2016年06月23日

「深い虚偽の予感」の謎 〜ドストエフスキー『罪と罰』〜

「『僕もすきになってくれない?』
そのへんじのかわりに、彼は自分にすり寄って来た少女の顔と、彼を接吻しようとして無邪気につきだされた柔かそうな脣とを見た。やにわに、マッチのように細い彼女の腕が、かたくかたく彼を抱いて、頭が彼の肩へ押しつけられた。こうして少女はたえず強く、ますます強く顔を彼に押しつけながら、静かにしくしくと泣きだした」(ニp.78〜79)

最も印象に残った、美しいシーンである。

みんなが畏れ多いという感じで本書を奉っている。
私はどちらかというと、過大評価派に与する。
もちろん重厚な作りには圧倒された。
ただ、結末に、肩透かしのような感じを抱いた。
カフカの『変身』にはケチをつけようという気は起こらなかった。
カミュの『異邦人』もまあ評判通りだったといってよかろう。
しかし本書には、一抹の物足りなさが残る。
青木雄二の大絶賛が本書を読む大きな動機となったのだが。

中村白葉の訳で読まねばならなかったのもきつかった。
本当にこんな訳が通って出版されているというのは、信じ難い岩波書店編集者の怠慢である。
なにしろ「1プード半」の訳注が「6、7貫目」である。
翻訳の長編を読み通すというのは1つの精神的苦行をやりおおせたという価値をもつのだとあらためて思った。
例えば新潮文庫の『貧しき人びと』の木村浩訳、『カラマーゾフの兄弟』の原卓也訳は申し分なく読める。
非常用漢字に振り仮名を振る(というより非常用漢字はなるべく使わない)、普通に日常的に用いられない言葉で訳さないという全く当たり前のことさえしてくれればいいのだ。
さすがに岩波も新しい版では訳者を江川卓に代え、訳注も豊富に入れているらしい。
やっと苦情に対応したわけだ。
私は古本で購入したのが中村白葉訳のため、ただただ耐え忍ぶしか術はなかった。

ドストエフスキーの冗長主義にも幻滅させられた。
まあそうでなければ分厚い本になるわけがないが。

人が現れるたびに、こんな感じである。
「ザミョートフが、あの当のザミョートフが、いくつもの指環に、鎖に、きれいに櫛目を入れて油でてらてらさせた黒いまき毛に、ハイカラなチョッキに、いくらかすれの見えるフロックコートに、うすよごれたシャツという、いつかと同じいでたちで控えていた」(ニp.31〜32)

「第一に彼女は、まだうら若い娘のはずだのに、この炎天に帽子もかぶらず、洋傘も持たず、手袋もはめないで、なんだかおかしな恰好に両手を振りまわしながら、歩いていた。彼女は、薄手の軽い(「マテルチャートニ」織の)絹服を着ていたが、それもやはり何だかひどくへんな着方で、ボタンもかけたりかけなかったり、うしろのちょうど腰のところで、スカートの上の端が破れていた。髪もひと房はなれて、ぶらぶらぶらさがっていた。あらわな頸には、小さい蝶形ネクタイがひっかけてあったが、それもゆがんで、わきの方へ飛びだしていた」(一p.82)

