2014年08月08日

滅びという武士の必然 〜司馬遼太郎『峠』〜

現今の自分の境遇と重ね合わせることは、一切やめる。

継之助は己の性欲が強いことを自覚していた。
吉原での小稲、京での織部との逢瀬。
旅に出れば旅籠で女を買う。
松陰とは正逆である。
松陰の禁欲を思うと、嫉妬も湧き素直に感情移入できない。

何か反発のような感覚を抱きながら、河井継之助の生き様を辿っていった。
反発というのは、なぜ継之助は力があるのか、なぜ人は彼に従うのかということだった。

最後には彼は長岡藩7万4000石の筆頭家老になり、戦争が始まると総督になり、「諸藩連合会議(長岡・会津・米沢・村松・上山(かみのやま)・村上の6藩+旧幕軍)の座長」にまで成り上がる。
文字通りのトップであり、それなら文句はない。
問題はそれ以前だ。

客観的な権威の裏付けがないのになぜ権力があるのか。
その秘訣は威圧と屁理屈のような論理にあるように思う。

前者に関しては
「気ニヨリ圧スノミ」といった記述があったし、後者については横浜への対露警備行軍を途中で放擲しての遊郭行きにおける言い訳
(その分藩の経費を救った、警備に就けば逆にロシアに侮られた等)
が好例だろう。

解説で亀井俊介という米文学者が言っていた通り、継之助の人物像は
「矛盾するところがあって捉えにくい」
というのが客観的なところなのだろう
(亀井氏は「解説」中で本編への批判臭いことを書いていたが、初めてのケースだ)。

例えば
「福沢(諭吉)は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。
情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてもっとも大事なものとしている」(中P.426〜427、カッコ内引用者)
とあるかと思えば、
「継之助は、にがりきっていた。
ーー一同、それぞれの藩の宰相、もしくはそれに準ずるものではないか。
とおもうのである。
一藩を宰領してゆくのは涙ではない、乾ききった理性であるべきだと継之助はおもっていた」(中P.560〜561)
とあったりする。

しかるに司馬は継之助を
「すべてにおいて原理原則を貫かないと気が済まない」
男と道破しており、その通りなら矛盾など生じようはずもないのだが。

原理を追求する継之助は威圧と屁理屈により
(その緩衝剤として「おみしゃん」「〜してくりゃえ」というかわいらしい話し方をする)
局面を打開し、その結果として成り上がっていった。
だがそれはなんとかかわしてきた、悪くいうと糊塗してきたのだ。
本質的な方法ではない。
いつか行き詰まる時がくる。

それが彼の運命を決した小千谷談判であった。
不運はある。
相手の官軍軍監が岩村高俊という弱冠24歳の小物だったこと。
もし官軍総指揮官黒田了介(清隆)か山県狂介(有朋)であれば談判は成功していたかもしれない
(後に松門の品川弥二郎は「なぜ黒田了介か山県狂介が出て直接河井に会わなかったか」と悔やんだ)。
それは継之助の人物を知っていたから。
しかし裏を返せば、継之助の威圧と屁理屈という虚飾を剥ぎ取ってむき出しのままで本質的に対峙した場合、継之助のやりようは通用しないということの証明なのだ。

ここで初めて、継之助のやり方は挫折した。
それは見ていて痛々しいほどだった。
何度断られても断られても、何度も何度も嘆願書を官軍総督の公卿に取次いでほしいと頼み続ける。
ついにそれは叶うことなくここから継之助が去ることにより北越戦争の幕は切って落とされることになる。
後に新政府部内で一致した反省がもたれたのは、継之助を去らせたのは官軍の大きな失敗だったということであった。

北越戦争。
それは維新の内乱中最も激烈な戦争と呼ばれた。
西郷吉之助(隆盛)は喝破した。
「奥州の敵は、土佐の板垣退助にまかせる。
北越こそ、戊辰の関ヶ原である」。
この戦争では松陰門下の時山直八が戦死している。

継之助の心はこうだった。
「しかしながら智謀などはたかが知れたものだ。
智力のかぎりをつくし、あとは天をも震わせるような誠意をもって運命を待つしか仕方がない」(下P.257)。
「人間、成敗(成功不成功)の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない。
『美ヲ済(な)ス』それが人間が神に迫り得る道である、と継之助はおもっている」(下P.301)。

継之助は左肩、続いて左膝下に被弾し、それが元で命を落とす。
最も印象深く残ったのはその結びのシーンである。

「松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。
薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
『松蔵、火を熾(さか)んにせよ』
と、継之助は一度だけ、声をもらした。
そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
八月十六日午後八時、死去」(下P.431)

総括は次の文になろう。
「長岡という小藩にうまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を生んだことは不幸であった」(下P.347)。

司馬はあとがきで
「私はこの『峠』において、侍とはなにかということを考えてみたかった。
それを考えることが目的で書いた」
という。
武士というもののある意味究極まで洗練された比類のない美の人間型。
しかしその行き着く果てが藩もろともの破滅であったというのなら、それが武士の必然的帰結というのだろうか。



ラベル:司馬遼太郎
posted by nobody at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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