2016年06月23日

「深い虚偽の予感」の謎 〜ドストエフスキー『罪と罰』〜

「『僕もすきになってくれない?』
そのへんじのかわりに、彼は自分にすり寄って来た少女の顔と、彼を接吻しようとして無邪気につきだされた柔かそうな脣とを見た。やにわに、マッチのように細い彼女の腕が、かたくかたく彼を抱いて、頭が彼の肩へ押しつけられた。こうして少女はたえず強く、ますます強く顔を彼に押しつけながら、静かにしくしくと泣きだした」(ニp.78〜79)

最も印象に残った、美しいシーンである。

みんなが畏れ多いという感じで本書を奉っている。
私はどちらかというと、過大評価派に与する。
もちろん重厚な作りには圧倒された。
ただ、結末に、肩透かしのような感じを抱いた。
カフカの『変身』にはケチをつけようという気は起こらなかった。
カミュの『異邦人』もまあ評判通りだったといってよかろう。
しかし本書には、一抹の物足りなさが残る。
青木雄二の大絶賛が本書を読む大きな動機となったのだが。

中村白葉の訳で読まねばならなかったのもきつかった。
本当にこんな訳が通って出版されているというのは、信じ難い岩波書店編集者の怠慢である。
なにしろ「1プード半」の訳注が「6、7貫目」である。
翻訳の長編を読み通すというのは1つの精神的苦行をやりおおせたという価値をもつのだとあらためて思った。
例えば新潮文庫の『貧しき人びと』の木村浩訳、『カラマーゾフの兄弟』の原卓也訳は申し分なく読める。
非常用漢字に振り仮名を振る(というより非常用漢字はなるべく使わない)、普通に日常的に用いられない言葉で訳さないという全く当たり前のことさえしてくれればいいのだ。
さすがに岩波も新しい版では訳者を江川卓に代え、訳注も豊富に入れているらしい。
やっと苦情に対応したわけだ。
私は古本で購入したのが中村白葉訳のため、ただただ耐え忍ぶしか術はなかった。

ドストエフスキーの冗長主義にも幻滅させられた。
まあそうでなければ分厚い本になるわけがないが。

人が現れるたびに、こんな感じである。
「ザミョートフが、あの当のザミョートフが、いくつもの指環に、鎖に、きれいに櫛目を入れて油でてらてらさせた黒いまき毛に、ハイカラなチョッキに、いくらかすれの見えるフロックコートに、うすよごれたシャツという、いつかと同じいでたちで控えていた」(ニp.31〜32)

「第一に彼女は、まだうら若い娘のはずだのに、この炎天に帽子もかぶらず、洋傘も持たず、手袋もはめないで、なんだかおかしな恰好に両手を振りまわしながら、歩いていた。彼女は、薄手の軽い(「マテルチャートニ」織の)絹服を着ていたが、それもやはり何だかひどくへんな着方で、ボタンもかけたりかけなかったり、うしろのちょうど腰のところで、スカートの上の端が破れていた。髪もひと房はなれて、ぶらぶらぶらさがっていた。あらわな頸には、小さい蝶形ネクタイがひっかけてあったが、それもゆがんで、わきの方へ飛びだしていた」(一p.82)

部屋の説明はいちいちこのようである。
「それは、広くはあるが、いたって天井の低い、カペルナウーモフが賃貸している一つきりの部屋で、左手の壁に、その人達のいる方へ通ずるしめきった戸口が見られた。そしてそこはもう、番号のちがった隣りの住居であった。ソーニャの部屋は見たところ、なんとなく納屋といった体裁で、おそろしく不整な四角形をしてを(ママ)り、それが一種畸形な感じを部屋そのものに与えていた。窓の二つついた掘割の方に面した壁は、部屋を斜めに断ち切っていたので、一方の隅は、恐ろしい鋭角になり、鈍い燈火の下でははっきり見わけのつかないくらいの深みへのびているのに、もう一方の隅は、みっともないくらいの鈍角をなしていた。このだだっぴろい部屋には、家具らしいものは殆どなかった。右手の隅の方に寝台があって、そのそばに、戸口近く、椅子が一つ置いてあった。寝台のある壁に添うて、隣りの住居へ通ずる戸口のすぐそばに、青い布のかかった、粗末な板割づくりのテーブルがあり、その周囲には、籐椅子が二脚置いてあった。それから、反対側の壁に添うては、鋭角をなした一角に近く、粗末な雑木づくりの小形な箪笥が、がらんとしたなかに置き忘れられたように立っていた。これだけが、この部屋にあったもののすべてであった。古びて穴だらけになった黄ばんだ壁紙は、すみずみが黒くなっていた。冬はきっとじめじめして、炭気がこもるにちがいない。貧しさはひと目でわかった。寝台にすらカーテンがなかったのである」(二p.299〜300)

