこわれない偽自己の体系を作りあげていると考えてよい。
…このような家族の中に生まれあわせた子供の一人が、井村氏らの指摘するようにたまたま特にすぐれた共感能力をそなえていて、そのために家族の中で彼ひとりが冷たい偽自己の仮面を堅固に作りあげることに失敗したとする。
そのような子供が成人して、やがて彼の自己としてのありかたが根本的に問われるような関門にさしかかった場合、彼は他の兄弟たちのように巧みに偽自己の体系をはたらかせてこの危機を乗り切るということができない」(太字引用者)

要するに、演技をしているのである。
しかもそのことをあまり意識せず、不自然とも思わない。
社会というものを運営していくには、生(き)のままの人間ではダメなのである。
かつて私が「反社会」を漠然と標榜したのも、このことを直観していたのかもしれない。
高野悦子が常に自分に「演技せよ!」と命じていたのも、きっとこのことを見透かしていたのだ。
人は、共感能力(マルクスのいう「類的存在」のようなものだろうか)を擦り減らすのと比例させて、偽自己の体系を作り上げていく。
隆夫の悲劇は、「子は親を選べない」という冷徹な事実を、何よりも強く訴えかけている。
やったことは犯罪だが、私は隆夫を、運命への反逆の実践者として認めるのである。

……と、ここまで私は犯人を隆夫と断定した書き方をしてきたが、どうも釈然としないのである。
それをハッキリとさせていないのが、本書のいくつもある不備な点のうちでも最大の綻びである。
本書を素朴に読めば、犯人は隆夫ということになっていると感取することはできる。
しかしそれを疑わせる根拠はというと、

@隆夫は最後までとうとう自白しなかった。
決定的証拠となった〈花江の手紙〉を見せつけられても、
「ずいぶん手のこんだ芝居を仕組んでだしたな。
このようにしてまでわたしをおとしいれようとする人間がいるんですな。
ええことを教えてもらいました」
とやり返した。
A物的証拠・証拠物件はなく、裏付捜査で証拠書類が作られた。
B最も惨殺の度が酷かったのはすみだが、隆夫の憎しみが特にすみに集 中せねばならなかった理由は思い当たらない。
彼が最も酷く憎んでいたのは、既述の如く父安起である。
Cカルチモン(睡眠薬)は、花江、小夜子、妙子からは検出されなかった。
小夜子から検出されなかったというのは、何なのか。
D花江の犯行時のアリバイが不明。
カルチモンを飲んでいないにも関わらず熟睡していたことにされた。
E隆夫には〈花江の手紙〉が、
「妹の立場をかばうため、安達俊夫がうったトリックとしか思えなか     った」
とあること。
Fカルチモンと五寸釘の購入依頼および使用人への暇出しは、花江によ ってなされたこと。

一番解らないのはEである。
隆夫が真犯人ならば、なぜこんなことを思うのか。

隆夫の単独犯行でないならば、当初いわれた通り花江の単独犯行か、あるいは2人の共同犯行の疑いが濃くなる。
可能性としては共同犯行の線が強い。

最大の確実な“物証”は花江の遺書である。
「わたしは母を殺しました。
わたしも死にます。
隆一郎、妙子は立派に育てて下さい。…」
とある。
筆跡は確かだが、隆夫が強制的に書かせたものと考えられている。
また隆一郎と妙子の存否が事実と違う点もひっかかる。

隆夫は安起の被害者だったが、花江はその隆夫のまた被害者だったのである。
花江を怪しむ根拠はここにある。
彼女は、すみから
「あなたは、たんに隆夫の嫁としてもらったのとはちがいます。
こんなことをいうと何だけど、家にもらった嫁ですよ。
高崎家の嫁ですよ。
わたしのいうことはわかるでしょう」
と言われた。
彼女はこの言葉を家の跡取り息子を生むための女としてもらったのだ、もっというと隆夫のオモチャのためにもらったのだと解釈した。
それは決して大袈裟な被害者意識ではなかった。
ひさ(花江の母)が久方ぶりに彼女を訪れた時、娘の変わりようとくると、何も聞かなくても日々の暮らしが察せるほどの変わりようだった。
彼女の涙声は毎日のように聞かれた。
ただ蒲団の中でしみじみと身の不幸を泣くばかりだった。
そんなこんなで、彼女の憎しみはすみに集中していた。
だから彼女がすみを特に酷く惨殺したとすれば合点がいく。
また、安起への恨みもある。
本書の文脈の中で、まるで何事かを暗示するかのようにポッコリと「安起花江の風呂乱入未遂事件」が出てくる。
行為には及んでいないにしても、彼女にはこの事件が誰にも解らない重みと痛みをもって刻印されたことだろう。

