2016年04月30日

矛盾という名の愛 〜柴田翔『されど われらが日々――』〜

小説についてここに書く時は、小説としての仕立て・つくりの面と、主題・中身の面と2つの面からの批評を書くことになる。

まずは仕立て・つくりから。
初めによかった点をあげておくと、大江健三郎やコレットのような、いかにも「文学的」修辞とは無縁の文体であったことだ。
これでちゃんと芥川賞を受賞したのだから、まだ芥川賞にもまっとうさは残っているようである。

柴田翔は多作ではない。
その後の経歴は作家としてよりはドイツ文学者として生きた。
なんと彼は1969年、東大文学部助教授だったのだ。
全共闘運動は批判的に見ていたようだ。
やはり高橋和巳は偉かったことになる。

私はこれまで小説の陥りがちな一般的悪弊の1つとして、「冗長主義」と名づける傾向を批判してきた。
それの最もひどいのが松本清張であった。
今また、「逆説主義」と名づけるべき悪弊を見出してしまった。
逆説的表現こそ「文学的」で深遠でかっこいいとする考え方である。

初めて見出したのは小林秀雄「様々なる意匠」であった。
「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない」
「この無力にして全能なる地球」
「芸術が自然を模倣しない限り自然は芸術を模倣しない」

三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」はこうだ。
「俺たちが不可能をもたぬということは可能をももたぬということである」
「海は限界なき有限だ」
「限界なきところに久遠はないのだ」
「なぜそれは崩壊の可能性にみちているのか。そして、なぜそれは久遠でありうるか」
「君たちは怯惰である。君たちを勇者という」

本書ではこんな感じだ。
「あの時ほど、野瀬さんが私に身近に思えたことはありませんでした。おそらく、あの時はじめて、私はあの人を恋人として愛することができたはずだったのでしょう。ただ、それでいながら、何故か、あの人への気持は急に醒めて行きました。それは悲しいことでした。それは、私のあの人への気持が、そういう質のものだったとしか、説明できないことでした」(p.166)
最後の1文などまさに、逆説万歳、矛盾万歳である。

「私が今あなたを離れて行くのは、他の何のためでもない、ただあなたと会うためなのです」(p.187)

一番ひどいのはこれだろう。
「私たちの息は次第に一つになり、あなたの嵐は私の中で波浪となり、私の中でうねり高まった潮はあなたの外に溢れ泡立ちました」(p.180)
完全に一体化してるよねえ。
「抱擁の間、私たちは一つの息をしながら、同時に、抱擁する前と同じだけ離れつづけてもいたのです」(同)
一体化していて、同時に離れていたと。なるほど。

かくの如き修辞に「高尚な文学性」を認める「文学のわかる」輩でも、「いやあ文学的ですなあ」以外に何か言えることがあるのだろうか。
形だけのごまかしであり、文学的実相の形骸化である。
眩惑に過ぎない。文学は眩惑であってはならない。
わからないくせにありがたがる付和者がいなくならない限り、真の文学は成らないだろう。

“愛し合いつつ別れる”でなくては文学(ドラマ)ではないという風潮がある。
素直に考えれば別れないんだから、どうしても無理を押すことになる。
本書の場合は無理押しの観がひどかった。
大橋文夫(主人公)が何をどうやろうとも、佐伯節子は予定調和的に離れていくといった感じだった。

文夫が自分の過去を全て曝け出して話したのは、節子との愛を本物にしようとしたからだった。
「あなたは誠実でした。あなたの前にいた私のほしかったのは、そんな誠実さより、たとえまやかしでもいいから、一歩私のほうへ歩みよってみようとするあなたの微笑だったのに」(pp.173-174)
と節子は言うが、これがそれではなくて何なのか。

もたらされたのは恐ろしい誤解だった。
節子はこう受け取った。
「それだのに、あなたは、ただひたすら、執拗に自分の過去の自己展開を見守りつづけるばかりで、それに新しい道筋をつけてみようとは、決してなさいませんでした。その時あなたがどうしても守ろうとなさっていたものは、私たち二人の明日の生活ではなく、何か全然別のものでした。あなたはその何か不毛なものに自分の全てをかけ、すぐそばで私が、あの子供の時と同じように、あなたがこちらを向いてくれるのをどんなに待っていたか、そのことは少しも判って下さろうとしなかったのでした。あの夜、私たちはただ別々の心を持って別れる他はありませんでした」(p.178)

白と言ったら黒と解釈されるのがありなのだから、処置なしであろう。
逆説主義という仕立て上の指摘は、このように主題とも関連してくる。
かくの如き絶対的すれ違いから別れるのだから、
「あなたは私の青春でした。どんなに苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした」(P.187)
という総括は、美しい言葉ではあるが、相応しくないのではないか。
ただ美しい表現だという印象は残る。
しかしそれは先に批判した眩惑のようなものに堕してしまわないか。

次に主題・中身の面に入ろう。

主題は現代に生きる空虚さである。
村上春樹の主題がよく現代に生きる喪失感とされるが、その20年以上前にすでに同じ主題が表れていたのだ。
私も同じ主題を持ち合わせている。
「空虚の砂」をお読みいただきたい。

「自分の空虚さは一時的、状況的なものではなく、自分と空虚は同義であることを知った」(p.129)
これは文夫である。

「生きることの空しさ、それを知っても、知らないでも、その中で生きるしかない空しさが、和子の胸をついた」(p.135)
和子というのは大学時代の主任教授F先生と不倫しF教授を愛し続けながらも“ヴァジニティ”を重視する宮下(文夫の研究室の同僚)と見合い結婚していく女性だ。

本書の特質となるのは、その空虚感が、六全協と結びついていることである。
「従ってあの夏、党の無謬性が私たちの前で崩れて行った時、私たちの中で同時に崩れて行ったものは、党への信頼であるよりも先に、理性をあえて抑えても党の無謬性を信じようとした私たちの自我だったのです。
いえ、自我が崩れたと言っては、きれいごとに過ぎましょう。歴史の法則性とか、思考の階級性とかいう一見真実らしい粗雑な理論、というよりは、そうした理論の名を借りた大仰な理屈に脅かされて、眼の前に存在する事実を健全な悟性で判断することをやめてしまった私たちには、自我と呼ばれていいものがあったと言えるでしょうか。その時、私たちにつきつけられたのは、私たちには自我が不在であること、私たちは空虚さそのものであるということでした」(p.162-163)

突然高度な政治論を展開する節子に気圧されるのは別としても、この政治による救い(坂口安吾はそれを愚の骨頂と言った)=空虚さの救済=真の生の世界(解説者野崎守英の表現)の獲得というのは、本書の主題の堂奥のはずなのである。
もちろんそこを無骨に追求していくと芥川賞は取れぬので暗示に留めているが、そこは動かないはずである。
にも関わらず一般読者はこの堂奥に気づきさえせず、それどころか柴田が後に全共闘運動に対して前述のような態度をとったことを想起する時に、やはり「文学とは眩惑である」との観を深くせざるを得ない。

文夫と節子の付き合い、その心情描写はやけに淡々としていた。
「私たちは愛し合っていただろうか。それは判らない。恋人同士と呼ばれてよいような仕方では、愛し合っていなかったかもしれない。ただ私たちは、互に好感を持ち合っていたし、やって行けるだろうと考えていた。少なくとも、私は、自分たちの間柄について、そう考えていた」(p.14)

文夫による“将来設計”は以下のようだった。
「私たちは、これからもいとしみ合い、なごみ合って暮すだろう」(p.148)
「そうだ。思い出は、近い思い出も、遠い思い出も、みな私たちから離れて、死んで行くだろう。そして、残された私たちは、いとしみ合いながら、いつともなく老いて行き、やがて自らも死に果てるだろう。そして、私たちは幸福だろう」(p.149)