顔はいつも「蒼」白く、「脣」はいつもぶるぶるふるわせ、「脣」の端にはいつも冷たく微笑を走らせ、いつもぶるっと一つ身ぶるいし、いつも眼を火のように燃え立たせる。

街を歩く時はいつも疲れていなければならない。
そうでないと書くことがなくなるので。

第六編三におけるラスコーリニコフとスヴィドゥリガイロフとの会話。
スヴィドゥリガイロフは主旨の判らぬ話をダラダラ続け、しかもラスコーリニコフもそれに対してどうでもいい質問を挟みそのままの流れで話を促す。
同八における自首しに来たラスコーリニコフに対するイリヤー・ペトローヴィッチの無駄なお喋り。

私は一般の速読と称する飛ばし読みをしている人と違って、逐文的に読解しながら読み進んでいる。
しかし最後の最後、「終編」のここに到り、ついにギブアップした。
「彼は、苦しい思いをしながら、たえずこの問題を自分に課したが、しかも、あの時すでに、水の上に立ちながら、自分自身の中にも自分の確信の中にも、深い虚偽を予感していたかもしれなかったのを、理解することができなかったのである。したがってまた、この予感が、彼の生活における将来の転回、将来の復活、将来の新しい人生観の予言者だったかもしれないことをも、理解することができなかったのである」(三p.335)
「終編」はたった26ページと少ないが、熟考を要しページが進まない。

本書のあらすじは広く世に知られている。
第一巻のカバー・イントロダクションを引用するとこうだ。
「選ばれた強者は凡人のためにつくられた法を踏み越える権利をもつ――大学生ラスコーリニコフはこの確信のもとに1金貸し老婆とその妹を撲殺する」

だから裁判中心の流れかと思っていたらそうではなく、それどころか犯行の露顕もとても遅かった。

本書は様々な要素を含むと言われる。
「心理小説」と言われるのはその通りだが、「推理小説」とされるのは違うだろうと思う。
「水晶宮」でのザミョートフへの仄めかし、現場を再訪してのベル鳴らし、血の質問、そして何と言っても新聞に掲載された「犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態」論文。
これらの墓穴掘りがあるゆえに、その後のポルフィーリイとの対決が、今一つ精彩を欠く。

犯人追及過程最大のヤマ場は、ペンキ屋ニコラーイの「自白」であった。
なぜやってもいない殺人を自ら認めたかというと、宗教的熱心さから「苦しみを受け」ようとした、ということである。
ちなみにニコラーイはラスコーリニコフの名の由来となっているラスコーリニク(分離派信者)である。
さて、あるネット解説によれば、このニコラーイというのは、ラスコーリニコフが見た子供の頃痩馬が嬲り殺される夢に出てきた男と同名ということである。
本書では「ミコールカ」となっている。
同名なら重大な示唆があるが、中村白葉訳では同名であることすら知ることができないのである。
それどころかニコラーイは所によっては「ミコラーイ」になっている。
ロシア語ではニがミになっていてもおかしくないそうだが、そうとしても一切注記なしというのは犯罪的だろう。

山崎行太郎という「哲学者」は、老婆殺しは実は母(プリへーリヤ・アレクサーンドロヴナ)殺しであると考察していたが、私はそれはないと思う。
というのは、ルージンがちょっと母のことを悪く言うと、ラスコーリニコフは瞬間湯沸器のように激怒しているからである。

また別の人は本書の主題は後進国の近代化だと考究していた。
その人の置かれた立場で何を主題と捉えるかは違うようである。

結びも、ラスコーリニコフがきれいさっぱり改心したとは言い難い。
またもしそうだとしたらそれはありふれた結末にもなってしまう。
どんなに偉そうな、形而上学的な意義付けをしても、でもそれと老婆と妹は関係ないだろ、2人かわいそうじゃん、とこじつけにしか思えなくなってしまう。