部屋の説明はいちいちこのようである。
「それは、広くはあるが、いたって天井の低い、カペルナウーモフが賃貸している一つきりの部屋で、左手の壁に、その人達のいる方へ通ずるしめきった戸口が見られた。そしてそこはもう、番号のちがった隣りの住居であった。ソーニャの部屋は見たところ、なんとなく納屋といった体裁で、おそろしく不整な四角形をしてを(ママ)り、それが一種畸形な感じを部屋そのものに与えていた。窓の二つついた掘割の方に面した壁は、部屋を斜めに断ち切っていたので、一方の隅は、恐ろしい鋭角になり、鈍い燈火の下でははっきり見わけのつかないくらいの深みへのびているのに、もう一方の隅は、みっともないくらいの鈍角をなしていた。このだだっぴろい部屋には、家具らしいものは殆どなかった。右手の隅の方に寝台があって、そのそばに、戸口近く、椅子が一つ置いてあった。寝台のある壁に添うて、隣りの住居へ通ずる戸口のすぐそばに、青い布のかかった、粗末な板割づくりのテーブルがあり、その周囲には、籐椅子が二脚置いてあった。それから、反対側の壁に添うては、鋭角をなした一角に近く、粗末な雑木づくりの小形な箪笥が、がらんとしたなかに置き忘れられたように立っていた。これだけが、この部屋にあったもののすべてであった。古びて穴だらけになった黄ばんだ壁紙は、すみずみが黒くなっていた。冬はきっとじめじめして、炭気がこもるにちがいない。貧しさはひと目でわかった。寝台にすらカーテンがなかったのである」(二p.299〜300)

顔はいつも「蒼」白く、「脣」はいつもぶるぶるふるわせ、「脣」の端にはいつも冷たく微笑を走らせ、いつもぶるっと一つ身ぶるいし、いつも眼を火のように燃え立たせる。

街を歩く時はいつも疲れていなければならない。
そうでないと書くことがなくなるので。

第六編三におけるラスコーリニコフとスヴィドゥリガイロフとの会話。
スヴィドゥリガイロフは主旨の判らぬ話をダラダラ続け、しかもラスコーリニコフもそれに対してどうでもいい質問を挟みそのままの流れで話を促す。
同八における自首しに来たラスコーリニコフに対するイリヤー・ペトローヴィッチの無駄なお喋り。

私は一般の速読と称する飛ばし読みをしている人と違って、逐文的に読解しながら読み進んでいる。
しかし最後の最後、「終編」のここに到り、ついにギブアップした。
「彼は、苦しい思いをしながら、たえずこの問題を自分に課したが、しかも、あの時すでに、水の上に立ちながら、自分自身の中にも自分の確信の中にも、深い虚偽を予感していたかもしれなかったのを、理解することができなかったのである。したがってまた、この予感が、彼の生活における将来の転回、将来の復活、将来の新しい人生観の予言者だったかもしれないことをも、理解することができなかったのである」(三p.335)
「終編」はたった26ページと少ないが、熟考を要しページが進まない。

本書のあらすじは広く世に知られている。
第一巻のカバー・イントロダクションを引用するとこうだ。
「選ばれた強者は凡人のためにつくられた法を踏み越える権利をもつ――大学生ラスコーリニコフはこの確信のもとに1金貸し老婆とその妹を撲殺する」

だから裁判中心の流れかと思っていたらそうではなく、それどころか犯行の露顕もとても遅かった。

本書は様々な要素を含むと言われる。
「心理小説」と言われるのはその通りだが、「推理小説」とされるのは違うだろうと思う。
「水晶宮」でのザミョートフへの仄めかし、現場を再訪してのベル鳴らし、血の質問、そして何と言っても新聞に掲載された「犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態」論文。
これらの墓穴掘りがあるゆえに、その後のポルフィーリイとの対決が、今一つ精彩を欠く。

犯人追及過程最大のヤマ場は、ペンキ屋ニコラーイの「自白」であった。
なぜやってもいない殺人を自ら認めたかというと、宗教的熱心さから「苦しみを受け」ようとした、ということである。
ちなみにニコラーイはラスコーリニコフの名の由来となっているラスコーリニク(分離派信者)である。
さて、あるネット解説によれば、このニコラーイというのは、ラスコーリニコフが見た子供の頃痩馬が嬲り殺される夢に出てきた男と同名ということである。
本書では「ミコールカ」となっている。
同名なら重大な示唆があるが、中村白葉訳では同名であることすら知ることができないのである。
それどころかニコラーイは所によっては「ミコラーイ」になっている。
ロシア語ではニがミになっていてもおかしくないそうだが、そうとしても一切注記なしというのは犯罪的だろう。