本書での「幸福」は、解説者野崎守英の言う「死物のように生きる」というニュアンスで用いられる(全てではないが)。
本書を重低音として流れる「幸福」の定義は以下のようになされる。
「いや、もっと正確に言うと、不幸が幾種類かあるんだね、きっと。そして、人間はそこから自分の身に合った不幸を選ばなければいけないのだよ。本当に身に合った不幸を選べば、それはあまりによく身によりそい、なれ親しんでくるので、しまいには、幸福と見分けがつかなくなるんだよ」(p.21)
本書での「幸福」は実存的な不幸なのだ。

ただ、文夫はそれを肯定的に使っている。諦めて言ってるのではない。
「それは、私自身思いがけない感情の嵐だった。私はその時はじめて、節子を心から大切に思った。今となっては、節子がどんなに自分にとって掛け替えのないものとなってしまっているかということが、堅い棒のように私の心を打った」(p.146-147)
しかし節子は「旅だって」(解説者野崎守英)いくのだ。

結局空虚さを突破する方法は、示されていない。

金言をひとつ。
「自殺する勇気がなければ、死ぬまでは生きていく他はない」(p.43)

野崎守英は批判も入れて解説を書いている。
珍しいケースで司馬遼太郎『峠』の解説以来だが、悪くはなかった。


ラベル:柴田翔
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2016年04月21日

これは必然的帰結だったのか 〜立花隆『日本共産党の研究』〜

本来ならば論理的かつ体系的に正面から考察を加えねばならないところなのだが、そうすると例えば、なぜ「リンチ事件の事実問題とバックグラウンドを切り離して提出」すれば共産党と宮本が自己批判しやすくなるのかとか(『三』pp.248-249)、木島隆明が波多然に大泉兼蔵と小畑達夫の査問のことを話していることがなぜスパイというものに対して非常な恐怖心を抱かせることになるのかとか(同pp.153-154)いったような恐るべき細かい点を1つ1つ追求していかねばならず、そうすると分量は膨大になり論脈も拡散していき収拾がつかなくなるのでそれはやめる。

とりあえず読進と並行してツイッターに呟いていったことを再録してみよう。
ツイッターにはエピソードとして知らせたいことを中心にあげていった。

「関東大震災に乗じて権力=体制は、9人の組合活動家を素裸にして首を刎ねる亀戸事件という暴虐を行った。殺された1人が南喜一の弟だった。
南は工場、貸家、特許権を売り飛ばし、
『俺は身体を張ってこの不合理な仕組みを叩き潰してやる』
との一言を残し共産党員となり、以後12回投獄の闘士となる」
南は後に国策パルプやヤクルトの社長となる。

「関東大震災下、醜悪な社会主義者虐殺が起こったが、この時第一次共産党事件で一斉検挙されていた党員達は市ヶ谷刑務所に収容されていた。そこへすでに亀戸で9人を虐殺してきた憲兵隊が、さらに虐殺するために共産党員を引き渡せとやってきた。これを刑務所長は拒否。党員達は虐殺を免れた」

「戦前の日共再建ビューロー時代党を席捲した福本イズムの主福本和夫はドイツ語・ロシア語・フランス語が使いこなせた筈なのに、ブハーリンらコミンテルン幹部との政治生命のかかった政治討論に臨むとドイツ語と日本語のチャンポンしか喋れずケチョンケチョンにされたってのを聞くとなんだかなあとなる」
これは“語学が天才的にできる”とされる人の正体への幻滅である。

「(ロシア革命成功後このままいけば)2、3ダースの党指導者が指導し、支配し、実際にはその中の1ダースほどの卓越した人たちが指導し、そして、労働者の代表は、時折、会議に召集されて、指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場一致で賛成することになる。__ローザ・ルクセンブルク

もし現在の道を進めば、党は党役員に代行され、党役員は中央委員会に、中央委員会はついに独裁者に代行されるような事態がくるであろう。プロレタリア独裁は、プロレタリアートに対する独裁にいたるだろう。__トロツキー」
これはボリシェヴィキの民主集中制に対する2人の予言である。

「組織か大衆か。革命党派は戦前も戦後も同じ命題を突き付けられる。革命的情勢(恐慌・戦争等)即ち潜在的に大衆を獲得している時機においては組織をとるのが正しい。そうでない時機即ち戦後であれば大衆をとるのが正しい……と言いたいところだがどうか。というのは戦後は大衆自体が反革命である」
世界恐慌から戦争の時代は、やはりレーニン・ボリシェヴィキ流の中央集権的組織論、あるいは福本和夫の分離・結合論で通すべきではなかったか。
なのに1924年のコミンテルン第5回大会では統一戦線戦術が採択されたり戻されてまた1935年の第7回大会では人民戦線方針が決定されたりして引きずり回されている。

「堺利彦、山川均、荒畑寒村。それこそ大逆事件の昔から反体制運動の歴史には必ず登場してくるが、結局彼らは、書斎から外に出ることを忌避したのだ。いくら理屈をつけてみても、己が身の保全を図ることから脱却することはなかった。これが妙に岩波臭い。これが日本知識人というものだろうか」
もしも労農派がコミンテルンから全く離れた日本革命を目指したというのならばそれは慧眼である。
しかし彼らは共産党員のように拷問、獄中十何年という目には遭っていないのでやはりそれを忌避したのであろう。
それにしても向坂逸郎の『資本論入門』を読んでやはりその志の本物性を感じたのだ。
向坂は労農派である。
「『人の途方もない愚行を目のあたりにすることは、しばしば悲しいものである』
とは立花隆の言だが、戦前のコミンテルンの日共指導こそ途方もない愚行であろう。アメリカは対日戦に臨みルイス・ベネディクトに『菊と刀』を上梓させ、日本人の心性を文化人類学的に徹底的に分析し尽くした。日本人に日本で革命を起こさせるのなら日本を知悉した担当者が日本で任にあたらねばならぬのは当たり前のことだ。現にゾルゲ機関では尾崎秀実を使ったではないか。上海に極東部長を置くだけでうまくことが運ぶ訳がない。しかし日本の党幹部に多額の資金を渡しているのだから遊びでもなかったようだ」

「しかし、悔いはないね。ブントの誰一人としてないだろう。やるだけやった。誰にやらされたわけでもなく、自分でやったんだからね。世界の先端きってもこの程度のことしかできなかったんだからアキラメはつく。__島成郎(元ブント最高責任者・書記長)
コミュニズムを放棄した時、俺たちが放棄したのは世界を把(とら)え得るという観念だったのだ。意味なんぞなくても人間は生きる__生田浩二元ブント事務局長(実質的な組織掌握者)

ブント最高指導者は、強い。安保闘争敗北後なお、島成郎は東大医学部に復学し精神科医となり家庭ももっている。生田浩二は東大大学院で近代経済学の履修を続け、ペンシルベニア大学に留学した(その後焼死)。青木昌彦はハーバード大学に留学し近代経済学を修め、同大学講師となった。西部邁のその後については皆さんご存知の通り。葉山岳夫と糠谷秀剛は司法試験に受かり弁護士となった。
これを皮相な目で見れば体制に日和ったと映るだろう。体制に楯突いて敗れたなら全て終わりとならず、彼らには体制さえ人生を切り拓く手段でしかないのだ。体制を絶対化・巨視化していない。利用できるものは利用する。そんなものに左右されるほど自分達は卑小ではない。

『思想と運動の総体が敗北したのだ。あれは左翼大衆運動の総決算だった』
と島が言うその通り、“壮大なゼロ”に終わった六〇年安保闘争は、日本最後の国民運動だった。もう、30万人が国会を取り巻くことはない。島が国会前で『このエネルギーが! どうにもならない!』と叫び腕を振り回したほど、あの時国会前には人民のエネルギーが結集していた。だがすでにそれを束ね導くべきオルガナイザーは存在しなかった。なぜそれほどまで人民のエネルギーを結集することが可能だったのか。それはやはり、ブント指導者の人間的器の大きさ、だったのではないか。
利用したのは体制の制度だけではない。例の田中清玄からの資金もそうだ。右翼から金をもらうなどとんでもない、田中清玄などCIAの手先ではないかと。
ならその田中は戦前特高からどんな拷問を受けたか。

