2016年06月11日

胸が張り裂けるほどの甘美な想い出 〜ドストエフスキー『貧しき人びと』〜

私はこの本を古本屋で買った。
前の持ち主は福井貴子さんという人である。

青木雄二がドストエフスキーの入門として薦めていたのでそれに従った。
何しろ青木はドストエフスキー以外読む必要はないとまで言う。
200ページ強という分量もドストエフスキー作品の中では極めて少ないだろう。

木村浩の訳には胸を撫で下ろした。
バーナード・ハットン『スターリン』の訳も木村浩でそれは多少読みにくかったが、本書の翻訳は他の外国文学と比べたら全く素晴らしかった。
というのは最近翻訳ものを立て続けに読んでいて、翻訳に心底うんざりさせられているからだ。
翻訳を批判すると「言語構造が全く異なるのだから読みにくくて当たり前」としたり顔をする奴がいるが、そこを指摘しているのではない。
少なくとも一般的表現として使われない日本語を使うな、と言っているのだ。
そしてそれを“校正”するのは編集者の役目だろう、他の様々なサービスと比較してもこれほどの怠慢が放置されているのは例がない、と言っているのだ。

他の人は速読で飛ばし読みするのが普通のようだが、私は恐ろしく読むのが遅く、その代わり逐文的に読んでいる。
それでも本書は事実関係の把握において解りにくい。
理由は3つある。

@これまでの外国文学は登場人物が少なかったが、多くなってくると、人物の相関関係が解りにくいこと。
それもロシア文学の特性が4点マイナスに作用する。

a.名前が長く、しかも似通っているような感じがすること。エフスターフィ・イワーノヴィチだのフョードル・フョードロヴィチだのエフィム・アキーモヴィチだの……。

b.愛称の断りが全くないこと。例えばマカールはワルワーラを「ワーレンカ」と呼んでいるのである。

c.ロシア人は名前が3節に分かれるようで、場合により初めの方の2節を呼んだり初めと後ろの2節を呼んだりするから別人かと思ってしまう。ワルワーラはマカールを「マカール・ジェーヴシキン」と呼びマカール自身も手紙にそう署名するがチモフェイやゴルシコーフは「マカール・アレクセーエヴィチ」と呼ぶ。

d.名前の1節を、性によって呼び分けるようである。

これらのことに関しては誤解を生じさせるのだから本の中に注意書きを入れるべきである。
それをしないのは編集者の怠慢である。

人物一覧表も、本の頭に入れるべきである。
それをしないのは編集者のサービス欠如である。

さらにどうもドストエフスキーは意図的なようだが、わざと新しく出てきたことを前のページに戻って確かめようとしても突然出てきているように書いているのである。
例えば「あれ、こんな名前の人いたっけ?」と前のページを繰っても分からない。
文脈から、どうもああ初めの方に「女中」と出てきた人のことか、と推測しないといけない。

例えばワルワーラと同居しているフェドーラは、一体ワルワーラとどういう関係にあるのか判然としない(ワルワーラは孤児とある)。
これは次のAとも関連してくる。

A往復書簡体という小説形態であること。
必ずしもマカールとワルワーラの手紙がきっちり交互に載っているわけでもない。

そもそもなぜすぐ近くに住んでいるのに連日手紙を出し合う必要があるのかというのも疑問なところだが、それはともかくとしても、手紙ではお互い心優しさから相手を心配させないようにするため意図的に不幸事が起きてもぼやかすのである。
何が起こったのかはっきりとしない。
さすがにドストエフスキーも無理を自覚したのか、ワルワーラが「折にふれて自分の生活について書きとめておいた手帳」を登場させたりしている。

Bリアリティを出すためか「忘れてしまった」として出来事の経緯を示さないことがあり、これも解りにくさに拍車をかけている。

致命的なのが主題のマカールとワルワーラの関係の不明瞭さ。
私のもってるのは古い本のためカバー・イントロダクションのないやつだが、新しいやつにははっきりとマカールのワルワーラに対する感情は恋愛感情だとしてあるのだ。
なんだ、やはりそうとってよかったのかと。
というのは、年も離れているし(マカールは47歳)、2人は遠い血縁関係にあるようだったのだ。
血縁関係にあるとしても、外国では日本より従兄弟同士の結婚は抵抗が少ないようだが。
本書はドストエフスキー24歳の処女作であるが、そこで自分のような青年ではなく中高年の男の恋愛を取り扱ったというのは何か興味深いことではある。

