2011年07月02日

時代を憎む 〜【映画】『告白』〜

気持ち悪い。ただひたすらに、気持ち悪い。

エンターテイメント作品として、このような作品を生み出してしまった、“現代”という時代を憎む。

しばし経つといくつもアラが浮かんでくる。

森口悠子(松たか子)は渡辺修哉(少年A)の仕掛けた爆弾の配線を切って、修哉の母の研究室に持っていき、爆発させた。
配線をつなぎ直し爆弾を再起動させる知識を、森口はもっていたのか?

そもそも最重要な爆弾事件を起こす前に、ネットの自分のサイトで犯行声明動画を流すのはあまりに不用意、というかあり得ない。
絶対に、事件後である。
だから森口に気づかれ、失敗に終わったのだ。

この映画の主人公は、修哉という見方もできる。
修哉は人を殺したかった。そして天才だった。
だったらなぜ、森口を殺すことに向かわなかったのか。
ただ、やられるのみ。

1年B組は、森口の行為を秘密にする。
その秘密が何カ月にも渡ってずっと保持される、というのが不自然
(2年に進級してもクラスメートがそっくり同じのまま繰り上がり、という設定もムリヤリ)。
差出人不明(?)のメールで陰に脅していたのは森口だったのか?

下村直樹(少年B)が母を殺した際職員室に呼び出されて事情を聴取された北原美月は、突然ウェルテルを悪者にする。
なぜ突然そうしたのかが突飛に過ぎる。

世俗のレベルは低いね。
『悪人』といい、『理由』といい。
桐野夏生だけは別。

タグ:中島哲也
posted by nobody at 02:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

これもまたひとつの青春メモリー【メモ】〜NANA〜

『NANA』を観た。
3度泣いた。
GWのある1日の朝、大阪のある場所で俺はDVDを観る。

音楽が良かった。

結末は中途半端。

中島美嘉ってこんなに細かったのか。

宮崎あおいという女優を初めて認識した。
彼女の演技に泣かされたんだ。

エンドロールでレン役は松田龍平だったのかと気付いた。

インタビューで宮崎あおいが「子供にも観てもらいたい、誰でも楽しめる」と言っていたが、それは無理だろ。
中島美嘉が「オメーが全然避妊しないからだろーが」と言ってピル探すシーンがあんのに。

ああ、中島美嘉が「ナナ」だから宮崎あおいは「ハチ」なのか。
観てる時気付かなかった。

これもまた、『赤い糸』同様の現代の青春模様である。
俺はずっと、青春ものが好きだったんだということを再確認させられた。
だから村上春樹や村上龍、三田誠広や山川健一の青春小説が好きだったんだ。
そのことは山川健一『僕らは嵐の中で生まれた』のところで書いた。

中島美嘉は別れのケジメをつけにレンのもとに行ったのに、レンの強引さに押された。
俺は“言葉”を額面通りに受け取った対応しかできないから、こんなレンのようなスーパープレイができない。
根底には己への自信の欠如があるんだろうが。

この作品(原作漫画も)は若者に熱狂的に支持されたという。
『赤い糸』にも共通して、俺は不思議だ。
俺とは違って、今の若者は、みんなこの作品のように、青春を謳歌しているように、俺には映る。
こうした経験が欠如している俺のような人間がのめり込むなら話は分かるが、
自分と同じような生活を描いた作品に、なぜ今の若者は熱狂するのかな。

タグ:大谷健太郎
posted by nobody at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月23日

【316】映画『あずみ』

ネットを見てると上戸彩主演の映画『あずみ』は散々な評価だが、私はそれほど悪くはなかったと思う。
posted by nobody at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月05日

彷徨する精神 〜ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』〜

 まったくもって、人間とは不可思議なる生き物だ。

 1人の男と1人の女がいて、その間に子供を1人もうけた。
 如何なる事由によるかは別にして、男と女は別れてしまった。
 だが、その後においても2人は、互いに相手を想う気持を失ったわけではなかった。
 その2人がついに再会した。
 
