2016年05月22日

現実・非現実の超越、小説の可能性 〜カフカ『変身』〜

リアリティかSFかというのは小説における重要な区分である。
だがそんな区分けなどどうでもよくなってしまう、面白い小説に久々に出会った。
伊集院光は主人公グレーゴルに高校時代の自分を重ね合わせたそうだが、私も、現下の“特殊”状況にある自分を、重ね合わせずにはいられなかった。

虫になったグレーゴルは、人間の心を忘れてはいなかった。
母親と妹によって自由に這い回れるようにするために部屋の全ての家具が運び出されようとしたとき、グレーゴルは壁に掛かった絵の上にへばりついた。
自分の姿を家族の目に触れないように努めてきたが、そんなことよりも、絵を守ることの方が大事だった。
それは人間の証しだった。

妹が弾くヴァイオリン。
皆興覚めしている。
グレーゴルだけがその美しさを認めた。
「音楽にこれほど魅了されても、彼はまだ動物なのであろうか」(p.81)
自分の部屋で弾いてもらいたくて、自分に気づいてほしくて、グレーゴルは自分の部屋から這い出した。
この時も自分の姿が見られることなどどこかへいっていた。
もう自分の部屋は掃除もされなくなっており、グレーゴルの体には埃が積んでいた。
グレーゴルの部屋は物置きと化しており、身動きもできなくなっていた。
つまり虫のための部屋という配慮はもう全くなされなくなっていたのだ。
食べ物も与えられていなかったのだろう。

浴びせられた言葉は、「けだもの」「これ」。
グレーゴルは部屋へ引き返し、死ぬ。
有村隆広の「解説」によると、
「グレーゴルは父親が投げた林檎の傷が原因となって死ぬ」(p.117)とあるが、そんなにタイミングのよいことがあろうか。
私は自殺したのだと思う。
「わりに気分がいい」(p.89)
「安らかな瞑想状態のうちにある彼」(p.90)
そして「感動と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえし」ながら、彼は死んだのだ。

母親も最後はグレーゴルを見捨てたのだろうか。
「母親は咳きこんでいるので、なにも聞こえないのである」(p.85)
とある。
私は母親は夫と娘に同意していなかったと思う。
母親は以前父親がグレーゴルに「爆撃」(p.65)を加えようとした時、着る物も構わず父親にしがみつき、グレーゴルのために命乞いをした。
私はこのシーンに涙した。
もちろん最後までグレーゴルの側に立つわけにはいかなかっただろうが。

父親と妹とて薄情に尽きるというわけではない。
グレーゴルの死後、「三人とも泣いた痕跡が少々見える」(p.92)とある。
結びは家族三人「新しい夢とよき意図の確証」(p.97)に包まれてのエンディングとなるが、これは薄情なのではない。
これこそが人間なのだ。
妹は言っている。
「もしこれがグレーゴルだったら、人間がこんなけだものといっしょには住んでいられないというくらいのことはとっくにわかったはずだわ。そして自分から出ていってしまったわ、きっと。そうすればお兄さんはいなくなっても、あたしたちもどうにか生きのびて、お兄さんの思い出はたいせつに心にしまっておいたでしょうに」(p.87)

人間が突然理由もなく虫になる。
いくつかの可能性があり得たろう。
顔は人間のまま残るとか(そしたら家族も人間の心が残っていると判る)。
言葉は話せるとか(同)。
本書の場合いずれでもなく、そうすると完全に虫と化していなければならないはずで、脳みそも虫なら人間の言葉を解したり考えたりもできないはずだが、まあそこが“小説”。

ただ意思表示はできただろう。
前掲ヴァイオリン・シーンでも「けだもの」「放り出す」という言葉を聞いて、大人しく部屋へ引き返しているのだから、家族はグレーゴルが人間の言葉を聞いている=人間の心が残っている、ということに気付かなかったのだろうか。
仮に気付いていて、それでも虫という表象物とは暮らしていけないとの判断を下したのだとしたら、それはまた違った人間の一面を表すことになる。

またグレーゴルの社会的身分に関してもいくつかの可能性があり得た。
グレーゴルが学生だったら、というのが一番ありふれた設定だったのではないだろうか。
現代日本だったらニートというのも興味深い設定だったろう。
いずれも引きこもりという主題に通じてくる。
あるいは普通の勤労者。
グレーゴルの場合、普通以上の勤労者だった。
というのはグレーゴルは社長への両親の借金を返すために働いているのだ。
文字通り一家の生活の大黒柱だった。
となると若干『呪われた人々』を想起させるものがあるが、それでもなお虫となって時が経てば、けだもの扱いなのである。

これは哀しい物語だ。
哀しいグレーゴルの物語だ。

カフカのうまいところは、描写から事情を読み取らせるところだ。
例えば「いまでは彼の部屋はどこもかしこもたいへんな埃で、彼の体も厚い埃に覆われていた」(p.80)という記述から、ああ、もう妹も部屋を掃除してくれなくなったんだな、と読み取らないといけない。
「〜とでもいうようなふう」「〜していることを推測させた」というような語尾が多用され、それが「冷静な報告調の文体」(カバー・イントロダクション)との評につながっている。

最大の難点は、高橋義孝の翻訳である。

「毛皮のマフ」「ございませんければ」「暇欠き」「最前より」「最初の処置がとられたさいの確信と着実さ」「体もいまはただ口ひとつで立っていた」「翼板」「待ちもうけている」「頭をうつむけていた」「あとしざり」「はいり悩んでいる」「おりおり」「朝まだき」「巴旦杏(はたんきょう)」「勝手仕事」「うしろにとびしさって」「こごみこんで」「挙止振舞い」「足掻きがつきゃしない」「狂熱心」「金モール」「公許」「いけぞんざい」「愁嘆場」「ドアを締める」「馬糞虫」「ドアの透き間」「勝手元」「夕食をしたためる」「調べようがため」「紳士連」「この日ごろ」「滋養分」「椅子に正座し」「断々乎」「勤労中断の十分ないわれ」「とり片づけ」「説明しだしそうにする」「出端のいい」
……このような言語感覚の持ち主の文章など読みたくないものだ。

また「貴下に迫ろうか、これを考慮するつもりです」といったような外国語特有の言い回しには、バーナード・ハットン『スターリン』を直前にも読んでうんざりしているところだ。

日本語による「旧新潮文庫版あとがき」を読むと、なるほど問題は翻訳能力プロパーにあるのではないことが判る。
そもそも「解説」が別にあるのになぜ「旧新潮文庫版あとがき」を載せる必要があるのか。
このことと有村隆広による「解説」の末尾に「高橋義孝閲」とあるのを考え合わせた時、何か高橋義孝という人格の特殊性が浮かび上がる。
せめて普通の日本語で翻訳されていたら、どれほどカフカの名声もいや増していたことか計り知れない。

本書は小説という創作形態の可能性を思い起こさせる。
漫画でも演劇でも映画でもない、小説ならではの魅力といったものは確かにある。

ラベル:カフカ
posted by nobody at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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