死刑だったらまた話は違っていたろう。
ラスコーリニコフは結局懲役8年となる。
2人殺して軽いものだ。
『異邦人』のムルソーは1人殺して死刑だったのに。

むしろ主人公はラスコーリニコフではないのではないか。
カテリーナ・イワーノヴナ、あるいはスヴィドゥリガイロフの生き様、顛末の方に重く悲愴なものを感じる。

カテリーナ・イワーノヴナは、夫の追悼式すら満足に行えず(格を上げる来賓に出席してもらえず)、ついに家主アマーリヤ・イワーノヴナと取っ組み合って追い出され、狂い、訳も分からない子供達に歌い躍らせ物乞いをし、結核で死ぬ。
『闇金ウシジマくん』を彷彿とさせる容赦ない徹底的な不幸描写で、作者はよく描くことに耐えられるなと思う。
『貧しき人びと』でマカールを徹底的に破滅させなかったドストエフスキーが、ついに中途半端な甘さを捨て去ったともとれる。

スヴィドゥリガイロフは、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャを手籠めにしようとして果たせず、しかしドゥーニャが自分をピストルで撃とうとするのを止めようとせず(ドゥーニャはピストルを投げ捨ててしまい生き延びる)、財産を人に全部与えてしまった上で、ピストル自殺する。
スヴィドゥリガイロフは淫蕩に耽る男で、具体的行為も、ドストエフスキーの例のごとくの描写のため判然としないが、ネット解説によって補強すると、妻マールファ・ペトローヴナを毒殺し、下男フィーリカを殺し、愛人レッスリヒ夫人の14歳の娘を強姦して自殺させている。
また私の推測では、
「えへ、アフドーチヤ・ロマーノヴナ! あなたは伝道熱に浮かされて夢中になってたことをお忘れだとみえますね……わたしは眼つきで見てとりましたよ。おぼえてらっしゃるでしょう? あの晩、月がさして、おまけに鶯まで啼いていて……」
「嘘おつき! (ドゥーニャの眼には狂憤の焔が燃えあがった。)嘘おつき、嘘おつき!」(三p.258)
との会話からスヴィドゥリガイロフとドゥーニャの間には肉体関係があっただろう。
(また「わたしが(マールファ・ペトローヴナに対して)鞭などを手にしたのは、七年間の同棲の間に、あとにもさきにもたった二度きりですよ。(もっとも、二様の意味を持っているいま一つの場合をのぞいてですがね。)」というスヴィドゥリガイロフのセリフから、スヴィドゥリガイロフとマールファ・ペトローヴナはSMプレイをしていたと推測する。)

ピストルで撃ち損なったドゥーニャを捕まえたスヴィドゥリガイロフは、
「じゃあ、愛してはくれないんだね?」(三p.261)
と言って受け入れられず、自殺を決意するのだ。
スヴィドゥリガイロフはラスコーリニコフの犯行を知って自分と同じものをラスコーリニコフに感じ、ラスコーリニコフもまた、後には同じような気持をスヴィドゥリガイロフに抱く。
あるネット考察ではスヴィドゥリガイロフはラスコーリニコフの未来の姿、ともあった。

まあ1度きりの精読で主題を掴みこなすのは無理があるのだろう。
確かにもう1度読んでみたいという衝動が残る(せめてクライマックス・シーンだけでも)。
とりあえずは先に引用した三p.335の「深い虚偽=将来の新しい人生観」の予感というのを解明したい。
そこにはまた一段成長した自分がいるだろう。
……中村白葉以外の訳を見れば一発だったりして。


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2016年06月14日

タフで能動的な男達 〜読売新聞大阪社会部『ドキュメント新聞記者』〜

新聞には、ほとんど余白がない。
昔から、それが不思議だった。

いうまでもなく、新聞は1日で作られる。
しかも、以前本か何かに、新聞に掲載できる事件は原則的にその日の午後5時までに起きたものが対象とされると書いてあったのを記憶している。
夕刊も発行している新聞社となると、なおさらきついことは言うまでもない。

つまり、よくもそんな限られた時間の中で、あれだけ活字でびっしりと埋め尽くされた紙面が作れるものだ、と感心していたのである。

仮に、1日に1件も、事件・事故が起こらなかったとする(実際そんなことはあり得ないだろうが)。
果たして、そんな時翌日の新聞はどうなるだろうかと、考えたことがあった。
恐らく新聞社は、そうなってもいつものように、活字に満たされた新聞を作り上げることだろう。