『当時の警視庁および内務省特高課の人たちは私を蛇蝎の如く嫌い、燃えるような憎悪を叩きつけた。それだけに拷問も酸鼻をきわめ、大腿部を部厚い三角型の棒でつくったソロバンで絞りあげ、これを捻じ上げるのである。その痛さといったらなかった。『死ぬのじゃないか』という恐怖心が全身を嚙んでくるのである。が、私は身体が頑丈であったため、一回の拷問に四時間はもった。それが、かえって刑事や特高の怒りを煽った。ある特高は『貴様のような悪逆無道な奴は全人類と日本民族の敵だ』と叫んだものである。拷問を堪えていると遂に失神する。目を覚ますと夜になっている。手も足も動かなくなった身体は留置場に担ぎこまれ、翌朝また取調室の椅子にくくりつけられて、同じことが繰りかえされる。私の場合、拷問と失神の日が十数日間続いた。大腿骨にひびが入り、手の指は紫色に腫れあがっている。それでも私は自白しなかった』(『赤色太平記』)。田中清玄にはこの体験があるのだ。彼が日和ったか否か、推して知るべしであろう」
これだけ凄惨な拷問を受けた田中清玄が、どれだけ年月を経ようとも権力側に魂を売り渡すはずがない、と思った。
だから60年安保でブントへ資金提供した心算も読めた気がした。
特に田中は武装共産党時代の委員長であり、実際にピストルや匕首で何十人もの警官を死傷させているその頭目だったのだ。
その恨みを晴らす意図をもって特高は拷問にあたった。
なぜか田中清玄には呉智英のイメージがかぶさる。

「立花隆『日本共産党の研究』に日共が猛反発したというのも判らなくはない。
立花のさりげない口調が、鼻で嗤うかのような、腹の底で見下したような口調に思えるのである」

「これが権力=体制の本質であり正体である。
『わたしは三人の男どもにかこまれ、力のかぎりの暴行をうけて、頬はゆがみ、髪の毛はばりばりと抜け、背中は足蹴をくらいつづけて骨がいたみ、頭は竹刀でたたきつけられて、しだいに意識がくらんでいった。すると、かれらは、こんどはわたしをまっ裸にし__布きれ一枚つけないで__、捕縄をとりだすと、わたしを後手にゆわえあげ、そのあまりをもって、そこにある机にしばりつけようとした。それがうまくゆかないので、その腹いせのようにわたしをまたなぐりつけ、けりつけ、ついに足までしばりあげて、さかさにもちあげた。青木も栗田もいまいましそうに舌うちして、わたしをたたみの上になげつけた。そして、青木が手箒をもってきて、その箒の柄を、わたしの胯のおくにつっこんだ。つまり、わたしに女性としてのはずかしめをあたえようとしたのだった。わたしはそのはずかしめに、気が転倒するばかりにおどろき、もがいた。が、かれらはそんなことに慣れきっているのか、別に惨虐なことをしているうしろめたさも、気のとがめも感じているようすはなく、むしろ、そんなことをして、相手をはずかしめることを、たのしんでいるとでもいうようだった。箒の柄がうまく胯のおくにはいらないので、こんどは、栗田がわたしの上に馬のりになって、両手で首をしめた。『堕ちろ、おちろ、地獄へおちろ!』まるで芝居のせりふでも言うような言いぐさをし、かれは両手に力をいれた。わたしは手も足もゆわえられたままであり、抵抗できず、かれがしめつける手のなかで、しだいに意識をうしなった。しばらくして、意識をとりもどすと、こんどはわたしのからだをおこして、手足をしばったままで坐らせ、ふろしきにつつんだ鉄棒で、太股の上を、栗田が小突きはじめた。みるみるうちに、わたしの太股はあかくなり、紫色になり、ついにはどすぐろくなって、腫れあがった。痛さに泣きさけびながら、息もたえだえになってゆくわたしを、面白そうにながめて、栗田とその手下の男とが、かわるがわる鉄棒でうちつづけた」__中本たか子『わが生は苦悩に灼かれて』」
特高の拷問は、記録し伝えていかねばならない。

「1928年10月2日、日本共産党中央委員三田村四郎のアジトが特高警察に襲われ、三田村は逃れたがハウス・キーパー森田京子は逮捕された。森田はその後発狂し松沢病院に入れられた。逮捕後の流れは中本たか子と同じである。してみると森田にも性的なものを含めた凄惨な拷問が加えられたのであろう」

「戦前日本共産党に幹部遊興事件というのがあった。5ヵ月間で待合で5千円(当時帝大出エリート初任給55円)、党資金の4割を消散した。断トツだったのが中央常任委員渡辺政之輔で、53回。3日に1度は待合にあがっていた計算になる。なんだこいつはと一時は見下げ果てていたものだった。しかし渡政の最期はどうだったか。『党の秘密は死をかけて守れ』という党の鉄の規律を他の党員が守り切れぬ中、台湾キールン港で警察に追われ刑事を1人射殺し、拳銃をコメカミにあて引き金を引いた。…人の本性を、我々はその人の生き様(=死に様)によって知る。立花隆の筆致にもそれが伺われる」
なんだか死んでしまった者を尊重する傾向があるようである。渡政、市川正一、国領伍一郎、野呂栄太郎等々……。
なにか渡政には天晴に感じるところがある。

渡政と言えばもう一つ、
「渡辺政之輔が台湾でピストル自殺したのは1928年10月6日である。この事実が一般に伝えられたのは記事解禁になった1929年11月6日だった。
その19日後の11月25日、ようやく遺骨が遺族の手に戻り葬られたが、焼香を許されたのは母1人だった。参会しようとした者は全員検束された」

「戦前日本共産党中央委員鍋山貞親は、
『聖人君子ぶるわけではないが、待合では女は抱かなかった』
と証言した。待合にあがった回数は1928年4〜9月の間で29回である。で、彼は1929年4月29日、三田村四郎と共に赤坂の待合で芸者を抱いて寝ているところを特高警察に逮捕された」
これは鍋貞、矛盾するのでは?

党活動家と性のテーマも気になるところである。
上記の豊富な資金による待合遊興。
そして“ハウスキーパー”の存在。
立花は本論から逸れるため深くは触れていない。

「戦前の網走刑務所は真冬には零下30度、暖房を入れても零下9度まで下がる。蒲団に潜り込んでも吐く息で周りに霜柱が立ちバリバリに凍ってしまう。転向を拒否した市川正一と国領伍一郎は寒さと食糧不足で骨と皮になり獄死した。辛うじて生き延びた徳田球一は『網走送りは計画的な死刑である』と言った」

「株屋カネハンの小林武次郎は戦前の日本共産党のシンパで、浅草に世帯をもった徳田球一の生計をみ続け、徳球逮捕後は残された妻子の生活をみ続け、三・一五事件を逃れた幹部を匿った。党に絶大なる助力を成した。数年後、彼は共産党シンパとして世間の白眼視を受け、事業も不振に陥り、自殺してしまう」
共産主義に助力する株屋とはいかなるものか。
しかし小林もまた死ぬ。

