2016年04月03日

進歩の概念への懐疑 〜宮本憲一『環境経済学』〜

近代文明と環境


かつて、「進歩」という概念は、「平和」や「自由」などの概念と同様、所与のごとく存在し、その絶対的意義を疑う者など誰もいなかったし、また疑う必要もなかった。

ところが現代という時代の最も大きな特徴は、“マネタリズムの総帥”ミルトン・フリードマンが「ノーベル賞受賞者百人による討論」の中で言ったように、その疑う余地もなく当たり前と見做してきた「進歩」という概念に対して懐疑を抱いてかからねばならなくなった点にある。

それを最もストレートな形で指摘していると思われるのが、市井三郎『歴史の進歩とはなにか』の中にみられる以下の件(くだり)である。

「だが、人間歴史の『進歩』とは何であったのだろうか。
まさに西欧近代は、人間歴史の『進歩』が必然である、という強い信仰を生んだのである。
18世紀いらい、その信仰を根拠づけようとする著述は、数多く書かれてきたではないか。
にもかかわらず、進歩の理念それじたいが、まさに懐疑にさらされているのが現代の特徴なのだ。

それを時代の病弊とはいえないだろう。
『進歩』への懐疑には、正当な理由があるからである。

科学技術の『進歩』なるものは、人類みなごろしの可能性を現実のものとした。
水爆やその運搬ミサイル技術の『進歩』なるものが、何を意味するかを少し正気で考えてみれば、そのことは自明とさえいっていい。
だがさらに、それだけではないのである。
公害の問題は、究極兵器の問題を別にしても、人類みなごろしの可能性を示唆しはじめているではないか。

(略)少なくともこれまでの『進歩』の思想には、どこか根本的にオカシイところがあったといわねばならない。
人間歴史のある面での『進歩』のゆえに、人間がすべてみな殺しの予感あるいは圧政下に生きる、といった帰結を生じるとすれば、そのような『進歩』は進歩の名に価いしないはずだからである。

『進歩』の理念と歴史の現実とは、すでに現代、このようにはなはだしいズレを見せるにいたった。

(略)無限の高度経済成長なるものは、原理的に不可能なのである。

(略)単純素朴に必然的『進歩』を信じる歴史観が、ここで根本的に吟味されねばならぬのである。」(P.9〜16)

似たような言い方は、世に氾濫するいわゆる「環境論」に必ずといっていいほど登場する。

立花隆は『エコロジー的思考のすすめ』の中で言う。

「同じように、進歩という概念についても、われわれはもう一度考え直さなければならない。

進歩とは、目的論的な方向性をもった変化のはずである。
人間が進歩ということばを用いるケースをいくつか検討してみよう。
漢字の読み書き能力の進歩、料理の腕前の進歩、よりこわれにくい時計を作る技術の進歩……こういった目的が明確に設定されている進歩はよい。
だが、こうした日常的な、ミクロの進歩のベクトルの総和がどちらを向いているのか、その到達地点であるマクロの目的についての構想はあるのか__だれもそれを考えていないようである。

どうやら、人間はこの点に関しては予定調和の幻想に酔っているらしいのだが、現実には文明のベクトルは予定破局に向かっているような気がしてならない。
そしてなお憂うべきことは、このベクトルの長さ、つまり速度がますますはやまりつつあることである。

生態学の観察する自然界での変化の速度は正常な変化であるかぎり緩慢である。
生物は、あるスピード以上の変化には、メタボリズム機能の限界によってついていけなくなるからである。

進歩という概念を考え直すに当たって、生態学の遷移という概念が参考になるにちがいない。
遷移のベクトルを考えてみる。
その方向は系がより安定である方向に、そして、エネルギー収支と物質収支のバランスの成立の方向に向けられている。
その速度は目に見えないほどのろい。
なぜなら、系の変化に当たって、それを構成する1つ1つのサブシステムが恒常状態(ホメオスタシス)を維持しながら変化していくからである。
自然界には、生物個体にも、生物群集にも、そして生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。

文明にいちばん欠けているのはこれである。
それは進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である。
進歩は即自的な善ではない。
それはあくまでも1つのベクトルであり、方向と速度が正しいときにのみ善となりうる。

いま、われわれがなにをさしおいてもなさねばならないことは、このベクトルの正しい方向と速度を構想し、それに合わせて文明を再構築することである。」(P.220〜221)

また、『地球を救え』の編者であるジョナサン・ポリットは『世界』1991年11月号に掲載された「地球を救うための三条件」と題する論文の中で指摘する。

「近年の歴史においては、1つの世代の行為は必ず次世代の生活をよくする、というほとんど暗黙の仮定が存在してきた。
戦争をしなければならないとしたら、その後には平和がつづくだろう。
犠牲が必要だとすれば、繁栄がその報いになるだろう。
それは1つの世代がごく自然に次の世代の未来を保証しようとする集合的な動機の一部であった。

明日を犠牲にすることによってのみ今日の繁栄があり、子供の安寧がわれわれ自身の飽くことなき要求(ニーズではない。というのも、地球の生命維持システムを破壊しているのはニーズを満たす行為ではないからだ)を満たすために犠牲にされつつあるという認識は、非常に重要な情緒的・心理的ターニング・ポイントを記すものである。
多くの人がそうした認識を共有した時にはじめて、指数重視の経済成長と世界的な物質的繁栄という死の罠からわれわれ自身を救いだすための真に政治的な行動の余地が生じるだろう。」(P.215)

