2016年05月24日

出発点としての虚無と不条理 〜カミュ『異邦人』〜

「健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ」(p.70)

「太陽のせい」で殺人を犯したムルソーは死刑となる。
裁判では母親の死を悲しまなかったことが執拗に糾弾され、そのことが死刑判決の要因ともなったが、この結び付けは何なのだろうか。
その不自然さも含めた上での“不条理”ということか。

これまでの私の思想と重なるところがある。

「この世とは、真実に生きようとすれば殺されるのか。生きるとは欺瞞なのか。」
これは「難波大助を語り継ぐために」に書いたことである。
白井浩司の「解説」によると、カミュは英語版の自序でかなりタネ明かしをしてしまっている。
村上龍が『限りなく透明に近いブルー』のタネ明かしを中国版でしてしまっているように。

「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく」(p.142)

生きるとは、演技をすること=仮面をかぶること。
これはすなわち木村敏『異常の構造』における「偽自己の仮面」論だ。
これは「偽自己の仮面をかぶり損なった者の悲劇 〜井戸誠一『呪われた人々』〜」で書いた。

映画『イージー・ライダー』が描いていたのは、現代では異端者は殺されるということだった。
まさにワイアットもビリーも、難波大助も高崎隆夫もムルソーも、同じ理由で殺されたのだ。

映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』で誤解されがちなのだが、ウィルは現実世界が怖くて出ていけなかったのではない。
自分が社会に出ていけばどういうことになるか、彼は判っていた。
会社面接で滔々と述べている。
意味がない、ということが判っていたのだ。
まさに、
「人生が生きるに値しない、ということは、誰でもが知っている」(p.120)。

ムルソーのイメージは虚無である。
だが「ムルソーは人間の屑ではない」(カミュ、p.142)。
裁判では母親の葬儀の際煙草を喫ったことが咎められる。
その時の様子を見てみよう。
「今度は煙草をすいたいと思った。が、ママンの前でそんなことをしていいかどうかわからなかったので、躊躇した。考えてみると、どうでもいいことだった。私は門衛に一本煙草をやり、われわれは煙草をくゆらせた」(p.12)
普通に躊躇して良心を見せている。
検察官や司祭好みの「人間らしい」心情をちゃんと有している。
どっちでもよかったので喫ったに過ぎない。
殺した時も、どっちでもよかったから殺した。

すべてのことは意味がない。
マリイを愛しているのかいないのかも意味がない。

「これまでのあの虚妄な人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命――そんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか? 誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ」(p.129)

私が宿命を選ぶのではなく宿命が私を選ぶ。
自己の絶対宣言である。
ここにサルトルは実存主義の共鳴を見たわけだが、カミュはそれを否定した。
やがてふたりは訣別していく。

白井浩司は「解説」で秀逸なことを言っている。
「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなくて出発点であることを知らなければならない」(p.142)

これは坂口安吾『堕落論』にも通じてくる主題だ。

表紙絵のせいでもあるが地中海のまぶしい太陽を全編にわたって感じた。
村上春樹の文体に似ている。
訳はカフカ『変身』の高橋義孝に比べたらだいぶましだが、それでもやっぱり「待ちもうける」「こごむ」は使っている。
以下こんな感じである。

「疲らせた」「引きむしる」「葬式の宰領」「天辺のまろく」「輝かな」「ジェラニューム」「アパルトマン」「露台」「かんかん帽」「腋をくり込ませた背広」「踏段」「初めての猫」「捏粉(ねりこ)」「情婦(れこ)」「アンサンブル」「正体をきわめつける」「懲らし足りない」「女をカードへ載せてしまう」「もし懲らしてやらねばならぬと思うか」「ヴィラ」「御柳(ぎょりゅう)」「いちはつ」「菜っ葉服」「判事を真に受ける」「証憑」「丈夫なのね」「慰んで」「事件を持ち上げる」「皮肉な様子」「フランネル」「不均斉」「ごっただった」「袖をからげながら」「桃色事件」「予謀」「不感無覚」「多少出まかせに」「はてしれぬ」「ありとある」「おそろしい心踊り」「ばかげた喜悦で私の眼をチクチク刺激する、あのはやりたつ血と肉の衝動」「人間の裁きには何でもない」「等しなみ」

単語レベルさえこのような言語感覚なのだから、翻訳文学においては、段落レベルにおいても、飲み込めない文が続くのを流し読みして細部はスルーするといった読み方をしなければならないのは避けられないことなのだろうか。
こういう拙訳が、人を読書から遠ざける一因なのである。
p.113や121などひどいものである。
原文を読めばすっきり分かると言われるのはこうした部分だろう。