「ブハーリンに対する福本和夫評価の豹変、『米軍の機関銃の前に立たされても強行する』と主張していた戦後二・一ゼネストの突如たる中止等をもって、徳田球一はよく変節漢と評される。ならば拷問に口を割ることなく、収監された党員が雪崩をうって転向していく中18年間“変節”しなかったのはなぜか」
「立花隆『日本共産党の研究』を読んでいると、徳田球一がかわいそうになってくる」
「マルクス『境遇が人間の思想を作る』。ある純真無垢な魂がある。それが産み落とされた時空に応じて、例えば坂本龍馬に、吉田松陰に、幸徳秋水に、大杉栄に、チェ・ゲバラに、徳田球一に変成する」
「返す返すも、徳田球一が宮本顕治に党内権力闘争で破れ去った時が、戦後日共の分かれ目だった。徳球の敗因は何だったか。どこかで宮本系の論客が吐露していたように、そうしなければ党員は食っていけなかった、という生活現実主義が優ったのだ。するとやはりこれは戦後特有の心的風景ということになる」
徳球に関心を抱き、夏堀正元『日本反骨者列伝』所収「陽気な指導者__徳田球一」を併読した。
そして彼も本物だと認めた。
彼の本格的追究は戦後編となろう。

「我々は立花隆とか司馬遼太郎とか、膨大な読書量・知識量を誇る“知の巨人”ならば、それに基づいて他者及ぶべからぬなんらかの真理なり世界観を築き上げているに違いない、と信じる。だが、それは幻なのだ」
「膨大な読書量と知識を誇る言論人がいる。その言論を読めば読むほど、その結果として途轍もない知識体系がその人の頭の中に築き上げられていることはなく、ただ『多くのことを知っている』だけに過ぎないと思わされるようになった。やはり人の評価は行動でなすべきなのか。サルトルの言うように」
私は本書を精読しながら随所に「立花苦しい」と書き込んだ。
冒頭に引いたような論理上の難点も見られる。
何か巨大な間違いのない知性が考察を進めているのではないのだ。
それにも関わらず立花には偉大なところがある。
それは“記憶力”だ。
これは後述の主要素に関わってくる。

スパイMに関しては、小林峻一・鈴木隆一『スパイM』を併読する。
「私は、父のことを尊敬していたというより、男性として好きだった__スパイMこと飯塚盈延の次女」
「さて飯塚盈延の動機は何だったか。山崎正和による以下の推測が一番近いところだろう。
『2人の主人に仕えるのが最も自由に生きる方法かもしれない。こっちの力であっちを倒し、あっちの力でこっちをひしぐというのは、機械のようになっている社会の中で個人が自由になる1つの道かもしれない。自分を押えてくるやり切れない2つのもの、それを操っているときに解放感があったんじゃないか』
スパイ活動時代のMは、共産党及び特高というバックを持ち、双方からの支持を受けつつ、しかし、そのいずれからも離れて自主独立の立脚地を見出し得ていたのだ」
以上2つは小林峻一・鈴木隆一『スパイM』より。
「生まれてこないのが最も幸せだ。しかし、生まれた以上はどんなことがあっても生きつづけるべきだ。__飯塚盈延(スパイM)」
「スパイMこと飯塚盈延の死去が1965年9月。立花隆『日本共産党の研究』の連載が1976年1月から。その差、10年4カ月。惜しかった。立花が飯塚をインタビューしていたら……。中核派の本多延嘉へのインタビューは、死の直前、奇跡的に実現していたがなあ」
「スパイMこと飯塚盈延の人生はまさに小説より奇なるものだった。ただ画竜点睛を欠く点が1つ、それは飯塚の戸籍問題である。戸籍の問題は子供らの就職にも影を落とし飯塚も『毛利(特高課長)が何とかしてくれる』と期待を寄せていたが結局好転せず終わった。毛利、そこは面倒見てやるべきだったろう」
「スパイM飯塚盈延は非常時共産党時代、党の家屋資金局を党の外に置き中央委員会の干渉を全く受けず自分一人で完全に統括していた。活動報告もする必要はなかった。1932年6〜10月の間だけで現在の貨幣価値に換算して10億のカンパを手にした。いくらでも流用しようと思えばできただろう。だが晩年の飯塚は家族に貧窮生活を強いた。娘は弁当を学校に持っていけなかった。自分一人だけ白飯を食べ妻子らには稗・粟を食わせた。妻の医療費すら自分が遣った。あの大金さえあればこんな窮乏はしなくてよかった。飯塚は着服していなかったのだ。ここに彼の本性の一端を垣間見ることができる」
「Mに関する部分は同書中の圧巻として評価が高い」(『スパイM』)
「立花『研究』には、いくつかのヤマ場がある。なんといってもスパイM=松村=飯塚盈延の追跡と、宮本顕治議長の直接関わったリンチ査問事件の探求が圧巻である」(加藤哲郎「『日本共産党の研究』金脈批判以上の衝撃」『立花隆のすべて(下)』所収)
こっちは全文全身全霊を込めて精読しているのに、やはり“一般には”このような読まれ方をしているのか。

「スパイMこと飯塚盈延には立花隆は接触できなかったが超スパイ松原には69歳で存命で会うことができた。そして現党員高江州重正(当時全協委員長)と直接対決させ、松原のスパイ汚名を雪いだ。残念なのは松原を直接リンチして殺そうとした岸勝(当時党中央委員候補)と直接対決させなかった点である」
加藤哲郎は上の寄稿中でこの件を史実の解明で最大の功績としている。

「日本人には難解なものをありがたがる卑屈な特性がある。いわゆる権威主義であり、王様は裸だと言えないのだ。『日本共産党の研究』を読んでいたら転向論のところで吉本隆明が出てきた。もうこれだけで吉本隆明など読みたくなくなった。「『非転向』も転向の一形態」など、レトリックの遊びに過ぎない。難解さでけむに巻くためにわざと「モデルニスムス」などという近寄り難い用語を使う。初めから「近代主義」と言えばよい。
難解な現代思想を解りやすく解きほぐしているのを売りにしている『そうだったのか現代思想』の著者・小阪修平すら、同書の中で『わかりやすい思想のほうがいいんだろうか』といった言い方をしてわかりにくさの必然性を認めさせようとする。吉本も『解りやすく言う必要など全くない、解らないのは読者の頭のせいだ』としてふんぞり返っている。
見るに耐えないのは読者の方で、そんな奴の言説など無価値とすればよいのにかえってありがたがり権威づけている始末である。解りやすく言えないのは言ってる者の頭が悪いからなのだ(これが『王様は裸だ!』にあたり、言えない)。〈知る〉ことにとって〈解る〉とはアルファでありオメガである。解らないことには〈知る〉の第一歩も踏み出せない。吉本隆明は井沢元彦、立花隆、小室直樹の爪の垢でも煎じて飲めばよかろう」
呉智英も『吉本隆明という「共同幻想」』の中で解りやすく言えないのは頭が悪いからだと言っているそうだ。

「小室直樹は三島由紀夫の決起自決において自衛隊員のサラリーマン化を慨嘆したが、より深刻なのは学者のサラリーマン化である。現在の社会科学系学者は、一切信用しない。戦後抜け出ようとしたのは高橋和巳くらいではないか。戦前の河上肇、野呂栄太郎は偉かった。己の言説に責任をもった。
1933年、逮捕された山本正美に代わり委員長となった野呂栄太郎は、幼少時関節炎を患い右脚を切断して隻脚となりさらに結核と慢性盲腸炎と闘いながら自らの学者生命(講座派始祖)も肉体的生命も党再建の為に投げうった。休養を決め最後の連絡で逮捕。最後まで調書を取らせず、33歳で絶命した」
本当に現代の知識人は怯懦極まりない。
彼らの最高の望みはせいぜいテレビ・コメンテーターになることだ。

「幼少の頃私は母と子の読書会というのに属していた。町で会を仕切っていたのは波多という温和なおばさんだった。その夫が、戦前日共で数十日間に渡り凄惨なリンチを受けた波多然だった。彼はスパイ容疑を頑なに否定し通し、最後は額に焼火バシで×印の烙印を焼き付けられ、額を髪で隠して余生を送った」

