2010年02月26日

難波大助を語り継ぐために 〜牛島秀彦『昭和天皇と日本人』所収「『難波大助』は生きている」〜

難波大助は、19231227日に、当時の摂政宮(昭和天皇)を、東京・虎ノ門において、仕込み杖銃で狙撃した。
世に言う「虎ノ門事件」である。
しかし裕仁皇太子は無傷であった。
 

ここに1つ目の謎がある。
果たして大助は、どれくらい本気で裕仁摂政宮を殺すつもりだったのか。
殺せなかったのは大誤算だったのか。
それともそれほど殺すことに執着していなかったのか。
というのは大助は裁判の最終陳述でこう言っているのだ。
 

「皇太子には気の毒の意を表する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る」。
 

反皇室に凝り固まっていたわけでもないようだ。

そして無傷とはいえ狙撃を受けた裕仁皇太子は、この災禍に遭遇した後も、つつがなく第48回帝国議会の開院式をこなしている。
本当に、裕仁皇太子は動揺しなかったのか。
それとも必死に動揺を表に出すことを制したのか。
これが2つ目の謎である。
 

この事件で、難波家は瓦解する。
それは大助自身をして
「社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう」(最終陳述)
と言わしむほどの壮絶さであった。
難波家は山口の名家であり、大助の父作之進は衆議院議員を務めていた。
事件を受けて作之進は即日衆議院議員を辞職。
難波家を廃絶したうえ、自宅に蟄居し絶食に近い状態を1年余り続け、ほぼ自殺のような形で餓死する。
 

また大助自身の遺体も(土葬)、これ以上ないほどぞんざいな扱いを受ける。
筆者の牛島は大助の墓を突き止めようとするのだが、結局明確な場所は分からないままに終わる。
難波家の崩壊、大助の遺体の無残な扱いに、天皇に逆らうことがどれほど壮絶極まる“報い”を受けることになるかが、如実に物語られている。
 

私が大助を凄いと思うのは、生きながらえる選択肢があり得たのに、それを捨てて死刑になっているところである。
果たして私は、信念のために死ねるだろうか。
とてもできないと思う。
 

当局は、大助が
「己れの所業は、天に恥じるもので、心から後悔しています」
という反省陳述さえ行えば、
“改悛の情著しきを以て、情状酌量し、死一等を減じて無期懲役”
という判決を下す手はずにしていて、大助も、最愛の妹安喜子を何べんも面前で泣かしめるという卑劣な当局のやり口に辟易し、反省陳述することを約束していた。
 

ところが大助は、土壇場で信念を取った。

「『日本無産者労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インタナショナル万歳!』と、とどろきわたるような大声で、絶叫したのである。
 
 この大助の行為に激怒した司法大臣横田千之助は、ただちに死刑執行命令書に署名をし、刑執行は、判決後わずか二日目に実施という異例を作ったのだった」。(116ページ)
 

死刑執行は、19241115日。享年25
 

大助はこんなことを言っている。
「私は私の愛する東京の土となることが希望なのです」。
大助は2度“無断上京”し、2度許可を得た上京をし、そして1年弱という短い期間ながらも早稲田第一高等学院に通学している。
故郷山口でなく東京の土になりたい。
これも私とフィーリングの重なるところである。
 

大助の真骨頂は、最終陳述における以下の叫びであろう。
 

「《先ず第一に尋ねたいことは、昨日より裁判長も検事も、天皇に対して懼れ多い懼れ多いと、まるで天皇を神様のようにいわれるが、本当に天皇は神様のように懼れ多いのか。私にはどうしてもその気持が湧いて来ない。自分にそういう気持が湧けば幸福と思うが、どうしてもその気持になれない。本当にそういう気持が湧くのか、それを心から尋ねたい》と悲壮な声でつめよった。そのとき、裁判長も検事も黙して答えない。彼は言葉を転じて、《然らば、天皇は神様ではないが、国家生活を為す上に国の中心的象徴として、扇の要の如くこれを認めて、その存在を尊敬し、一種の有機的機関として肯定しているのか!》これにも満場黙して答えない。
 彼は再び質問を致して、《このことに答えないなら、然らば天皇に対して刑法に不敬罪その他恐るべき刑罰を以てその存在を示している法の威力に屈して、その態度をとっているのか》――これにも答えない。
 
 陰鬱な沈黙が法廷を蔽った時、彼は突然として、《吾れ遂に勝てり。君らが答え得ない処に自己欺瞞がある。君らは卑怯者だ。吾れ真実に生きる喜びをこれで実証したり、吾れを絞首刑にせよ!》と絶叫して、満場の人をして色を失わしめた」。(114115ページ)。
 

この世とは、真実に生きようとすれば殺されるのか。
生きるとは欺瞞なのか。
 

難波大助という男がいたこと、
難波大助がかく生きたということを、我々は語り継いでいく必要がある。
果たして我々は彼の生き様を直視できるのか、と。

ラベル:牛島秀彦
posted by nobody at 00:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お墓は、ご両親が蟄居された家の先にあると思います。
Posted by 花子 at 2015年05月17日 09:02
大介さんを知りたいなら立野に行くと答えはあります。
Posted by C at 2017年06月25日 13:45
花子様、C様、コメントありがとうございます。
Posted by nobody at 2017年06月30日 14:38
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