ラベル:カミュ
posted by nobody at 03:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

現実・非現実の超越、小説の可能性 〜カフカ『変身』〜

リアリティかSFかというのは小説における重要な区分である。
だがそんな区分けなどどうでもよくなってしまう、面白い小説に久々に出会った。
伊集院光は主人公グレーゴルに高校時代の自分を重ね合わせたそうだが、私も、現下の“特殊”状況にある自分を、重ね合わせずにはいられなかった。

虫になったグレーゴルは、人間の心を忘れてはいなかった。
母親と妹によって自由に這い回れるようにするために部屋の全ての家具が運び出されようとしたとき、グレーゴルは壁に掛かった絵の上にへばりついた。
自分の姿を家族の目に触れないように努めてきたが、そんなことよりも、絵を守ることの方が大事だった。
それは人間の証しだった。

妹が弾くヴァイオリン。
皆興覚めしている。
グレーゴルだけがその美しさを認めた。
「音楽にこれほど魅了されても、彼はまだ動物なのであろうか」(p.81)
自分の部屋で弾いてもらいたくて、自分に気づいてほしくて、グレーゴルは自分の部屋から這い出した。
この時も自分の姿が見られることなどどこかへいっていた。
もう自分の部屋は掃除もされなくなっており、グレーゴルの体には埃が積んでいた。
グレーゴルの部屋は物置きと化しており、身動きもできなくなっていた。
つまり虫のための部屋という配慮はもう全くなされなくなっていたのだ。
食べ物も与えられていなかったのだろう。

浴びせられた言葉は、「けだもの」「これ」。
グレーゴルは部屋へ引き返し、死ぬ。
有村隆広の「解説」によると、
「グレーゴルは父親が投げた林檎の傷が原因となって死ぬ」(p.117)とあるが、そんなにタイミングのよいことがあろうか。
私は自殺したのだと思う。
「わりに気分がいい」(p.89)
「安らかな瞑想状態のうちにある彼」(p.90)
そして「感動と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえし」ながら、彼は死んだのだ。

母親も最後はグレーゴルを見捨てたのだろうか。
「母親は咳きこんでいるので、なにも聞こえないのである」(p.85)
とある。
私は母親は夫と娘に同意していなかったと思う。
母親は以前父親がグレーゴルに「爆撃」(p.65)を加えようとした時、着る物も構わず父親にしがみつき、グレーゴルのために命乞いをした。
私はこのシーンに涙した。
もちろん最後までグレーゴルの側に立つわけにはいかなかっただろうが。

父親と妹とて薄情に尽きるというわけではない。
グレーゴルの死後、「三人とも泣いた痕跡が少々見える」(p.92)とある。
結びは家族三人「新しい夢とよき意図の確証」(p.97)に包まれてのエンディングとなるが、これは薄情なのではない。
これこそが人間なのだ。
妹は言っている。
「もしこれがグレーゴルだったら、人間がこんなけだものといっしょには住んでいられないというくらいのことはとっくにわかったはずだわ。そして自分から出ていってしまったわ、きっと。そうすればお兄さんはいなくなっても、あたしたちもどうにか生きのびて、お兄さんの思い出はたいせつに心にしまっておいたでしょうに」(p.87)

人間が突然理由もなく虫になる。
いくつかの可能性があり得たろう。
顔は人間のまま残るとか(そしたら家族も人間の心が残っていると判る)。
言葉は話せるとか(同)。
本書の場合いずれでもなく、そうすると完全に虫と化していなければならないはずで、脳みそも虫なら人間の言葉を解したり考えたりもできないはずだが、まあそこが“小説”。

ただ意思表示はできただろう。
前掲ヴァイオリン・シーンでも「けだもの」「放り出す」という言葉を聞いて、大人しく部屋へ引き返しているのだから、家族はグレーゴルが人間の言葉を聞いている=人間の心が残っている、ということに気付かなかったのだろうか。
仮に気付いていて、それでも虫という表象物とは暮らしていけないとの判断を下したのだとしたら、それはまた違った人間の一面を表すことになる。

またグレーゴルの社会的身分に関してもいくつかの可能性があり得た。
グレーゴルが学生だったら、というのが一番ありふれた設定だったのではないだろうか。
現代日本だったらニートというのも興味深い設定だったろう。
いずれも引きこもりという主題に通じてくる。
あるいは普通の勤労者。
グレーゴルの場合、普通以上の勤労者だった。
というのはグレーゴルは社長への両親の借金を返すために働いているのだ。
文字通り一家の生活の大黒柱だった。
となると若干『呪われた人々』を想起させるものがあるが、それでもなお虫となって時が経てば、けだもの扱いなのである。

