2014年07月12日

己を愛し、然る後に人を愛すべし。されば愛されん 〜瀬戸内寂聴『生きることば あなたへ』〜

「愛したとたん、苦しみがはじまるのが恋というものです」(P.6「まえがき」)。
なるほど、愛とは苦しみなり、か。

「孤独は人間の本性なのです」(P.8同)。
俺以外の人はそうは見えないが、そうなのか。

「逢った者は必ず別れます。
別れのつらさには、決して馴れるということがない。
いくどくり返しても、別れはつらく苦しい。
それでもわたしたちは、こりずに死ぬまで、人を愛さずにはいられない。
それが人間なのです」(P.11「一  わかれ」扉)。
唯一の例外は本物の恋愛だと思うのだがなあ。

「逢った人間は必ず別れなければなりません。
死なない人間がいないように、別れのない人間どうしの関係も
ありえないのです」(P。22同)。
会者定離。
無常……。

「人との出逢いのあとには、必ず想い出が残されます。
(略)
生きるとは、人に出逢い、やがて別れていくこと」(P.32同)。
サヨナラダケガ人生ダ……。

「生きている与えられた限られた時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います」(P.40同)。
死んでいく時は独りなのだから……。

「人間が好きで、だからこそ小説書きになったわたしにとっては、人との出逢いが、たといそのため、苦痛や悲哀を伴っていても、生きている何よりの証しとして嬉しく有難いことに思われます。
まことに、人はなつかしく、恋しく、哀しいものです」(P.42同)。
出会いこそ生きている証し、か。

「人は孤独だから互いに手をつなぎ、肌と肌であたためあおうとします。
心と心で語りあいたいと思い、相手をほしがるのです。
自分の孤独をわかってくれる相手がほしい。
そしてその孤独を分かちあってほしいのです」(P.57「二  さびしさ」)。
でも誰でもいいというわけじゃあない。

「自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない」(P.61同)。
俺は充分孤独だと感じているがなあ。

「自分はこんなにさびしいのだから、あの人もきっと人恋しいだろうと思いやった時に、相手に対して同情と共感が生まれ、理解が成り立ち、愛が生まれるのです」(P.64同)。
思いやりから、愛は生まれる。

「愛する人があって、自分が愛されている自覚が、生きることにはいちばん大切なうれしいことです」(P.75同)。
あまりにも当たり前過ぎることの再確認。

「孤独に甘えてはいけません。
孤独を飼い馴らし、孤独の本質を見きわめ、自己から他者の孤独へ想いをひろげるゆとりを手に入れないかぎり、孤独の淵から這い出ることはできないのです」(P.78同)。
おっと、ピリッときた。

「男の背のさびしさに気づき、それに惹かれてしまったら、女はもう、その男に捕らえられたといってもいいと思います」(P.81同)。
背中で語る、か。

「『時』はその人とともに生きつづけます。
肉親よりも、夫婦よりも、空気や太陽よりも、人は自分の時と永遠につきあわなければならないのです。
そして時をふり返るというのは、よほど幸福な時か、ほんとうに孤独に打ちひしがれた時であるようです」(P.85同)。
まさに今。
もちろん後者。

「恋愛が下手、恋人ができないという人は、相手の気持ちを察する想像力に欠けている人です」(P.116「三  くるしみ」)。
誰だ、えらそうに「現代人は想像力が欠けている」と言っていた奴は。

「女は恋人の上に理想の男の仮面をかぶせ、ほんとうの恋人と思いこんで身をやいていきます」(P.117同)。
なるほど、これが女性の恋か。

「み仏は、ただ向こうから何かを与えて下さるのではなくて、人間のなかに自分で立ち上がり、自分で考える力をよみがえらせて下さるのだと思います。
それにみ手をかして下さるのです」(P.145「四  いのり」)。
他力本願を誤解すべからず。