山崎行太郎という「哲学者」は、老婆殺しは実は母(プリへーリヤ・アレクサーンドロヴナ)殺しであると考察していたが、私はそれはないと思う。
というのは、ルージンがちょっと母のことを悪く言うと、ラスコーリニコフは瞬間湯沸器のように激怒しているからである。

また別の人は本書の主題は後進国の近代化だと考究していた。
その人の置かれた立場で何を主題と捉えるかは違うようである。

結びも、ラスコーリニコフがきれいさっぱり改心したとは言い難い。
またもしそうだとしたらそれはありふれた結末にもなってしまう。
どんなに偉そうな、形而上学的な意義付けをしても、でもそれと老婆と妹は関係ないだろ、2人かわいそうじゃん、とこじつけにしか思えなくなってしまう。

死刑だったらまた話は違っていたろう。
ラスコーリニコフは結局懲役8年となる。
2人殺して軽いものだ。
『異邦人』のムルソーは1人殺して死刑だったのに。

むしろ主人公はラスコーリニコフではないのではないか。
カテリーナ・イワーノヴナ、あるいはスヴィドゥリガイロフの生き様、顛末の方に重く悲愴なものを感じる。

カテリーナ・イワーノヴナは、夫の追悼式すら満足に行えず(格を上げる来賓に出席してもらえず)、ついに家主アマーリヤ・イワーノヴナと取っ組み合って追い出され、狂い、訳も分からない子供達に歌い躍らせ物乞いをし、結核で死ぬ。
『闇金ウシジマくん』を彷彿とさせる容赦ない徹底的な不幸描写で、作者はよく描くことに耐えられるなと思う。
『貧しき人びと』でマカールを徹底的に破滅させなかったドストエフスキーが、ついに中途半端な甘さを捨て去ったともとれる。

スヴィドゥリガイロフは、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャを手籠めにしようとして果たせず、しかしドゥーニャが自分をピストルで撃とうとするのを止めようとせず(ドゥーニャはピストルを投げ捨ててしまい生き延びる)、財産を人に全部与えてしまった上で、ピストル自殺する。
スヴィドゥリガイロフは淫蕩に耽る男で、具体的行為も、ドストエフスキーの例のごとくの描写のため判然としないが、ネット解説によって補強すると、妻マールファ・ペトローヴナを毒殺し、下男フィーリカを殺し、愛人レッスリヒ夫人の14歳の娘を強姦して自殺させている。
また私の推測では、
「えへ、アフドーチヤ・ロマーノヴナ! あなたは伝道熱に浮かされて夢中になってたことをお忘れだとみえますね……わたしは眼つきで見てとりましたよ。おぼえてらっしゃるでしょう? あの晩、月がさして、おまけに鶯まで啼いていて……」
「嘘おつき! (ドゥーニャの眼には狂憤の焔が燃えあがった。)嘘おつき、嘘おつき!」(三p.258)
との会話からスヴィドゥリガイロフとドゥーニャの間には肉体関係があっただろう。
(また「わたしが(マールファ・ペトローヴナに対して)鞭などを手にしたのは、七年間の同棲の間に、あとにもさきにもたった二度きりですよ。(もっとも、二様の意味を持っているいま一つの場合をのぞいてですがね。)」というスヴィドゥリガイロフのセリフから、スヴィドゥリガイロフとマールファ・ペトローヴナはSMプレイをしていたと推測する。)

ピストルで撃ち損なったドゥーニャを捕まえたスヴィドゥリガイロフは、
「じゃあ、愛してはくれないんだね?」(三p.261)
と言って受け入れられず、自殺を決意するのだ。
スヴィドゥリガイロフはラスコーリニコフの犯行を知って自分と同じものをラスコーリニコフに感じ、ラスコーリニコフもまた、後には同じような気持をスヴィドゥリガイロフに抱く。
あるネット考察ではスヴィドゥリガイロフはラスコーリニコフの未来の姿、ともあった。