だが現実には、新聞に載っている事件は、その前日に起きた事件のごく一部に過ぎないだろう。
どの事件を載せ、どの事件を載せないかの取捨選択が、綿密に行われているに違いない。

そんな膨大な数に上る事件を扱うわけだから、新聞作りはとにかくスピーディーにやらなくてはならない。
時間との闘いである。
“時間との闘い”とは、単に速さだけを指すには留まらない。
新聞に載る事件は原則的にはその日の午後5時までに起こったものと前述したが、それはあくまでも“原則的に”であって、それ以降に起こった事件でも、急遽紙面に組み入れられることはしばしばある(その辺の紙面の組み直しが凄いと思うのだが)。
したがって、記者には“不寝番”なる役割が存在する。
文字通り、寝ないのだ。
ここにも、“時間との闘い”がある。

本書を読んで一番感じたのは、その辺のことである。
「新聞記者は不可能なことを可能にして働いている」
と言っても過言ではない思いさえ抱かざるを得なかった。
とにかくタフな男たちである。

“時間との闘い”も厳しいが、新聞記者にとって、取材して情報を得ること自体も非常に難しい。
次の引用を読めば、それは明らかである。

「新聞記者にとっての戦いの相手は、猟銃を持ったアフロヘアーの男だけではない。厳しい報道規制をとっている警察も、それに、取材に対して決して協力的とは言えない銀行も、この瞬間には敵なのだ」

「猟銃を持ったアフロヘアーの男」というのは、本書で取り上げられている、昭和54年1月26日に起こった三菱銀行事件の犯人・梅川昭美のことである。

つまり、警察も銀行も、新聞記者が取材に来たとしても、
「やあ、どうもご苦労様です。さあどうぞ訊いて下さい」
と歓迎する、ということは全くないのである。
むしろその逆で、新聞記者にはできるだけ情報を漏らすまいとしている。
この点が、どうしても最後まで腑に落ちなかった。
だから、記者達は、警察の多重無線車のそばに半日近くずっと立っていたり、車の陰に隠れて捜査員の会話を盗み聴きしたりしなければならなかった。

情報を公開して何か差支えがある場合なら話は別だが、何の差支えもないのに情報をひた隠しにする。
少しでも情報が欲しい新聞記者にとって、これほど歯がゆいこともなかろう。
新聞に情報を公開することによって、事件の解決に良い影響を与えることが過去に何度もあったのだ。
近年ではソ連のチェルノブイリ原発事故の際の秘密主義が世界の批判を浴び、その後国連の国際原子力機関(IAEA)によって原発事故の際はいち早く通報することが義務付けられたが、原発周辺の住民は最後まで事故を知らされなかったため、その多くはガンになるだろうといわれている。

また、記者達の動きが非常に“能動的”であることにも感心した。
人からああしろこうしろと命令されるのではなく、自分からああしよう、こうしようという意志をもち、取材に移るのである。
しかもそのどれか1つでも欠けていては記事が成り立たないような、大事なことばかりだった。
これは偶然によってなのかそれとも必然的にそう動いたのだろうか。
どちらにしろ、今後そういう行動のとれる人は貴重な存在となるだろう。

現在はとかく、“高度情報化社会”と言われがちだ。
私など、新聞に大きく載っているから、あるいはテレビで大きく取り上げているから、この事件は大事件なんだなと、その事件の本質に自ら近づこうとせずに判断を下してしまう傾向がある。
今はそういう人が、皮肉にもそのマスメディアによって作り出される夥しい量の情報によって、私も含めて増えている。
そのような社会において、これまで以上に新聞のもつ役割というものは大きくなってくるであろう。

(1989.1 17歳)

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2016年06月11日

胸が張り裂けるほどの甘美な想い出 〜ドストエフスキー『貧しき人びと』〜

私はこの本を古本屋で買った。
前の持ち主は福井貴子さんという人である。

青木雄二がドストエフスキーの入門として薦めていたのでそれに従った。
何しろ青木はドストエフスキー以外読む必要はないとまで言う。
200ページ強という分量もドストエフスキー作品の中では極めて少ないだろう。

