2016年05月05日

作品としての村上龍 〜村上龍『限りなく透明に近いブルー』〜

〈問1〉近代から現代へいたる日本文学のもっとも中心的な主題は何でしょう。

答え:〈私〉意識の解体。

〈問2〉本書を通じて唯一現実感を漂わせる箇所はどこでしょう。

答え:最後のリュウの黒い鳥幻覚シーン。

いずれも「解説」での今井裕康の見解である。
常々思っていることだが、小説の解説で文芸評論家はいつもご大層なご高説をこねくり回しているが、当の作家本人はそんなこと全く思ってもいないだろう。
むしろ当の本人が思ってもいない小難しい解釈を与えてくれてありがたがっているだろう。
だから解説者と作家の対談などは行われない。
仮に行われたとしても、作家は「え……ええ、そうなんですよ」と調子を合わせるに違いない。
「解説」というのはその実質というのはどうでもよく、いかにも高尚に見えるもっともらしく難解なことを言っていればよいのである。
それが小林秀雄以来のわが国文芸評論の伝統である。
冗長主義、逆説主義とともに、真の文学の阻害要因である。
“文芸評論主義”とでも名づけよう。
「ここでは、現実的なものが非現実感を与え、非現実的なものが現実感を与えるのだ」(p.158)
ほら、逆説もちゃんとあるでしょ。

〈問1〉、例えば現代における日米関係の源は何かと問われれば、それはペリー来航だ、という衆目の一致する見解というものがある(だから石原莞爾も「ペリーを連れてこい!」と言った)。
今井の設定しているのは最も普遍的な日本文学への問いである。
その回答として、誰も認めてないことを勝手に措定して論を進められるのだから、そりゃいくらだって手前勝手に論じられる。

〈問2〉、今井の主観以外の何ものでもない。
自分で「黒い鳥」は暗喩だと言っておきながら、現実感も何もあったものではない。

本書は、離れてしまうと清冽感を覚えるが、読み進めている最中は、しんどい。
短くてよかった。
生硬なのである。
24歳の処女作なのだからしょうがないといえばしょうがないが。

「モコは手をオスカーに固定されフルコートを塗り込められて悲鳴をあげる」(p.49)
「レイ子がビクンと腹を震わせ小便をもらして、乳首に蜂蜜を塗りたくってケイが慌てて新聞紙を尻の下に押し込む」(p.48)
「陽が沈む時、一部の雲が帯びる独特のあのオレンジ色に近かった。真空のガラス箱を走る、目を閉じても網膜に焼きつく白っぽいオレンジ色」(p.77)
「サブローは、ペニスに擦りつけるように足を折り曲げたり、開いて伸ばしたりしながら、自分はソファにもたれてほとんど仰向けになり、レイ子の体を尻を支点にして回転させ始めた」(p.47)
「回転」というのも非常に解りにくい。
「同時にものすごい速さで尻を回し始める。顔を真上に向けてターザンそっくりの声をだし、オリンピックの映画で見た黒人のヤリ投げ選手みたいに荒い息をして、灰色の足の裏でマットレスに反動をつけ、僕の尻の下に長い手を差し入れ、きつく抱きかかえながら」(p.64)
「今、赤い髪を背中に垂らし腰を曲げたリリーは人形に見える」(p.135)
「ゴム草履にも足の指にも血がついて時々包帯に触れる」(p.126)
「白い大きな車が雨を弾きながら道路すれすれにゆっくりと進んでいる」(p.57)

こんな文を読んでいかないといけないのである。
なるほど村上春樹の本が読まれるわけである。
彼の文章はつっかえるということがない。

私は速読できる者を恨めしく思っている。
本書の通読は私には耐え忍ばねばならぬ過程だったが、速読できる者はどれくらい耐え忍んで読んでいるのだろうかとは思う。
p.145に「グリーンアイズ」が出てきた時、私のように必死にページを繰り返さなくとも、彼らはp.60の前出シーンを即座に思い出せるのだろうか。
結びの文中の「灰色の鳥」とは中心主題の「黒い鳥」とは別のp.102の「頭に冠のような赤い羽根をもつ灰色の鳥」なのだとすぐに分かるのだろうか。
これまた中心主題である「起伏」、クライマックスシーンで出てくる前、p.84で出てきたのをちゃんと踏まえて読解しているのだろうか。

うまいな、と感じた箇所が2つある。
p.102で鳥のエサとしてポプラの根元に放り投げたパイナップルがp.126で再び出てくる。
普通ならここでちゃんと鳥がパイナップルをついばんでいるところ。
だが「夕方だし鳥は姿が見えなかった」。

もう1つは、警察官に踏み込まれるシーン。
「お前なんか自分のオヤジとでもやるんじゃねえのか?」とまで言われて普通なら“若者らしく”饒舌に反抗するところだが、返す言葉は「あの、煙草喫ってもいいですか?」「何かあったんですか?」のみ。

ヨシヤマがケイに未練たらしくヨリを戻そうと話し続けるシーンで、カズオは終始笑いをこらえ、ついには笑い出す。
カズオはどっちかというと弱そうな感じの男だ。
なのにケイには残忍な暴力をふるうヨシヤマが、カズオは一切スルーである。
ここは気持悪いものを感じた。

「鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ」(p.146-147)

「限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った」(p.149)

後者は村上龍の作家としての決意表明だという人もいる。
それはさておき、「黒い鳥」とはシステムの暗喩であり、「起伏」とはそれに立ち向かう一条の光である。
だが「起伏」はいかにも分かりにくい、なぜなら事物でなく形状だからである。

この「黒い鳥」がなければ芥川賞はなかったろう。

本書は諸要素のプラマイ評価を総合的に換算するならもちろん大きくプラスとなろう。
24歳のデビュー作としては、確かに屹立している。
いわゆる文学作品としては他とは異なる別のものといった印象であり、本書は一文学作品というよりは村上龍という才能そのものの表出といった観がある。

これを芥川賞として認めたというのは、まだ公然面における日本文学は形骸化していなかった、生きていたことを証明している。
まさかまだこの時代は又吉に受賞させるほど文学を巡る状況は悲惨ではなかったであろうから。



ラベル:村上龍
posted by nobody at 04:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。