2016年04月21日

これは必然的帰結だったのか 〜立花隆『日本共産党の研究』〜

本来ならば論理的かつ体系的に正面から考察を加えねばならないところなのだが、そうすると例えば、なぜ「リンチ事件の事実問題とバックグラウンドを切り離して提出」すれば共産党と宮本が自己批判しやすくなるのかとか(『三』pp.248-249)、木島隆明が波多然に大泉兼蔵と小畑達夫の査問のことを話していることがなぜスパイというものに対して非常な恐怖心を抱かせることになるのかとか(同pp.153-154)いったような恐るべき細かい点を1つ1つ追求していかねばならず、そうすると分量は膨大になり論脈も拡散していき収拾がつかなくなるのでそれはやめる。

とりあえず読進と並行してツイッターに呟いていったことを再録してみよう。
ツイッターにはエピソードとして知らせたいことを中心にあげていった。

「関東大震災に乗じて権力=体制は、9人の組合活動家を素裸にして首を刎ねる亀戸事件という暴虐を行った。殺された1人が南喜一の弟だった。
南は工場、貸家、特許権を売り飛ばし、
『俺は身体を張ってこの不合理な仕組みを叩き潰してやる』
との一言を残し共産党員となり、以後12回投獄の闘士となる」
南は後に国策パルプやヤクルトの社長となる。

「関東大震災下、醜悪な社会主義者虐殺が起こったが、この時第一次共産党事件で一斉検挙されていた党員達は市ヶ谷刑務所に収容されていた。そこへすでに亀戸で9人を虐殺してきた憲兵隊が、さらに虐殺するために共産党員を引き渡せとやってきた。これを刑務所長は拒否。党員達は虐殺を免れた」

「戦前の日共再建ビューロー時代党を席捲した福本イズムの主福本和夫はドイツ語・ロシア語・フランス語が使いこなせた筈なのに、ブハーリンらコミンテルン幹部との政治生命のかかった政治討論に臨むとドイツ語と日本語のチャンポンしか喋れずケチョンケチョンにされたってのを聞くとなんだかなあとなる」
これは“語学が天才的にできる”とされる人の正体への幻滅である。

「(ロシア革命成功後このままいけば)2、3ダースの党指導者が指導し、支配し、実際にはその中の1ダースほどの卓越した人たちが指導し、そして、労働者の代表は、時折、会議に召集されて、指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場一致で賛成することになる。__ローザ・ルクセンブルク

もし現在の道を進めば、党は党役員に代行され、党役員は中央委員会に、中央委員会はついに独裁者に代行されるような事態がくるであろう。プロレタリア独裁は、プロレタリアートに対する独裁にいたるだろう。__トロツキー」
これはボリシェヴィキの民主集中制に対する2人の予言である。

「組織か大衆か。革命党派は戦前も戦後も同じ命題を突き付けられる。革命的情勢(恐慌・戦争等)即ち潜在的に大衆を獲得している時機においては組織をとるのが正しい。そうでない時機即ち戦後であれば大衆をとるのが正しい……と言いたいところだがどうか。というのは戦後は大衆自体が反革命である」
世界恐慌から戦争の時代は、やはりレーニン・ボリシェヴィキ流の中央集権的組織論、あるいは福本和夫の分離・結合論で通すべきではなかったか。
なのに1924年のコミンテルン第5回大会では統一戦線戦術が採択されたり戻されてまた1935年の第7回大会では人民戦線方針が決定されたりして引きずり回されている。

「堺利彦、山川均、荒畑寒村。それこそ大逆事件の昔から反体制運動の歴史には必ず登場してくるが、結局彼らは、書斎から外に出ることを忌避したのだ。いくら理屈をつけてみても、己が身の保全を図ることから脱却することはなかった。これが妙に岩波臭い。これが日本知識人というものだろうか」
もしも労農派がコミンテルンから全く離れた日本革命を目指したというのならばそれは慧眼である。
しかし彼らは共産党員のように拷問、獄中十何年という目には遭っていないのでやはりそれを忌避したのであろう。
それにしても向坂逸郎の『資本論入門』を読んでやはりその志の本物性を感じたのだ。
向坂は労農派である。
「『人の途方もない愚行を目のあたりにすることは、しばしば悲しいものである』
とは立花隆の言だが、戦前のコミンテルンの日共指導こそ途方もない愚行であろう。アメリカは対日戦に臨みルイス・ベネディクトに『菊と刀』を上梓させ、日本人の心性を文化人類学的に徹底的に分析し尽くした。日本人に日本で革命を起こさせるのなら日本を知悉した担当者が日本で任にあたらねばならぬのは当たり前のことだ。現にゾルゲ機関では尾崎秀実を使ったではないか。上海に極東部長を置くだけでうまくことが運ぶ訳がない。しかし日本の党幹部に多額の資金を渡しているのだから遊びでもなかったようだ」

「しかし、悔いはないね。ブントの誰一人としてないだろう。やるだけやった。誰にやらされたわけでもなく、自分でやったんだからね。世界の先端きってもこの程度のことしかできなかったんだからアキラメはつく。__島成郎(元ブント最高責任者・書記長)
コミュニズムを放棄した時、俺たちが放棄したのは世界を把(とら)え得るという観念だったのだ。意味なんぞなくても人間は生きる__生田浩二元ブント事務局長(実質的な組織掌握者)