青木雄二が推すだけあって貧困の描写は迫真でありそこがドストエフスキーの真骨頂なのだろう。
だがマカールは下っ端ながられっきとした役所勤めであり、なぜこれほど極貧なのかも判然としない。
放蕩に耽る性質でもなく、とすれば全部ワルワーラへの援助につぎ込んでいたとでもいうのだろうか。
まあ確かにワルワーラは、基本的にはいつもマカールに自分のためにお金を使わないでと懇願しお金を送り返したりさえしているが、ある時には
「ねえ、もしお芝居に行くんでしたら、あたくし新しい帽子をかぶって、黒いケープを羽織っていこうと思いますの。それでよろしいでしょうか?」(p.109)
と言ったりして、ある人はこんなワルワーラを評して「ドS」と言ったりして、私なんかはそんなところがネコのような女性らしい、ひょっとするとマカールもワルワーラのこんなところにまいっていたのかもしれないなどと思ったりもするような女性ではあったが。

「わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人いっしょに、もう取返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました! わたしは破滅しました。きみも破滅しました。きみもわたしといっしょに、もう取り返しのつかないまでに破滅してしまったんです!」(p.151)

終局でマカールはひょっとして破滅してしまうのでは、と思った時があった。
大事な書類の「浄書」を頼まれたがワルワーラの不幸を想い余って気もそぞろになり1行抜かしてしまい、叱責中にボタンが取れ落ち転がり、追っかけて拾い、挙句の果てニヤニヤと笑ってしまう……。
「クビだ!」となるかと思ったが、逆に閣下はあまりの身なりのみすぼらしさに100ルーブルを恵んでくれるのだ。
エフスターフィも必死にマカールを庇ってくれている。
破滅せずによかったなと思った。
だがここでマカールに真からの破滅をさせなかったのは、ドストエフスキーの優しさなのか、不徹底なのか……。

貧困描写の迫真の他にドストエフスキーの凄さを挙げるなら、あと2点ある。

@手紙に流れる感情の移ろいの描写の巧妙さ。明るく優しく思いやりに満ちた基調の中で、不意に、目に見えるといったほどでなく微妙に、ぶっきらぼうさが混じることがある。不機嫌さを隠そうとしているのである。

Aドストエフスキー文学の大きな観点になると思うが、人間の心理描写の迫真。先のエフスターフィもそうだが、悪い人間は常に悪く、良い人間は常に良くふるまうのではない。人間のふるまいの理に合わなさもうまく描いている。
使用人ファリドーニは、みんながマカールを嘲うようになると態度を一変させる。
「あんたはうちの女主人(おかみ)さんに金を払っていないのだから、わたしもあんたには義務はありません」
「ねえ、あんたはわしに何かおごってくれたことでもあるかね? 自分だって迎え酒の飲み代はないんだろ? どこかの女子(おなご)から20コペイカ玉を恵んでもらっているくせに」
「へん、それでも旦那さまかよ!」(p.152)
「きみはラヴレース(色魔の代名詞)だ」とマカールを蔑んだラタジャーエフはマカールが金巡りがよくなるとあれは「機敏な青年、油断のならぬ若者」という意味だったと弁解し、それを無邪気に
「罪のない冗談だったわけですよ。それなのに、無学なわたしはついかっとなって、腹をたててしまったのです」(p.187)
と受け取るマカール。
「わたしを破滅させるのはお金ではなくて、こうした浮世の気苦労なんですよ、あのひそひそ話や、意味ありげな笑いや、意地の悪い冗談です」(p.150)

破局こそ避けたとは言え、ハッピーエンドではない。
人生はそれほどたやすくはない。
ワルワーラはブイコフとの結婚を決意する。
「もしあたくしからこの恥辱をそそぎ、名誉を回復し、将来ともあたくしを貧困と欠乏と不幸から救ってくれる人があるとすれば、それはあの人よりほかにありません」(p.200)
まるで浜省「丘の上の愛」である。
しかしブイコフとの未来にはもう破局の予感が漂っている。
ある人の書評によればブイコフはワルワーラが余命幾ばくもないことまで見越した上で、俺は哀れな貧しい女を救ってやったという声望を得ようとして結婚したのだという。
貧困に喘ぐ者にとっての救いとは何か。
重い命題を突きつける。

ワルワーラの最後の手紙は胸を抉る。
「あなたをこんなに激しく愛していた、あなたのかわいそうなワーレンカを思いだしてくださいまし。胸を押しつぶされそうでございます。あたくしの胸はいま涙でいっぱい、いっぱいでございます……涙が胸をしめつけ、張り裂けそうでございます!……では、ごきげんよう」(p.213)
手紙は涙で滲んでいた。

「思い出というものは、それが悲しいものでも、楽しいものでも、いつも悩ましいものです。もっとも、その悩ましさは甘美な悩ましさといえるでしょう」(p.60)

読みながら、過去の想い出の断片がフラッシュ・バックした。
人生の甘美さを思った。

posted by nobody at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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