「死者の魂は、生き残された者がいかに、彼らのことを切に思い出すかによって輝きます。
死者を忘れないということは、自分の原点を忘れないということです」(P.156同)。
自分の原点は、吉田松陰だ。

「人を怨む心ほど辛いものはありません」(P.159同)。
愛の対極。

「神や仏は、人間の弱さのすべてを見とおして、すべてをゆるし、受け入れ、励まし、ときには叱ってくれるものなのです。
(略)
わたしたちが忘れていてもいつでも一方的にわたしたちを見守り、はらはらしながら、弱いまちがいの多いわたしたちの生を大過なきよう、幸せであるよう祈ってくれている力なのです」(P.166同)。
最も得心できる神仏論。
「はらはらしながら」というのがいい。

「自分をよくととのえたなら
自分こそ得がたい
主人になるだろう
(法句経一六〇)」(P.175同)。
己を客観視するというのは真理なのだなあ。

「幸福になるためには、人から愛されるのがいちばんの近道です。
そのためにはまず、自分が自分を愛さないといけません。
よくがんばっているなと、自分をほめる。
そして自分が幸せな気分になるのです。
自分が自分を愛して幸せになったら、そのあなたを見て、必ず人が近づいてきます。
するとその人も幸せになり、自分ももっと幸せになる。
幸せとは、循環なのです」(P.190「五  しあわせ」)。
つまり、頑張らないといけない。

「みんな自分の身に起きた不幸が、世界一のように思いこみたがります。
けれども世の中には不幸と同じくらいの幸福もばらまかれているのです」(P.201同)。
むむっ、よく見ると「世の中には」か。
「自分」じゃないの?

「自分以外に心にかかる人がいるということ、それが生きる喜びです」(P.202同)。
自分ではないわけか。

「大いに人を愛し、たとえそこで傷ついても、次にさらに愛は深まることになるでしょう。
恐れることはありません。
傷を恐れていては愛することはできないのです」(P.209同)。
ノブと同じこと言ってるなあ。

「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです」(P.214同)。
ん?  「才能に努力しつづける」?

「『己れを忘れ他を利するものは慈悲の極みなり(これを「妄己利他(もうこりた)という)』
自分の幸せだけを考えない。
自分の利益だけを考えるような生き方はしない。
自分の生きていることが人の幸せにつながるよう、自分を犠牲にして他の幸福のために奉仕する。
そういう生き方をしてこそ、わたしたちはほんとうに生きているという、生きる喜びにつながるのだと思います」(P.216同、カッコ内引用者)。
堤さんを思い出すなあ。

「どうせ何かの縁で引き受けてしまった以上、どの仕事も喜びをもって心から進んでやりこなすのです。
厭々することには情熱は湧きません。
情熱の湧かない仕事は成功するはずがありません。
仕事をはじめるとき、必ずこれはできる、うまく予想以上にできると自分に暗示をかけます。
必ず成功するのだから嬉しいはずだと自分にいいきかせます。
すると、やりたい気持ちが盛り上がってきて、肉体も精神もいきいきしてきます」(P.217同)。
仕事の方法。

「昔のこと、済んだこと、いやなことは忘れて、かわりにいいことはいつまでも覚えているようにしましょう。
(略)
腹の立つことは毎日毎日いっぱいあります。
いっぱいあるけれどそれにこだわっていたら、ただでさえ悪い器量が、ますます悪くなります。
だからそういういやなことは忘れようと決めたのです。
それからは気持ちがとても楽になったのです」(P.218同)。
長生きの秘訣。

「愛というのは、人を喜ばせること、人のために尽くすことです。
それには気持ちの先まわりをすること。
相手がいま、何を欲しがっているかを見抜き、そのことをしてあげる。
いやがることはしない。
愛とは、想像力です」(P.219同)。
では“自己愛”とはなんだ?