木村浩の訳には胸を撫で下ろした。
バーナード・ハットン『スターリン』の訳も木村浩でそれは多少読みにくかったが、本書の翻訳は他の外国文学と比べたら全く素晴らしかった。
というのは最近翻訳ものを立て続けに読んでいて、翻訳に心底うんざりさせられているからだ。
翻訳を批判すると「言語構造が全く異なるのだから読みにくくて当たり前」としたり顔をする奴がいるが、そこを指摘しているのではない。
少なくとも一般的表現として使われない日本語を使うな、と言っているのだ。
そしてそれを“校正”するのは編集者の役目だろう、他の様々なサービスと比較してもこれほどの怠慢が放置されているのは例がない、と言っているのだ。

他の人は速読で飛ばし読みするのが普通のようだが、私は恐ろしく読むのが遅く、その代わり逐文的に読んでいる。
それでも本書は事実関係の把握において解りにくい。
理由は3つある。

@これまでの外国文学は登場人物が少なかったが、多くなってくると、人物の相関関係が解りにくいこと。
それもロシア文学の特性が4点マイナスに作用する。

a.名前が長く、しかも似通っているような感じがすること。エフスターフィ・イワーノヴィチだのフョードル・フョードロヴィチだのエフィム・アキーモヴィチだの……。

b.愛称の断りが全くないこと。例えばマカールはワルワーラを「ワーレンカ」と呼んでいるのである。

c.ロシア人は名前が3節に分かれるようで、場合により初めの方の2節を呼んだり初めと後ろの2節を呼んだりするから別人かと思ってしまう。ワルワーラはマカールを「マカール・ジェーヴシキン」と呼びマカール自身も手紙にそう署名するがチモフェイやゴルシコーフは「マカール・アレクセーエヴィチ」と呼ぶ。

d.名前の1節を、性によって呼び分けるようである。

これらのことに関しては誤解を生じさせるのだから本の中に注意書きを入れるべきである。
それをしないのは編集者の怠慢である。

人物一覧表も、本の頭に入れるべきである。
それをしないのは編集者のサービス欠如である。

さらにどうもドストエフスキーは意図的なようだが、わざと新しく出てきたことを前のページに戻って確かめようとしても突然出てきているように書いているのである。
例えば「あれ、こんな名前の人いたっけ?」と前のページを繰っても分からない。
文脈から、どうもああ初めの方に「女中」と出てきた人のことか、と推測しないといけない。

例えばワルワーラと同居しているフェドーラは、一体ワルワーラとどういう関係にあるのか判然としない(ワルワーラは孤児とある)。
これは次のAとも関連してくる。

A往復書簡体という小説形態であること。
必ずしもマカールとワルワーラの手紙がきっちり交互に載っているわけでもない。

そもそもなぜすぐ近くに住んでいるのに連日手紙を出し合う必要があるのかというのも疑問なところだが、それはともかくとしても、手紙ではお互い心優しさから相手を心配させないようにするため意図的に不幸事が起きてもぼやかすのである。
何が起こったのかはっきりとしない。
さすがにドストエフスキーも無理を自覚したのか、ワルワーラが「折にふれて自分の生活について書きとめておいた手帳」を登場させたりしている。

Bリアリティを出すためか「忘れてしまった」として出来事の経緯を示さないことがあり、これも解りにくさに拍車をかけている。

致命的なのが主題のマカールとワルワーラの関係の不明瞭さ。
私のもってるのは古い本のためカバー・イントロダクションのないやつだが、新しいやつにははっきりとマカールのワルワーラに対する感情は恋愛感情だとしてあるのだ。
なんだ、やはりそうとってよかったのかと。
というのは、年も離れているし(マカールは47歳)、2人は遠い血縁関係にあるようだったのだ。
血縁関係にあるとしても、外国では日本より従兄弟同士の結婚は抵抗が少ないようだが。
本書はドストエフスキー24歳の処女作であるが、そこで自分のような青年ではなく中高年の男の恋愛を取り扱ったというのは何か興味深いことではある。

青木雄二が推すだけあって貧困の描写は迫真でありそこがドストエフスキーの真骨頂なのだろう。
だがマカールは下っ端ながられっきとした役所勤めであり、なぜこれほど極貧なのかも判然としない。
放蕩に耽る性質でもなく、とすれば全部ワルワーラへの援助につぎ込んでいたとでもいうのだろうか。
まあ確かにワルワーラは、基本的にはいつもマカールに自分のためにお金を使わないでと懇願しお金を送り返したりさえしているが、ある時には
「ねえ、もしお芝居に行くんでしたら、あたくし新しい帽子をかぶって、黒いケープを羽織っていこうと思いますの。それでよろしいでしょうか?」(p.109)
と言ったりして、ある人はこんなワルワーラを評して「ドS」と言ったりして、私なんかはそんなところがネコのような女性らしい、ひょっとするとマカールもワルワーラのこんなところにまいっていたのかもしれないなどと思ったりもするような女性ではあったが。

「わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人いっしょに、もう取返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました! わたしは破滅しました。きみも破滅しました。きみもわたしといっしょに、もう取り返しのつかないまでに破滅してしまったんです!」(p.151)

終局でマカールはひょっとして破滅してしまうのでは、と思った時があった。
大事な書類の「浄書」を頼まれたがワルワーラの不幸を想い余って気もそぞろになり1行抜かしてしまい、叱責中にボタンが取れ落ち転がり、追っかけて拾い、挙句の果てニヤニヤと笑ってしまう……。
「クビだ!」となるかと思ったが、逆に閣下はあまりの身なりのみすぼらしさに100ルーブルを恵んでくれるのだ。
エフスターフィも必死にマカールを庇ってくれている。
破滅せずによかったなと思った。
だがここでマカールに真からの破滅をさせなかったのは、ドストエフスキーの優しさなのか、不徹底なのか……。

貧困描写の迫真の他にドストエフスキーの凄さを挙げるなら、あと2点ある。

@手紙に流れる感情の移ろいの描写の巧妙さ。明るく優しく思いやりに満ちた基調の中で、不意に、目に見えるといったほどでなく微妙に、ぶっきらぼうさが混じることがある。不機嫌さを隠そうとしているのである。

Aドストエフスキー文学の大きな観点になると思うが、人間の心理描写の迫真。先のエフスターフィもそうだが、悪い人間は常に悪く、良い人間は常に良くふるまうのではない。人間のふるまいの理に合わなさもうまく描いている。
使用人ファリドーニは、みんながマカールを嘲うようになると態度を一変させる。
「あんたはうちの女主人(おかみ)さんに金を払っていないのだから、わたしもあんたには義務はありません」
「ねえ、あんたはわしに何かおごってくれたことでもあるかね? 自分だって迎え酒の飲み代はないんだろ? どこかの女子(おなご)から20コペイカ玉を恵んでもらっているくせに」
「へん、それでも旦那さまかよ!」(p.152)
「きみはラヴレース(色魔の代名詞)だ」とマカールを蔑んだラタジャーエフはマカールが金巡りがよくなるとあれは「機敏な青年、油断のならぬ若者」という意味だったと弁解し、それを無邪気に
「罪のない冗談だったわけですよ。それなのに、無学なわたしはついかっとなって、腹をたててしまったのです」(p.187)
と受け取るマカール。
「わたしを破滅させるのはお金ではなくて、こうした浮世の気苦労なんですよ、あのひそひそ話や、意味ありげな笑いや、意地の悪い冗談です」(p.150)

破局こそ避けたとは言え、ハッピーエンドではない。
人生はそれほどたやすくはない。
ワルワーラはブイコフとの結婚を決意する。
「もしあたくしからこの恥辱をそそぎ、名誉を回復し、将来ともあたくしを貧困と欠乏と不幸から救ってくれる人があるとすれば、それはあの人よりほかにありません」(p.200)
まるで浜省「丘の上の愛」である。
しかしブイコフとの未来にはもう破局の予感が漂っている。
ある人の書評によればブイコフはワルワーラが余命幾ばくもないことまで見越した上で、俺は哀れな貧しい女を救ってやったという声望を得ようとして結婚したのだという。
貧困に喘ぐ者にとっての救いとは何か。
重い命題を突きつける。

ワルワーラの最後の手紙は胸を抉る。
「あなたをこんなに激しく愛していた、あなたのかわいそうなワーレンカを思いだしてくださいまし。胸を押しつぶされそうでございます。あたくしの胸はいま涙でいっぱい、いっぱいでございます……涙が胸をしめつけ、張り裂けそうでございます!……では、ごきげんよう」(p.213)
手紙は涙で滲んでいた。

「思い出というものは、それが悲しいものでも、楽しいものでも、いつも悩ましいものです。もっとも、その悩ましさは甘美な悩ましさといえるでしょう」(p.60)

読みながら、過去の想い出の断片がフラッシュ・バックした。
人生の甘美さを思った。

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