「日共の詭弁は、何も考えない大衆に焦点を合わせている。手法は日常用語の意味論的意図的混同。『小畑達夫の死因は特異体質によるショック死』と主張するが、法医学上のショック死の概念は日常用語におけるショック死と全く違う。法医学上は外傷性ショック死とは外傷と死の間に因果関係があるのである。火傷で死ぬのは“火傷性ショック死”。
『ああ、なんだ宮本さんのリンチで死んだんじゃないのね』
と思い込ませる。また
『宮本顕治に対する確定判決は治安維持法違反で、政治犯。刑法犯ではない』
とも強弁する。これは観念的競合なのである。宮本の行為は治安維持法違反、監禁致死傷罪、逮捕・監禁罪、傷害罪、またその共同正犯、死体遺棄罪、銃砲火薬類取締法施行規則違反全てに該当するが、法律上このように罪状が複合する場合には一番重い罪の刑を課すように定められているのである。これを『治安維持法違反による処罰だ』と繰り返し、あたかも非刑法犯かの如く印象操作する。ハマコー殺人者発言の時もすぐさま日共の正森はかくの如き紋切り型の“反論”をなし、考えない大衆を騙しおおせている。考えない大衆をイメージ印象操作で騙そうとする奴らが人民のための党である筈がない」
これはこの論考の最重点だが、本書では随所にわたり、立花が日共から浴びせられたデマ攻撃に対して反論を加えているが、それで構築される日共というもののイメージが、この上なく薄汚い。
本書を読もうとした最大の動機が、
「日共って、そもそもあいつらどういう奴なんだ」
だった。
それを解明するのに立花は「迂遠なようでそれが最も近道であると思うから」「党史から現在の党を照射してみようという方法論を」とった。
でもやはり迂遠に感じられ、長い間積ん読が続いていた。
そしてついに党史を辿りきり掴み取ったのは、日共という集団の骨絡みの薄汚い本質だった。
そしてそれは宮本顕治の長期君臨によりさらに強められている。

「仔細に読めば粗がないこともないが立花隆『日本共産党の研究』の功績は絶大である。宮本顕治に対して、リンチ共産党事件を別にしても、ここまで言うかという原理的批判を行っている。例えば考えてみるとよい。その後徹底的に客観的たることを志向した『原発の研究』は誰の手によっても為されていない」
これもまた後に“記憶力”と結びつけて論じる。

さて次に、「読書メーター」にアップした各巻ごとのミニ感想も再録しておこう。
(一)
ウィキペディアもカバー文句も「通史」としているがそれは違う(立花本人が否定している)。本書の面白さは権力対革命組織の闘いの織りなすドラマの活写にあるとされ、そう見てしまうと立花の政治分析部分は仕方なく付き合わされる感じになるが、そこが案外深い。史的唯物論が必然的に革命理論となる理由、「内なる天皇制」による日本人の心性分析、初めて合点がいった。日本人のデジタル化が進む中立花の「現在の共産党を知るためには戦前からの党史を辿り直すのが迂遠なようで実は近道」とする方法論がどれだけ受容されるかも心配なところである。

(二)
革命近しという救い難き状況認識から天皇制打倒及びソ同盟擁護という非現実的な戦略・戦術に走り大衆の離反を招き党の貯水池全協は崩壊、さらに特高による弾圧は度重なりスパイが跳梁し指導部は破産、瀕死状態にとどめを刺したのが、佐野学・鍋山貞親に始まる転向の雪崩であった。実質的には1929年の四・一六事件で勝敗は決していたが、やはり32年テーゼ(天皇制こそ国家権力の中心)の誤りが敗北を決定づけた。金融資本がヘゲモニーを握るブルジョアこそ権力の中枢で天皇制は封建的遺物に過ぎないとする31年テーゼ草案が正しかったのだ。

(三)
まあとにかく大変な労作なのだから目をつぶらないといけないのだろうが……。単行本にはあった索引が文庫版では割愛されているのが致命的で、本書の資料的価値を著しく減じている。逆に「資料」として載っている「村上・宮永鑑定書」、これは全く不要、一般読者は一人も読む者はない。そしてとどのつまりの小畑達夫の死の描写が最後まで隔靴掻痒である。最後の最後になって「逸見は出獄後、このとき同時に別のある人間が、風呂敷ないしオーバーを首のところでグルグル巻きにしていたヒモを引っ張っていたことを友人にもらしている」って何じゃそれ!

あとネット関係で言えば、本書を読んで、ウィキペディアに「尹基協射殺事件」の項を新設した。
既にあった「尹基協」の項に「評価」を挿入した。
「四・一六事件」も編集した。
「飯塚盈延」の項も改変したかったが日共の圧力を恐れやめた。

「読書メーター」の(二)のところでも概略辿っているが、結局日共の辿った道行きというのは、「単行本あとがき」に次のようにまとめられたようになろう。
「共産党の組織が頭でっかちの逆ピラミッド型構造をしており、盛んな文書活動と、指令を下部に伝達していく連絡システム=街頭細胞までは作りあげていたが、指令が組織の末端まで届いたところで、それにもとづいて現実に大衆を動かすという、かんじんかなめの運動の実体化をになう組織の大衆との接点部分があまりにも弱体であったために、共産党の運動は大衆をゆり動かす運動とはならず、もっぱら党機関内部でのイデオロギー的自己運動として終始したという歴史的事実の発見にたどりつかざるをえなかった。それが大衆と結合できなかったために、その実体としての闘争は、国家権力に対して大衆の力を対置して行なわれる真の政治的権力闘争として展開することができず、国家権力の末端である特高との地下における暗闘でもっぱら終ってしまい、その局面では完敗したのである。そして、その敗北の総括が党内でついぞなされないままに戦後の党が再建されたために、戦後の党も戦前の党のコピーとして再構成され、その敗北を生んだ組織の体質的諸欠陥がそのまま遺産として継承され、党のカルチュアとして定着してしまうことになったのである」

一般的な読まれ方としては“権力対革命組織の闘いの織りなすドラマ”として本書は評価される。
だが、その“攻防”は“波乱”や“一進一退”といったものではない。
比較にもならぬ人員数を有した国家権力=特高が、比較にもならぬ資金・物資を使いたいだけ使い(例えば熱海事件での防弾チョッキの予算は3万円。現在の1億以上にあたる)、全国的な情報網を用いて包囲し、とにかく党員というだけで治安維持法で検挙できるのである。
何百人、何千人単位の検挙、検挙、また検挙。
初めから勝負になどならないのである。
ただ、毛利基特高課長の個人的力量が絶対的であったのか否かは検討の余地を残している。

そして時はまさに世界恐慌から戦争へという時代だった。
確かに革命にとっては千載一遇の時機だったろう。
仔細に見れば、戦前よりも終戦直後の方がチャンスだったのではないかと思う。
なんといっても、
「警察官のうちにも、共産革命の必然を信ずる者が多く、署長級の幹部でさえも共産党に迎合する」「署長級の会合のときも、公然と共産主義を礼賛する人がいて、日共や第三国人に圧力をかけられると、逮捕した被疑者を釈放したり、あるいは奪還されたりした。警視庁の留置場からさえも堂々と脱出した者もいた」(三p.262)
という時代状況だったのだ。

次に、左翼の言葉遣いと組織用語について。
逸見、宮本、秋笹、袴田の4人が中華料理店の片隅などで額をよせあって何度かコソコソ話しあった結果、大泉、小畑を査問しようということになったというだけのことを、宮本に言わすとこうなる。
「こういう次第で党中央部は、両名をスパイ嫌疑者として認定した白色テロル調査委員会の報告を採択して、両名を査問委員会に付する決定をした。すなわち、両名をのぞく、党中央委員並に候補者を加えた党拡大中央委員会を開催し、そこで正式に決定したのである。査問委員会は拡大中央委員会の出席者によって構成された」(三p.35)

とにかく彼らはこういった言葉遣いが習い性となっている。
「協議会を開催した」って、一体参加者は何人で、どこで「開催」したのか。
どうせ数人集まって料理屋で話し合ったんだろ。いかにも仰々しい。