まあ1度きりの精読で主題を掴みこなすのは無理があるのだろう。
確かにもう1度読んでみたいという衝動が残る(せめてクライマックス・シーンだけでも)。
とりあえずは先に引用した三p.335の「深い虚偽=将来の新しい人生観」の予感というのを解明したい。
そこにはまた一段成長した自分がいるだろう。
……中村白葉以外の訳を見れば一発だったりして。


posted by nobody at 06:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
知恵袋でベストアンサーをいただいたものです。
付け加えをしたくてかきました。
罪と罰で、選民殺人思想を虚偽と作者は書きました。
しかし、ドストエフスキー自身は、選民殺人思想を虚偽と決めつけたのではなく、その後もそれについて、ずっと考え続けました。
大体、だれでもわかることですが、権力者が戦争したり、人を死刑にしたり、増税かけて私腹をこやしたりといった、倫理を踏み越える行為はどこの国でもいつの時代でも行われているから、選民殺人思想は、間違いではなく、現実の一面をよく示しています。
それを虚偽と書いた一つの理由は、おそらく、ドスト氏が、かつて、革命思想で死刑になりかけて、その後も、手紙の検閲など官憲に監視され続けたからでしょう。
一般人が選民殺人思想を持つ=一般人が革命で権力者を殺すことを肯定する、ということになりかねないので、また官憲に逮捕されることをドストエフスキーは恐れたに違いありません。(一方では人を殺してはいけないというキリスト教倫理の問題もあります)
選民殺人思想をドストエフスキーが考え続けた一つの証拠は、カラマーゾフ兄弟の中の大審問官の章です。ここで、彼は、殺人だけでなく、倫理を踏み越えた権力者の支配行為全般について考察しています。
ここだけでも読むといいですよ。
Posted by kamipic2 at 2016年07月18日 08:13
コメントありがとうございます。

選民思想については、私は今『社会思想史』を読んでるのですが、マキアヴェリとアダム・スミスについて次のような記述があります。
「政治的目的の達成のためには、虚言も暴力も殺人も容認される。政治の世界は伝統的倫理の世界とは別に存在する。政治世界は道徳的善悪の基準によって判断されてはならない。道徳はむしろ政治の手段である。この力をもつ人間とは、強力な君主にほかならない。すなわち、マキアヴェリの世界は、ただ強力な君主によってのみ維持されうる」

「人は、正しいもの、妥当なるものなどに満足することなく、さらに進んで、たとえば、偉大なるもの、美なるもの、壮重なるものを求める。ここにいたって、あの正義の原則は超えられる。ということは、日常生活においてみられる行為の一般原則を超えること、すなわち、現実の他者の凡庸な同感を超えることを意味する。真に有徳な人間は、凡庸な大衆の拍手に重きをおかない。彼は、現実の触知しうる称讃を求めることを超えて、称讃に値すると信じることのみを求める。奇妙なことに、ここにいたって、神がふたたび現われてくる。なぜなら、大衆の拍手を軽薄なるものとして退けた以上、彼の行為を秘かに称讃してくれるものとしては、彼の内部の人間、すなわち彼の良心か、あるいは、彼の生命を超えて彼の行為を判定してくれる神しかないからである。彼が、現実の他者たちに逆らってもなお自己の信念を貫いて行動したとき、神以外のたれがそれを是認し称讃してくれるであろうか。こうして、スミスの倫理学は完結する」

ラスコーリニコフはドゥーニャに言います。
「だが、おれにはどうしてもわからないよ――なぜ、多くの人間を爆弾や、正規の包囲攻撃で殺戮するのが、より尊敬すべき形式なんだか? 美的恐怖は、無力の第一の徴候だよ!」

「はじめて世界文学に匹敵するレベルで作られた映画」といわれる『地獄の黙示録』の深層テーマもこれですね(私は立花隆『解読「地獄の黙示録」』の書評も書いています)。
私には些か単純素朴にすぎるテーマだと思われますが。

『カラマーゾフの兄弟』の書評も近々アップするつもりですのでよかったらまた見にきて下さい。
Posted by nobody at 2016年07月19日 10:32
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