しかし、隆夫真犯人説を揺るがせなくしている最大の事実は、高崎ふさ(すみの妹)の供述である。
犯行時刻に、2階の物干しにいる花江を隆夫が引きずり降ろした、と証言したのである。
ふさの新宅は安起の母屋と壁1枚で隣り合っているのだ。
これで、隆夫の
「犯行時刻、カルチモンの入れられた酒を飲んでこうじ室(むろ)で眠り込んでいた」
とするアリバイ供述は完全に覆されたのである。
ふさの証言はそのまま裁判の判決理由文にも取り入れられた。

しかしふさの側にもやや勘繰れば怪しい点が2つある。
1つは、最初の聴取ではシラを切ったこと。
これは甥すなわち隆夫をかばってのこととされる。
2度目の聴取で偽証罪適用をチラつかされてやっと、「真実」を語り始める。
2つ目は、安起夫婦とは不仲だったこと。
真犯人のつけ込む隙がここにある。

それにしても、叙述を曖昧にするのも小説作法の1つではあろうが、事実関係にきっちりと片をつけてくれるのも著者の責務であろう。
この本にはそれがない。
この点が、読後感のスッキリしない主因である。

最後に、その点を初めとする構成上の不備を何点か指摘しておこう。

まず、ノンフィクションかフィクションかの区別がはっきりしない。
おそらく脚色を加えたとしても基本的には事実なのだろう。
陸軍少尉田中静壱という終戦時の陸軍大将も出てくる。
また本書中の「わたし」の名も井戸誠一で、これはズバリ著者名そのままである。
こんな形態は初めてである。

「わたし」の父・井戸又市のキャラクターは、前半部分では夕食時に子供らに軍人勅諭や教育勅語を暗誦させるような、典型的な軍人精神の権化として描かれていた。
ところが後半になるにつれ子煩悩な面も見せ、ある種「大草原の小さな家」のチャールズ・インガルスを思い起こさせるようにさえなる。
この二面性は二律背反で、とても両立するとは思えない。

随所で感じる不備さは、文脈の時系列の混乱だ。
たまには回想シーンなどあって、時系列が逆転してもよい。
しかしあまりにも度が過ぎると、一体正確な順序はどうなっているのか混乱をきたす。
後半では井戸一家は惨劇の舞台となった高崎家に引っ越すのだが(これも近所から極端に気味悪がられた家で、よほどの強力な事情でもない限り妻や子供らが容易に了承するとは考え難い)、安起が寝込んだり又市が隆夫の遺骨を持って帰ったりするシーンが入り乱れ、一体これは引っ越し前のことなのか後なのか、後だったら安起はどこへ移ったのかなど掴み難かった。

最後の章は「結びにかえて」と題されており、「わたし」の母の死が主たる内容となっているが、これも小説本文の一部なのか、本文とは別のあとがきなのか判然としなかった。

また、終わり近くに、隆夫の葬式の場面で源徳寺住職のありがたげな説法が出てくる。
「王舎城の悲劇」というもので、石倉屋事件となにやら通底するものを含んでいるそうだ。
それが何を言わんとしているのか、明快には解らない。
話の最後には「悪逆のダイバダッタ」という登場人物が唐突に出てくる始末。
しかし「わたし」の母小春はこれをきっかけとして深く浄土真宗に帰依するようになったのだった。