「共産党の党史で多用される述語は、『――の宣伝をおこなった』『――と主張した』『――をあきらかにした』『――と呼びかけた』といったものである。要するに、共産党が何をしたかではなく、何を語ったかが主なのである。『――の運動の先頭に立った』『――たたかった』などの記述もあるが、具体的にどういう運動を展開し、どういう成果をあげ、あるいはどう失敗したかはいっこうに記されていない。実際には、ある主張の文書を出したことが『――の運動の先頭に立った』の実体である場合がほとんどである」(三p.188)

これは戦後の連合赤軍などを見ていてもそうである。
「――を勝ち取る」だの「――を確立する」だの、よくよく考えれば何も動いていない動詞。
これに「〜しなければならない」「〜を通じて」「〜するために」などをつなぎ合わせると、堂々たるもっともらしい言い回しになる。
ただ「〜する」と言えばいいところを、いちいち「大衆的に」だの「革命的に」だの「〜的に」をつける。
機関紙というものの役割がアジにあるところからきたのだろうが、言葉だけが浮き上がることになってしまった。

「念房内膜赤褐色未消、右心室腔ノ大サ尋常内膜赤褐色ニ染リ未消、三光弁肺動脉弁肉桂、腱索、乳嘴筋ニ異常ナク壁ノ厚サ〇・四仙迷筋肉淡赤褐色光沢ニ乏シ念房内膜赤褐色ニ染リ未消、卵円窩ハ約豌豆大異常ナシ、大動脉起動始部ノ幅六・〇仙迷内膜淡赤色ニ染リ粟粒大肥厚斑数個ヲ散在ス大動脉弁ニ異常ナク、冠状動脉走行尋常内膜淡赤色ニ染リ未消ナリ」(三p..291-292)

これは「資料三」として載っている「村上・宮永鑑定書」の一部である。
この調子で13ページに渡って続く。
読みにくい理由は以下の4つである。
@漢字が読めない。
A体のどこを指しているのか解らない。
Bそれが法医学上どのような意味をもつのか解らない。
C変色部の大きさの具体的な示し方として大豆大・小豆大・豌豆大・蚕豆大・胡桃大・鶏卵大との形容が用いられているがかえって分かり辛い。

一般読者はこの13ページを一人も読み通していない。
全く不要な資料だ。
こっちはこれだけ精緻な資料に基づいてるんだぞという共産党側への威圧効果を狙ったものだろう。

逆に、絶対必要なものが欠けている。
加藤哲郎も前掲寄稿で
「単行本に入っていた人名・事項索引が、文庫版では省略されたのが残念であるが」
と指摘しているが、人名・事項索引は絶対に必要なのに、ない。

立花は純粋な党史を書こうとはしていないために、記述は必ずしも時系列通りではない。
「〜については前に述べた」と頻繁に出てくるが、読み手はどこに書かれていたか捜すのに大変なこととなる。

『三』に入ると、これまでとは違ってつくりが粗くなる。
引用部が行中から始まったり、推敲が不十分だったり。

「(鈍体の打撃による皮下出血の)経験がない方は、自分で自分の腕でも足でも皮下出血するまで殴りつけてみるとよい。
宮本氏や袴田氏たちが小畑を裸体にして、みんなで小畑の体中にキスマークをつけたとはとても考えられないから、」(三p.226)
これがこのまま出ているのは、ある種のナチュラル・ハイ状態で書いてしまったのだろう。
それを落ち着いて推敲する暇もなかったのだろう。

「村上・宮永鑑定書」の掲載必要性を十分に吟味できず、絶対必要な人名・事項索引も作成できなかったのは、ひとえに文庫版校了の時間的余裕がなかったためだろう。
そして立花からすれば、人名・事項索引の必要性を自身は本質的には感じていないのである。
前どこに書いたかは分かるからである。

さてここで、立花の驚異的な記憶力についての話に入る。
結局立花を際立たしめているところの特殊能力は、その驚異的な記憶力によるのである。
なにせ立花は、自分の何万冊もの蔵書から1冊本を取り出されても、即座にそれについて精密な話ができるのである。
手塚治虫は膨大な自分の作品を並べた本棚から、アシスタントに「上から何段目の棚の左から何冊目、何ページの何コマ目」と指定して絵を描かせたという。
それと同じレベルの記憶力である。

栗原幸夫、しまねきよし、亀山幸三、いいだももら、いくらでも日共党史の欺瞞を暴いてきた文筆家がいるにも関わらず、彼らの著書が『日本共産党の研究』ほどのインパクトを与え得なかったのはなぜか?

立花は「研究手法」を公開している。
「私たちの手法を公開してしまえば、手間はかかるが、さして困難なことではない。要するに、あらゆる資料(聞き書きも含む)をバラバラにして、同じ時代、同じできごとについての叙述をひとまとめにして、それを比較検討していくという、研究者なら誰でもやっていることだ。ただ私たちは、ゼロックスを利用して、分業でやっているから、コツコツ一人でやっている研究者より、より多くの資料をより早くこなせることと、天才的な整理魔が三人ばかりチームの中にいるために、大量の資料を消化するための独特のノウ・ハウを開発しているだけのことである」(一p.255)
と誰でもできるような口ぶりだが、やはり実際にこなせるのは立花だけなのである。

最後に、小畑の死の描写のもどかしさについて述べておこう。
克明に描写されるとモロに宮本を攻撃することになるのであえて曖昧に扱っているふうでもあった。
だがここまで腹を括っておいて、核心のそこをボカすなど立花の気性からしてもあり得まい。
小畑リンチシーンの描写は明らかに克明の度が違う。
本書においてここの比重は明らかに重い。
立花の政治的目的がうかがえる。
それは己の意思なのか上からの要請なのか知らないが。

とにかく、もう絵として誰かにやってもらわないと、どうして小畑が死んだのかが判らない。
初めは袴田の著書『「昨日の同志」宮本顕治』からの引用である。
「宮本は、右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い全体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声を上げていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上った」(三p.108)

これは1977年発表の文章である。
で、袴田は1978年に除名され週刊新潮に手記を発表し「リンチ事件に関して新証言をした」。
以下、その「新証言」。
「小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上った。小畑は宮本のしめ上げに息がつまり、ついに耐え得なくなったのである。小畑はぐったりとしてしまった」(三p..240-241)

どこが「新証言」なのだろうか。
初めの2文など上とほとんど同じである。

また袴田の『党とともに歩んで』からの引用はこうである。
「いきなり立ち上がった。わたしは後ろから組みついたまま、足を払ったので二人ともいっしょに倒れた。しかしかれは立ち上がるやいなや大きな声で『ワアー』っといったんですね。“助けてくれ”じゃなくてただ『ワアー』という声を出して、そして倒れた。寝ていた連中はみなこの物音に驚いて、この男に組みついたのですが、もうそのときにはガクッと力がぬけてしまっていた。つまり、それきり死んじゃったんですよ」(三p.211)

より判りにくくなっている。
で、最後に出てくるのは逸見証言。
「そしてこのとき、小畑の頭部は風呂敷ないしオーバーでぐるぐるまきにされており(宮本も含む各人の証言)、頭部近くには逸見がいて『逸見ハ声ヲタテサセマイト口丿辺ヲ押ヘタ』(宮本証言、他証人はより強い表現で同様証言。逸見は出獄後、このとき同時に別のある人間が、風呂敷ないしオーバーを首のところでグルグル巻きにしていたヒモを引っ張っていたことを友人にもらしている)」(三p.244)

「より強い表現で」って何だ!
「別のある人間」って誰だ!
この時
「宮本が小畑の体の上にのり、逸見が頭部をおさえ、袴田は腰のあたりを、木島は足のほうにとりついていた」(三p.107)
ならばどう考えても袴田だろう(あるいは逸見自身か)。