「自分のなかで表現されたがっている命のうめき声を聴く能力を持たなければ、わたしたちはものを創るきっかけがつかめません。
そのうめき声を聴きとる耳と心を持つには、努力して自分を磨いていかなければならないのです。
そのためには自分が好きなことを一生懸命やってみることでしょう。
どれをやっていいか分からないときは、片っぱしからやってみたらいいのです。
そうすると、自分が一番好きだと思っていたものが二番目で、それよりもっと好きなものがあったのに気がつくこともあるのです」(P.220同)。
「命のうめき声」か。


既成仏教が権力=体制の護持役にしか過ぎぬことは歴史が証明しているところであり、オウム事件でも見たところであった。
「仕事があることはとても有り難いこと」(P.186)
「どこでも自分の置かれた場所で一生懸命努力すればそこに真の生きがいを見いだせる」(P.198)
あたりはその役割を遺憾なく発揮している。

しかし筆者の面白いところは、単なる仏教徒(仏教が全て)ではない点である。
「神や仏」という言い方をしている。
そして原爆犠牲者の例をあげ
「わたしは仏教に帰依した者ですが、因果応報という意味を、このような形では納得できません」(P.162)としている
(ちなみに彼らには「定命」(じょうみょう)があったのか?)。
ある意味仏教批判であろう。

この線を伸ばしていくと、反体制志向が垣間見えるところまでくる。
「しかしいつの時代でも、掟からはみだし、その罰を骨身のたわむほど受けても尚、反逆の道を歩かねばならない人間がいます。
その人の流す血によってのみ、女の歴史は書きつづけられているような気がします」(P.120)。

出典一覧(本作はアフォリズム集である)には
『瀬戸内寂聴・永田洋子  往復書簡─愛と命の淵に─』
の書名も見える。
まあしかし別に反体制志向までいかなくとも、仏は
「すべてをゆるし、受け入れ」(P.166)
るものなのだから、本来の仏教は永田をも許し受け入れるはずなのだが、逆に体制護持に回っているのは摩訶不思議というしかない。

「わたしは宇宙と一つにとけあった自分を感じ、山の聖霊の気がからだじゅうに流れこむのを受けとめていた」(P.221結び)。
宇宙との一体感。
これはP.176にも出てくるのだが、私は宇宙まではいかないにしても、P.176〜177にある
「大自然の雄大さ、美しさが心を満たし、自分という卑小な存在が、山河大地と一体となり、自若として動じない大安心が得られるように思えます」
というような大自然との一体感なら味わったことがあるのだ。
あれは忘れもしない、初めてRと会った後福智山に登りその山頂に立った時のことだ。
大自然に吸い込まれ、溶けてしまいそうな感覚に陥った。

またP.221といい
(「その夜はたまたま中秋の名月であった」で始まる)、
P.204〜205といい
(「鈴虫をくれた客が帰った夜、ひっそりとした庭におりて、わたしは、いただいた鈴虫をどこに放とうかといい場所を探してまわった〜月光の下でわたしはふと、浄土だなと思っていた」)、
まるで散文詩のような趣の文章もある。
後者は見開き2ページで、センター寄せの配置がしてある。

アフォリズムは最長が見開き2ページで、ほとんどは1ページのセンター寄せである。
最短は1行。
段落・行頭1マス空けもなく(この辺はネット的)、必ずしも行末まで埋められず、詩のように途中で行替えしているところもある。
おのずと余白が多い。
私もこのような装丁で本を出してみたい。
字数(分量)も少なくて済み、読者もサクサク読めるから一石二鳥というものである。

P.101の
「一(いち)を十(じゅう)にきりかえてしまう」は、
「−(マイナス)を+(プラス)にきりかえてしまう」
の誤植であろう。

筆者は
「出家とは生きながら死ぬこと」(P.45)
と言う。
この辺の境地は、私などに分かるべくもないのだろう。
                                   (2014.1.2  42歳)

ラベル:瀬戸内寂聴
posted by nobody at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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