また、安起の隆夫への最終的な対応も解せない。
死刑前の最後の接見で、2人は何も喋らなかった。
感極まってというのではなく、隆夫は薄笑いを浮かべたのだった。
それは彼の最後の抵抗だった。
2人の断絶はここに極まった。

それなのに、安起は渋々ながら、塩味饅頭を食いたいという隆夫の最後の頼みに応えた。
それ以前にも、裁判をなんとか無罪にもち込もうと膨大な訴訟費用をせっせとつぎ込んでいた。
これは隆夫の身よりも「家」の名誉のためと説明されてはいるが、それだけでは説得力に欠ける。

安起の行動は全てが打算的で、薄汚かった。
さわ子が源一郎の遺産の額を明かすや否や、彼はピクリと触手をはたらかせ、なんとしてもさわ子と真一郎を連れて帰らなくては、と目の色を変えた。
さわ子が「家」内部の薄汚さにほとほと参り切り、東京へ帰ると言い出しても安起は頑として譲らなかった。
遺産略取の前には親子の情も何もないのである。

「さわ子の頭の中を、遺産のことがかすめてとおった。
彼女はひとりうなずいた。
すべてが、遺産にかかわっていることを知った。
この貪欲な人間にものをいうのも嫌である」(太字引用者)。
やっとさわ子は気付いた。
真一郎の世話は花江に任された。
そこでは安起夫婦にとって、花江は「授乳機械」でしかなかった。
彼女にはまだ、自身の乳呑み児がいたのだ。

結果的に真一郎は、この裕福な高崎家という環境からすると信じ難いことに、栄養不良で死んでしまう。
遺産のために、心の底では安起夫婦は真一郎の死を待望していたのではないかと勘ぐりたくすらなる。

安起の横暴の陰で、すみの口添えもぬかりない。
夫と花江の関係をただしながらも、
「あればあったでちっともかまやしませんよ」
と、夫婦間の人間的な情愛は最初からないのだ。
ただ自分が出し抜かれたことが、不快なのである。

この辺のすみのぬかりなさというのは、女性特有というのか、現象的には見えにくく、したがって批判されにくい。
この辺が狡猾というのだ。
内田春菊『ファザーファッカー』の母親像を思い出す。
その中での母親は、一見娘に同情的で、理解者の如く見えないこともない。
が、よくよく言動を見てみると、見事に夫の意向をいつも「陰ながら」反映し、ある意味では夫よりも陰湿なのである。

高崎家内部の陰惨さは、内部の者しか解らないだろう。
腐った土壌からは、まともな芽が育つはずもない。
なのに社会的すなわち法的断罪は、芽にしか及ばない。
このような腐った土壌から隆夫のような破綻者(破綻させられた者)が出てくるのは、無理からぬことなのである。
そしてもちろん、破綻の責任は土壌にある。

思えば私は「現代」、そしてそこに現される病症についてあまりにも狭く考え過ぎていたようである。
本書に現れている社会の病弊は、本質的には今と同じである。
既に「金が全てだ」という記述が随所に現されている。
今よりましなところといえば、まだ農業従事者が圧倒的であり賃労働の悪弊がそれほどあからさまではなく、クルマが皆無だったということくらいである。

構成上数々のホコロビがあるにしても、私が魅き込まれた理由は、すんなりと入りやすい私にフィットする文体にあったことは否定できない。
特にセリフの部分だけをとってみると、立派な練成度に達しているといえる。

隆夫のキャラクター設定、特に容貌面に関しては今一不充分だが、料理屋で飲んだくれる場面などから太宰に近いものを感じた。
素朴な時代背景も手伝っている。
「わたし」は隆夫が好きだった。
いつもにこにこしていた。
写真をよく撮ってくれたりした。
「わたし」の父又市がただ1人最後まで隆夫を見捨てなかったのも、息子と同じ気分だったからだろう。

いくらフェミニスト達などが頑張っても、社会がこのままであり続ける限り、その最底辺単位として機能するイエ制度はなくなりそうもない。
そもそも社会というものを形成していく以上は(人類のこのままの生存のためには)、“真”を歪め、隠蔽するしかないのである。
                                           (1995.5.24  24歳)



タグ:井戸誠一
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