役者が揃っている。
秋笹はこの後総白髪と化して発狂・獄死。
木島はどんな拷問でもお任せあれの下っ端。
私は以前テレビで「日共の木島」を見かけた時にその人相に非常に嫌な印象を抱いた。
もちろんこのリンチ事件の木島隆明ではないが、ひょっとしたら血縁者かもしれない。

日共の壊滅は、歴史の必然だったのか。
この道を辿るしかなかったのか。
よしんば戦前の帰結が運命だったとしても、戦後の再出発までなぜダメになったのか。
言うまでもなく宮本顕治がブチ壊したのだ。
宮本顕治をそうあらせたのは戦前の党史である。
れんだいこ氏は彼のスパイ説を唱えている。
なるほどそれだと随分合点がいく。
しかしスパイが12年間監獄にブチ込まれるだろうか。
とにもかくにも、日本で革命を志す党派は本書を基礎学習文献とすべきである。



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ラベル:立花隆
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2016年04月03日

進歩の概念への懐疑 〜宮本憲一『環境経済学』〜

近代文明と環境


かつて、「進歩」という概念は、「平和」や「自由」などの概念と同様、所与のごとく存在し、その絶対的意義を疑う者など誰もいなかったし、また疑う必要もなかった。

ところが現代という時代の最も大きな特徴は、“マネタリズムの総帥”ミルトン・フリードマンが「ノーベル賞受賞者百人による討論」の中で言ったように、その疑う余地もなく当たり前と見做してきた「進歩」という概念に対して懐疑を抱いてかからねばならなくなった点にある。

それを最もストレートな形で指摘していると思われるのが、市井三郎『歴史の進歩とはなにか』の中にみられる以下の件(くだり)である。

「だが、人間歴史の『進歩』とは何であったのだろうか。
まさに西欧近代は、人間歴史の『進歩』が必然である、という強い信仰を生んだのである。
18世紀いらい、その信仰を根拠づけようとする著述は、数多く書かれてきたではないか。
にもかかわらず、進歩の理念それじたいが、まさに懐疑にさらされているのが現代の特徴なのだ。

それを時代の病弊とはいえないだろう。
『進歩』への懐疑には、正当な理由があるからである。

科学技術の『進歩』なるものは、人類みなごろしの可能性を現実のものとした。
水爆やその運搬ミサイル技術の『進歩』なるものが、何を意味するかを少し正気で考えてみれば、そのことは自明とさえいっていい。
だがさらに、それだけではないのである。
公害の問題は、究極兵器の問題を別にしても、人類みなごろしの可能性を示唆しはじめているではないか。

(略)少なくともこれまでの『進歩』の思想には、どこか根本的にオカシイところがあったといわねばならない。
人間歴史のある面での『進歩』のゆえに、人間がすべてみな殺しの予感あるいは圧政下に生きる、といった帰結を生じるとすれば、そのような『進歩』は進歩の名に価いしないはずだからである。

『進歩』の理念と歴史の現実とは、すでに現代、このようにはなはだしいズレを見せるにいたった。

(略)無限の高度経済成長なるものは、原理的に不可能なのである。

(略)単純素朴に必然的『進歩』を信じる歴史観が、ここで根本的に吟味されねばならぬのである。」(P.9〜16)

似たような言い方は、世に氾濫するいわゆる「環境論」に必ずといっていいほど登場する。

立花隆は『エコロジー的思考のすすめ』の中で言う。

「同じように、進歩という概念についても、われわれはもう一度考え直さなければならない。

進歩とは、目的論的な方向性をもった変化のはずである。
人間が進歩ということばを用いるケースをいくつか検討してみよう。
漢字の読み書き能力の進歩、料理の腕前の進歩、よりこわれにくい時計を作る技術の進歩……こういった目的が明確に設定されている進歩はよい。
だが、こうした日常的な、ミクロの進歩のベクトルの総和がどちらを向いているのか、その到達地点であるマクロの目的についての構想はあるのか__だれもそれを考えていないようである。

どうやら、人間はこの点に関しては予定調和の幻想に酔っているらしいのだが、現実には文明のベクトルは予定破局に向かっているような気がしてならない。
そしてなお憂うべきことは、このベクトルの長さ、つまり速度がますますはやまりつつあることである。

生態学の観察する自然界での変化の速度は正常な変化であるかぎり緩慢である。
生物は、あるスピード以上の変化には、メタボリズム機能の限界によってついていけなくなるからである。

進歩という概念を考え直すに当たって、生態学の遷移という概念が参考になるにちがいない。
遷移のベクトルを考えてみる。
その方向は系がより安定である方向に、そして、エネルギー収支と物質収支のバランスの成立の方向に向けられている。
その速度は目に見えないほどのろい。
なぜなら、系の変化に当たって、それを構成する1つ1つのサブシステムが恒常状態(ホメオスタシス)を維持しながら変化していくからである。
自然界には、生物個体にも、生物群集にも、そして生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。

文明にいちばん欠けているのはこれである。
それは進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である。
進歩は即自的な善ではない。
それはあくまでも1つのベクトルであり、方向と速度が正しいときにのみ善となりうる。

いま、われわれがなにをさしおいてもなさねばならないことは、このベクトルの正しい方向と速度を構想し、それに合わせて文明を再構築することである。」(P.220〜221)

また、『地球を救え』の編者であるジョナサン・ポリットは『世界』1991年11月号に掲載された「地球を救うための三条件」と題する論文の中で指摘する。

「近年の歴史においては、1つの世代の行為は必ず次世代の生活をよくする、というほとんど暗黙の仮定が存在してきた。
戦争をしなければならないとしたら、その後には平和がつづくだろう。
犠牲が必要だとすれば、繁栄がその報いになるだろう。
それは1つの世代がごく自然に次の世代の未来を保証しようとする集合的な動機の一部であった。

明日を犠牲にすることによってのみ今日の繁栄があり、子供の安寧がわれわれ自身の飽くことなき要求(ニーズではない。というのも、地球の生命維持システムを破壊しているのはニーズを満たす行為ではないからだ)を満たすために犠牲にされつつあるという認識は、非常に重要な情緒的・心理的ターニング・ポイントを記すものである。
多くの人がそうした認識を共有した時にはじめて、指数重視の経済成長と世界的な物質的繁栄という死の罠からわれわれ自身を救いだすための真に政治的な行動の余地が生じるだろう。」(P.215)

聖学院大学専任講師(経済学)である柴田武男氏は、同誌1992年2月号の中の「企業社会は地球環境を守れるか」という論文において、バルディーズ原則の前文から以下のような引用をしている。

「企業とその株主は、環境に対して直接的な責任を負っている。
(略)企業による利潤追求は、それが地球の健康状態と保全とを損なわない限度において行われるべきものであると信じる。
企業は、次世代が生存に必要なものを手に入れる権利を侵害するようなことは、決してしてはならない」(P.63)

無論のことながら同趣旨のことは、本書でも1972年の国連人間環境会議の開会の席上におけるワルトハイム国連事務総長のことばなど、満遍なく散りばめられていることは言うまでもない。

そして「進歩の概念への懐疑」という問題提起に対する結論も、ほとんど全てのいわゆる「環境論」においてはパターン化している。
その代表的言詮を1つだけ、前出ジョナサン・ポリットの論文より引用しよう。

「私たちの未来はそうした『世界は一つ』の意義を再発見し、絶えず『自然を征服』しようとしてそれと戦うのではなく、それを祝福することを学ぶことにかかっているのだ。
当然これは大きな哲学的転換を表すが、なによりも重要なものである。
なぜなら私たち自身と自然界との最終的な疎外が癒されうるのはこのレベルにおいてなのだから。

(略)歴史は自己満足の余地をほとんど許さないが、私たちが充分に賢く、情け深いと想像するのは、最終的には信念の問題である。」(P.217)