これは哀しい物語だ。
哀しいグレーゴルの物語だ。

カフカのうまいところは、描写から事情を読み取らせるところだ。
例えば「いまでは彼の部屋はどこもかしこもたいへんな埃で、彼の体も厚い埃に覆われていた」(p.80)という記述から、ああ、もう妹も部屋を掃除してくれなくなったんだな、と読み取らないといけない。
「〜とでもいうようなふう」「〜していることを推測させた」というような語尾が多用され、それが「冷静な報告調の文体」(カバー・イントロダクション)との評につながっている。

最大の難点は、高橋義孝の翻訳である。

「毛皮のマフ」「ございませんければ」「暇欠き」「最前より」「最初の処置がとられたさいの確信と着実さ」「体もいまはただ口ひとつで立っていた」「翼板」「待ちもうけている」「頭をうつむけていた」「あとしざり」「はいり悩んでいる」「おりおり」「朝まだき」「巴旦杏(はたんきょう)」「勝手仕事」「うしろにとびしさって」「こごみこんで」「挙止振舞い」「足掻きがつきゃしない」「狂熱心」「金モール」「公許」「いけぞんざい」「愁嘆場」「ドアを締める」「馬糞虫」「ドアの透き間」「勝手元」「夕食をしたためる」「調べようがため」「紳士連」「この日ごろ」「滋養分」「椅子に正座し」「断々乎」「勤労中断の十分ないわれ」「とり片づけ」「説明しだしそうにする」「出端のいい」
……このような言語感覚の持ち主の文章など読みたくないものだ。

また「貴下に迫ろうか、これを考慮するつもりです」といったような外国語特有の言い回しには、バーナード・ハットン『スターリン』を直前にも読んでうんざりしているところだ。

日本語による「旧新潮文庫版あとがき」を読むと、なるほど問題は翻訳能力プロパーにあるのではないことが判る。
そもそも「解説」が別にあるのになぜ「旧新潮文庫版あとがき」を載せる必要があるのか。
このことと有村隆広による「解説」の末尾に「高橋義孝閲」とあるのを考え合わせた時、何か高橋義孝という人格の特殊性が浮かび上がる。
せめて普通の日本語で翻訳されていたら、どれほどカフカの名声もいや増していたことか計り知れない。

本書は小説という創作形態の可能性を思い起こさせる。
漫画でも演劇でも映画でもない、小説ならではの魅力といったものは確かにある。

ラベル:カフカ
posted by nobody at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

作品としての村上龍 〜村上龍『限りなく透明に近いブルー』〜

〈問1〉近代から現代へいたる日本文学のもっとも中心的な主題は何でしょう。

答え:〈私〉意識の解体。

〈問2〉本書を通じて唯一現実感を漂わせる箇所はどこでしょう。

答え:最後のリュウの黒い鳥幻覚シーン。

いずれも「解説」での今井裕康の見解である。
常々思っていることだが、小説の解説で文芸評論家はいつもご大層なご高説をこねくり回しているが、当の作家本人はそんなこと全く思ってもいないだろう。
むしろ当の本人が思ってもいない小難しい解釈を与えてくれてありがたがっているだろう。
だから解説者と作家の対談などは行われない。
仮に行われたとしても、作家は「え……ええ、そうなんですよ」と調子を合わせるに違いない。
「解説」というのはその実質というのはどうでもよく、いかにも高尚に見えるもっともらしく難解なことを言っていればよいのである。
それが小林秀雄以来のわが国文芸評論の伝統である。
冗長主義、逆説主義とともに、真の文学の阻害要因である。
“文芸評論主義”とでも名づけよう。
「ここでは、現実的なものが非現実感を与え、非現実的なものが現実感を与えるのだ」(p.158)
ほら、逆説もちゃんとあるでしょ。

〈問1〉、例えば現代における日米関係の源は何かと問われれば、それはペリー来航だ、という衆目の一致する見解というものがある(だから石原莞爾も「ペリーを連れてこい!」と言った)。
今井の設定しているのは最も普遍的な日本文学への問いである。
その回答として、誰も認めてないことを勝手に措定して論を進められるのだから、そりゃいくらだって手前勝手に論じられる。