聖学院大学専任講師(経済学)である柴田武男氏は、同誌1992年2月号の中の「企業社会は地球環境を守れるか」という論文において、バルディーズ原則の前文から以下のような引用をしている。

「企業とその株主は、環境に対して直接的な責任を負っている。
(略)企業による利潤追求は、それが地球の健康状態と保全とを損なわない限度において行われるべきものであると信じる。
企業は、次世代が生存に必要なものを手に入れる権利を侵害するようなことは、決してしてはならない」(P.63)

無論のことながら同趣旨のことは、本書でも1972年の国連人間環境会議の開会の席上におけるワルトハイム国連事務総長のことばなど、満遍なく散りばめられていることは言うまでもない。

そして「進歩の概念への懐疑」という問題提起に対する結論も、ほとんど全てのいわゆる「環境論」においてはパターン化している。
その代表的言詮を1つだけ、前出ジョナサン・ポリットの論文より引用しよう。

「私たちの未来はそうした『世界は一つ』の意義を再発見し、絶えず『自然を征服』しようとしてそれと戦うのではなく、それを祝福することを学ぶことにかかっているのだ。
当然これは大きな哲学的転換を表すが、なによりも重要なものである。
なぜなら私たち自身と自然界との最終的な疎外が癒されうるのはこのレベルにおいてなのだから。

(略)歴史は自己満足の余地をほとんど許さないが、私たちが充分に賢く、情け深いと想像するのは、最終的には信念の問題である。」(P.217)

と、最後は結局各個人における「意識変革」、すなわち心の問題に全てが委ねられる。
だが、こんな甘っちょろいことを言っているようでは環境問題の解決など望むべくもない、というのが私の見解である。
心の問題に解決を求めるなら求めるで、もっと徹底すべきである。
ともあれ現在の先進諸国の生活水準の維持を前提としているうちは、全ての方策は思弁の域を出ない。
人間は一度覚えたうまみからは離れられないし、自分たちだけが特別な負担を強いられることに最も強く抵抗するものなのである。

近代文明と環境を考える場合、常に「進歩」の概念への懐疑という問題と照らし合わせるべきだろう。


資本主義と公害


初め、私は公害を資本主義(自由経済競争)の専売特許だと考えていた。
しかし環境問題の鉄則は本書にもある通り、「素材からはいって体制へ」という方法論である。
どちらか一方だけを追っていたのではまさしく片手落ちそのものである。
当初の私のように「体制」のみから環境問題を捉えようとすれば、本書と同じく
「では社会主義国に公害が存在するのはなぜか」
という陥穽に嵌まるは必定である。

案の定、資本主義に公害は必然的と見做すのは短絡的であるということが、前出の柴田武男氏の論文を読んで判明した。

自由経済の下の企業経済体制に問題ありとするならば、自由経済の元祖アダム・スミスにまで遡らねばならない。

スミスの『国富論』といえば、「見えざる手」のみ有名となっているが、実はこの一節全体の主語は「会社」ではなく「各個人」である。
さらにスミスは当時の特権的合本会社の業務運営を、「怠慢と浪費」という用語を用いて批判している。
つまりスミスの考えた経済主体は決してこうした合本会社なのではなく、自然人たる各個人、すなわち「人間」そのものであったというのだ。

これがどういうことを意味するのかは、彼がまた『道徳感情論』の著者でもあったことを想起するとはっきりする。
スミスはこの中で人間本来の行動原理として「共感」原理、すなわち自己規制を挙げており、それを前提として自由な経済活動が認められるという論理構造をとっている。
ところが現代の企業経済体制の主体たる株式会社にはこの「共感」原理が働いていない。
したがって、純学説的に、公害は資本主義体制の宿命と結論づけるのは短絡的、ということになるのである。

ゆえに、資本主義も、社会主義と同じく理論より実践に問題があったということになり、今後の課題としては現実の歴史の流れの上での資本主義の展開に、素材論も付け加えて問題の所在を探るという方法論が有効であると思われる。


PPP(汚染者負担原則)


PPPという政策原理は、よく考えると、当たり前といえば当たり前である。
むしろ、それが今まで当たり前の原則として機能できなかったところに問題があるのではないか。

このPPPに関する注目すべき動きが今春(1992年)あった。
アメリカが地球サミット憲章の草案(「環境と開発に関する宣言」)の中で、PPPを強調した上で、自由市場の原理を環境保護にも貫徹させる必要性を指摘したのだ。
今後とも世界の環境政策の主流として、ますますその重要性が増していくと思われる。


公共信託財産


この概念は資本主義の眼目たる経済の自由競争という概念と真っ向から対立する。
また人間の「自然は無限である」という気宇壮大な誤解にも正面から是正を迫るものである。
その意味で、今後の環境問題への対策として欠くべからざる視点といえるが、見方によっては公共機関(政府)の特権という見方も成り立ち、やはり最終的合意に至るまでにはかなりの紆余曲折が待ち構えているだろう。
                (1992年、21歳)


ラベル:宮本憲一
posted by nobody at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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