と、最後は結局各個人における「意識変革」、すなわち心の問題に全てが委ねられる。
だが、こんな甘っちょろいことを言っているようでは環境問題の解決など望むべくもない、というのが私の見解である。
心の問題に解決を求めるなら求めるで、もっと徹底すべきである。
ともあれ現在の先進諸国の生活水準の維持を前提としているうちは、全ての方策は思弁の域を出ない。
人間は一度覚えたうまみからは離れられないし、自分たちだけが特別な負担を強いられることに最も強く抵抗するものなのである。

近代文明と環境を考える場合、常に「進歩」の概念への懐疑という問題と照らし合わせるべきだろう。


資本主義と公害


初め、私は公害を資本主義(自由経済競争)の専売特許だと考えていた。
しかし環境問題の鉄則は本書にもある通り、「素材からはいって体制へ」という方法論である。
どちらか一方だけを追っていたのではまさしく片手落ちそのものである。
当初の私のように「体制」のみから環境問題を捉えようとすれば、本書と同じく
「では社会主義国に公害が存在するのはなぜか」
という陥穽に嵌まるは必定である。

案の定、資本主義に公害は必然的と見做すのは短絡的であるということが、前出の柴田武男氏の論文を読んで判明した。

自由経済の下の企業経済体制に問題ありとするならば、自由経済の元祖アダム・スミスにまで遡らねばならない。

スミスの『国富論』といえば、「見えざる手」のみ有名となっているが、実はこの一節全体の主語は「会社」ではなく「各個人」である。
さらにスミスは当時の特権的合本会社の業務運営を、「怠慢と浪費」という用語を用いて批判している。
つまりスミスの考えた経済主体は決してこうした合本会社なのではなく、自然人たる各個人、すなわち「人間」そのものであったというのだ。

これがどういうことを意味するのかは、彼がまた『道徳感情論』の著者でもあったことを想起するとはっきりする。
スミスはこの中で人間本来の行動原理として「共感」原理、すなわち自己規制を挙げており、それを前提として自由な経済活動が認められるという論理構造をとっている。
ところが現代の企業経済体制の主体たる株式会社にはこの「共感」原理が働いていない。
したがって、純学説的に、公害は資本主義体制の宿命と結論づけるのは短絡的、ということになるのである。

ゆえに、資本主義も、社会主義と同じく理論より実践に問題があったということになり、今後の課題としては現実の歴史の流れの上での資本主義の展開に、素材論も付け加えて問題の所在を探るという方法論が有効であると思われる。


PPP(汚染者負担原則)


PPPという政策原理は、よく考えると、当たり前といえば当たり前である。
むしろ、それが今まで当たり前の原則として機能できなかったところに問題があるのではないか。

このPPPに関する注目すべき動きが今春(1992年)あった。
アメリカが地球サミット憲章の草案(「環境と開発に関する宣言」)の中で、PPPを強調した上で、自由市場の原理を環境保護にも貫徹させる必要性を指摘したのだ。
今後とも世界の環境政策の主流として、ますますその重要性が増していくと思われる。


公共信託財産


この概念は資本主義の眼目たる経済の自由競争という概念と真っ向から対立する。
また人間の「自然は無限である」という気宇壮大な誤解にも正面から是正を迫るものである。
その意味で、今後の環境問題への対策として欠くべからざる視点といえるが、見方によっては公共機関(政府)の特権という見方も成り立ち、やはり最終的合意に至るまでにはかなりの紆余曲折が待ち構えているだろう。
                (1992年、21歳)


ラベル:宮本憲一
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2016年04月02日

環境問題の凝縮としてのハイテク汚染 〜吉田文和『ハイテク汚染』〜

こういう類いの、環境問題に関する専門書(入門書)を読むと、いつものことながら「知らぬが仏」という諺がしみじみと感じられてならない。
危機だ危機だと、ただ漠然と騒がれてもそれまでだが、こういうふうに数字や物質名を逐一詳らかにされると、たちまち目の前に暗雲が垂れ込め、どうしようもない無力感・脱力感に襲われてしまう。
これまで高榎堯『地球の未来はショッキング!』、福岡克也『地球大汚染 黙しているのはもう限界だ』、岡庭昇『飽食の予言』を読んだ時もそうだった。

さてここで、本来なら環境問題についての一般論に入るところだが、とてもちょっとやそっとの枚数で述べられるものではないので、省略しておく。
ただ一言だけ言っておくと、私は環境問題に対して極めて悲観的な見方をしている。

本書の感想に戻るが、かつてハイテク産業といえば、それはいつもクリーンであると言われたが、今やその神話は崩壊した。
有機溶剤による地下水汚染、有毒化学物質問題など、やはり環境汚染の原因になりうる。
そこへもってきて“日本”という特殊性。
本書では最初の方でアメリカのシリコン・バレーの現状レポートがあり、環境保全に関して日本より遥かに法規制等が整備されている
(例えば、人の健康に関わると認定されている有害廃棄物質は日本ではたった9物質なのに対して、アメリカでは450物質である)
アメリカでさえこの有り様だ、果たして後半の日本の現状の杜撰さはいかほどか、と早くも心配になったが、その予感は見事的中した。

宮崎市では半導体工場の排水箇所よりも下流に水源がある、というのはほんの一例である。
日本政府・企業の基本方針は
「地下水保護の法整備については、『発ガン性』の疑いだけで規制するのでは不十分であり、また環境への蓄積性が確認されるまでは使用を規制しない」
ということだが、こういう本末転倒な考え方は、全て環境破壊の諸悪の根源の1つである「生産至上主義」に起因している。
この方針は要するに金儲けのためには大規模な「人体実験」をも容認しますよ、と言っているに等しい。

環境問題の一般論についてはここでは触れないと前述したが、本書には、環境問題一般についていえることが、ハイテク汚染という一例を取り上げていながら、全て集約されていると言える。

「東芝太子工場は、正式には汚染の責任を認めず、あくまで『寄付金』として、水道切り替え費などを支払っており、いまだに勇気塩素系溶剤の使用を続けている。
原因調査にあたった県当局は、地下タンクからの漏れを事実上みとめながら『原因不明』とし、土壌ボーリングによる深度別汚染分析も十分行わず、住民の健康調査も必要なしとした。
住民は井戸水の安全性に不安をもちながらも、散水や風呂に依然として使用している」(P.141〜142)

「半導体製品自体の性能向上が第一の目的であるから、そのための原料ガスや工程には苛酷な条件が求められる」(P.88)

「これらの措置(引用者注『安全な飲料水と有毒物規制に関する1986年法』(プロポジション65))が過剰警告になり、消費動向によって経済的に不利益になる人の出ることを州政府は恐れているが」(P.56)

これら3つの引用は、「環境破壊の元凶の1つは生産至上主義である」ということを象徴しているし、

「以上のように、洗浄剤は有機溶剤にしても、フロンガスにしても、いまや出口なしの状況を呈しているのである」(P.34)

「第四に、浄化のためのばっ気(蒸散)法は、大気への揮発を通じて大気汚染の可能性がのこる」(P.67)

「つまり、水の量と質に大きく依存するハイテク産業が水を汚染したことで、自らの行動の自由を制限されることになったのである」(P.73)

これはの引用は「環境保全運動の八方塞がりの状態、限界」を示唆しているのである。

また、
「工場の誘致・立地にあたっては、自治体と地域住民は、その工場が何をつくり、何を使うのかをよく知らねばならない」(P.185)

という一節は、
「環境問題にあたっての、当たり前なのに忘れられてしまった純然たる前提」
であるし、それに対しての政府の、
「化学物質についてのデータは企業の財産であるとする政策」(P.186)
は、やはり前に戻って、「生産至上主義」の成せるワザである。

ハイテク汚染問題は、これら全ての環境問題に共通する要素を内包している。
よってハイテク汚染を解決しようとすれば全ての環境問題も自ずと解決されるし、逆に言えば全ての環境問題を一括して解決する方法でなくては、どんなに小さな環境問題の1つさえも解決され得ないということを、肝に銘じるべきである。
                (1991.9.30、20歳)

ラベル:吉田文和
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