〈問2〉、今井の主観以外の何ものでもない。
自分で「黒い鳥」は暗喩だと言っておきながら、現実感も何もあったものではない。

本書は、離れてしまうと清冽感を覚えるが、読み進めている最中は、しんどい。
短くてよかった。
生硬なのである。
24歳の処女作なのだからしょうがないといえばしょうがないが。

「モコは手をオスカーに固定されフルコートを塗り込められて悲鳴をあげる」(p.49)
「レイ子がビクンと腹を震わせ小便をもらして、乳首に蜂蜜を塗りたくってケイが慌てて新聞紙を尻の下に押し込む」(p.48)
「陽が沈む時、一部の雲が帯びる独特のあのオレンジ色に近かった。真空のガラス箱を走る、目を閉じても網膜に焼きつく白っぽいオレンジ色」(p.77)
「サブローは、ペニスに擦りつけるように足を折り曲げたり、開いて伸ばしたりしながら、自分はソファにもたれてほとんど仰向けになり、レイ子の体を尻を支点にして回転させ始めた」(p.47)
「回転」というのも非常に解りにくい。
「同時にものすごい速さで尻を回し始める。顔を真上に向けてターザンそっくりの声をだし、オリンピックの映画で見た黒人のヤリ投げ選手みたいに荒い息をして、灰色の足の裏でマットレスに反動をつけ、僕の尻の下に長い手を差し入れ、きつく抱きかかえながら」(p.64)
「今、赤い髪を背中に垂らし腰を曲げたリリーは人形に見える」(p.135)
「ゴム草履にも足の指にも血がついて時々包帯に触れる」(p.126)
「白い大きな車が雨を弾きながら道路すれすれにゆっくりと進んでいる」(p.57)

こんな文を読んでいかないといけないのである。
なるほど村上春樹の本が読まれるわけである。
彼の文章はつっかえるということがない。

私は速読できる者を恨めしく思っている。
本書の通読は私には耐え忍ばねばならぬ過程だったが、速読できる者はどれくらい耐え忍んで読んでいるのだろうかとは思う。
p.145に「グリーンアイズ」が出てきた時、私のように必死にページを繰り返さなくとも、彼らはp.60の前出シーンを即座に思い出せるのだろうか。
結びの文中の「灰色の鳥」とは中心主題の「黒い鳥」とは別のp.102の「頭に冠のような赤い羽根をもつ灰色の鳥」なのだとすぐに分かるのだろうか。
これまた中心主題である「起伏」、クライマックスシーンで出てくる前、p.84で出てきたのをちゃんと踏まえて読解しているのだろうか。

うまいな、と感じた箇所が2つある。
p.102で鳥のエサとしてポプラの根元に放り投げたパイナップルがp.126で再び出てくる。
普通ならここでちゃんと鳥がパイナップルをついばんでいるところ。
だが「夕方だし鳥は姿が見えなかった」。

もう1つは、警察官に踏み込まれるシーン。
「お前なんか自分のオヤジとでもやるんじゃねえのか?」とまで言われて普通なら“若者らしく”饒舌に反抗するところだが、返す言葉は「あの、煙草喫ってもいいですか?」「何かあったんですか?」のみ。

ヨシヤマがケイに未練たらしくヨリを戻そうと話し続けるシーンで、カズオは終始笑いをこらえ、ついには笑い出す。
カズオはどっちかというと弱そうな感じの男だ。
なのにケイには残忍な暴力をふるうヨシヤマが、カズオは一切スルーである。
ここは気持悪いものを感じた。

「鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ」(p.146-147)

「限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った」(p.149)

後者は村上龍の作家としての決意表明だという人もいる。
それはさておき、「黒い鳥」とはシステムの暗喩であり、「起伏」とはそれに立ち向かう一条の光である。
だが「起伏」はいかにも分かりにくい、なぜなら事物でなく形状だからである。

この「黒い鳥」がなければ芥川賞はなかったろう。

本書は諸要素のプラマイ評価を総合的に換算するならもちろん大きくプラスとなろう。
24歳のデビュー作としては、確かに屹立している。
いわゆる文学作品としては他とは異なる別のものといった印象であり、本書は一文学作品というよりは村上龍という才能そのものの表出といった観がある。

これを芥川賞として認めたというのは、まだ公然面における日本文学は形骸化していなかった、生きていたことを証明している。
まさかまだこの時代は又吉に受賞させるほど文学を巡る状況は悲惨ではなかったであろうから。



ラベル:村上龍
posted by nobody at 04:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。