 普通ならここでハッピー・エンド、といきそうだが、そうはならなかった。
 トラヴィスは再び
『テキサスのパリ』目指して旅立つ。

 芸術、特に文学において作中人物の行為の根拠を推測し省察することは、最も重要な学問的作業であるが、その際有効な手段として我々が用いる方法といえば、その人物の立場に自分を置き換えてみる、という極めて原始的アプローチである。
 自分の経験に照らして考えてみる、といってもよい。

 大概の問題は、それが同一の行動様式の枠内にある場合、この方法で事足りる。
 ところが問題がさらに細分化してくると、自分の精神範囲では対応できないケースに出くわす。
「あれ、自分だったらそんなことはしないぞ」
という事例にぶつかる。

 この時役に立つのが客観的な常識想起である。
「なるほど、自分だったらそんなことはしないが、そうする人がいてもおかしくはないわな」
と、考察の範囲を自分という1人の人間から世間一般にまで敷衍するのである。
 理論的には、知識の未熟、知能的劣位というような特殊な状況を除けば、全ての
『人物の内面考察』に関する問題はここまでの段階をもってめでたく解決する――はずである。

 ところが、文学にはここまでの手段を踏んでもなお解決を許さない事例が、この
『パリ、テキサス』を含めて多数存在するのである。
 あるいはこの超越した部分こそが文学を支えている堂奥であり、人を魅了しているのかもしれない。

 つまり、なぜトラヴィスはジェーンと再び一緒にならなかったのか、なぜ再び旅立たなければならなかったのか、これこそがこの作品の主題であり核心であり、これが解らないことにはこの映画を観たと言う資格はないのではないか、いや解らないまでも、せめて自分なりの答えを発見し、納得だけでもできないことには、私にとってのこの作品の意義というものはとてつもなく些少となると思う。

 その意味で、前述したように文学という体質の特質上、作品あるいは人物の深奥を完璧に理解するのは極めて困難(不可能といっても過言ではない)である以上、その究極目標に向かう前に、この
『自分なりの答えを発見し、納得する』
という姿勢こそ、本来の、文学に接する基本的態度であるといえよう。

 この場合のトラヴィスの行動にも、
『自分なりの答え』
だけでも発見できれば諦めもつくのだが、実際のところそれさえ見つからない。
 私以上に、一粒種のハンターにとってはもっと事態は深刻ではなかろうか。

 4年ぶりに父に会えた。
 当初はやや拒否反応を見せたが、次第に父を父と認めるようになった。
 さあ、今度は母を捜しに行こう。
 これで、やっと両親が揃う。

 ついに母にも会えた。
 と思ったら今度は父が再び去って行く……。

 8歳の少年の小さく純真な心に与えた陰は計り知れないだろう。
 だが敢えて、私は、ハンターは父の気持をあのカセット・テープによって汲み取った、と見做しておきたい。

 このトラヴィスの行動の謎を解く鍵の1つに、彼自身のセリフがある。

「だから今は恐いんだ
 また出かけてしまうことが恐い
 自分が発見するものが恐い
 それに立ち向かわないことの方がもっと恐い――」

 唯一、作品中で彼自身が彼の行動の根拠らしきものを吐露するシーンである。
 
 旅に出るのも恐いが出ない方がもっと恐い。
 だから、比較して少しでもましな方を選ぶ、ということなのだろうが、恐いとはどういうことか、発見するものとは何のことだろうか?
 残念ながら皆目見当つかない。

 ただ1つ言えることは、彼の精神もまた彼と同様、再び彷徨を続けるのであろう、ということだ。
 これは私個人の独断であり、何の正当性もない。

 そもそも、どこへ行こうというのか。
 パリ、テキサスのパリだ。
 その地名は実在するのだろうが、彼がそこに異様なまで執着したのはなぜか。
 
 彼はジェーンを愛し切っていた。
 それが、いわば裏切られた形となり、彼は妻子を、最愛の妻子を残して走った。
 
 走って走って走って、テキサスへ。
 そこは彼の出発点だった。
 原点だった。

 愛を失いかけた彼は、人間とは何かという大命題に突き当たったに違いない。
 その答えを探しに、自分の原点へ戻ったのかもしれない。
 
 妻は改心した。
 それがまたしても、皮肉なことに彼の心に先の命題を復活させてしまったのかもしれない。
                                             (1991・1、19歳)

posted by nobody at 02:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。