ブント最高指導者は、強い。安保闘争敗北後なお、島成郎は東大医学部に復学し精神科医となり家庭ももっている。生田浩二は東大大学院で近代経済学の履修を続け、ペンシルベニア大学に留学した(その後焼死)。青木昌彦はハーバード大学に留学し近代経済学を修め、同大学講師となった。西部邁のその後については皆さんご存知の通り。葉山岳夫と糠谷秀剛は司法試験に受かり弁護士となった。
これを皮相な目で見れば体制に日和ったと映るだろう。体制に楯突いて敗れたなら全て終わりとならず、彼らには体制さえ人生を切り拓く手段でしかないのだ。体制を絶対化・巨視化していない。利用できるものは利用する。そんなものに左右されるほど自分達は卑小ではない。

『思想と運動の総体が敗北したのだ。あれは左翼大衆運動の総決算だった』
と島が言うその通り、“壮大なゼロ”に終わった六〇年安保闘争は、日本最後の国民運動だった。もう、30万人が国会を取り巻くことはない。島が国会前で『このエネルギーが! どうにもならない!』と叫び腕を振り回したほど、あの時国会前には人民のエネルギーが結集していた。だがすでにそれを束ね導くべきオルガナイザーは存在しなかった。なぜそれほどまで人民のエネルギーを結集することが可能だったのか。それはやはり、ブント指導者の人間的器の大きさ、だったのではないか。
利用したのは体制の制度だけではない。例の田中清玄からの資金もそうだ。右翼から金をもらうなどとんでもない、田中清玄などCIAの手先ではないかと。
ならその田中は戦前特高からどんな拷問を受けたか。

『当時の警視庁および内務省特高課の人たちは私を蛇蝎の如く嫌い、燃えるような憎悪を叩きつけた。それだけに拷問も酸鼻をきわめ、大腿部を部厚い三角型の棒でつくったソロバンで絞りあげ、これを捻じ上げるのである。その痛さといったらなかった。『死ぬのじゃないか』という恐怖心が全身を嚙んでくるのである。が、私は身体が頑丈であったため、一回の拷問に四時間はもった。それが、かえって刑事や特高の怒りを煽った。ある特高は『貴様のような悪逆無道な奴は全人類と日本民族の敵だ』と叫んだものである。拷問を堪えていると遂に失神する。目を覚ますと夜になっている。手も足も動かなくなった身体は留置場に担ぎこまれ、翌朝また取調室の椅子にくくりつけられて、同じことが繰りかえされる。私の場合、拷問と失神の日が十数日間続いた。大腿骨にひびが入り、手の指は紫色に腫れあがっている。それでも私は自白しなかった』(『赤色太平記』)。田中清玄にはこの体験があるのだ。彼が日和ったか否か、推して知るべしであろう」
これだけ凄惨な拷問を受けた田中清玄が、どれだけ年月を経ようとも権力側に魂を売り渡すはずがない、と思った。
だから60年安保でブントへ資金提供した心算も読めた気がした。
特に田中は武装共産党時代の委員長であり、実際にピストルや匕首で何十人もの警官を死傷させているその頭目だったのだ。
その恨みを晴らす意図をもって特高は拷問にあたった。
なぜか田中清玄には呉智英のイメージがかぶさる。

「立花隆『日本共産党の研究』に日共が猛反発したというのも判らなくはない。
立花のさりげない口調が、鼻で嗤うかのような、腹の底で見下したような口調に思えるのである」

「これが権力=体制の本質であり正体である。
『わたしは三人の男どもにかこまれ、力のかぎりの暴行をうけて、頬はゆがみ、髪の毛はばりばりと抜け、背中は足蹴をくらいつづけて骨がいたみ、頭は竹刀でたたきつけられて、しだいに意識がくらんでいった。すると、かれらは、こんどはわたしをまっ裸にし__布きれ一枚つけないで__、捕縄をとりだすと、わたしを後手にゆわえあげ、そのあまりをもって、そこにある机にしばりつけようとした。それがうまくゆかないので、その腹いせのようにわたしをまたなぐりつけ、けりつけ、ついに足までしばりあげて、さかさにもちあげた。青木も栗田もいまいましそうに舌うちして、わたしをたたみの上になげつけた。そして、青木が手箒をもってきて、その箒の柄を、わたしの胯のおくにつっこんだ。つまり、わたしに女性としてのはずかしめをあたえようとしたのだった。わたしはそのはずかしめに、気が転倒するばかりにおどろき、もがいた。が、かれらはそんなことに慣れきっているのか、別に惨虐なことをしているうしろめたさも、気のとがめも感じているようすはなく、むしろ、そんなことをして、相手をはずかしめることを、たのしんでいるとでもいうようだった。箒の柄がうまく胯のおくにはいらないので、こんどは、栗田がわたしの上に馬のりになって、両手で首をしめた。『堕ちろ、おちろ、地獄へおちろ!』まるで芝居のせりふでも言うような言いぐさをし、かれは両手に力をいれた。わたしは手も足もゆわえられたままであり、抵抗できず、かれがしめつける手のなかで、しだいに意識をうしなった。しばらくして、意識をとりもどすと、こんどはわたしのからだをおこして、手足をしばったままで坐らせ、ふろしきにつつんだ鉄棒で、太股の上を、栗田が小突きはじめた。みるみるうちに、わたしの太股はあかくなり、紫色になり、ついにはどすぐろくなって、腫れあがった。痛さに泣きさけびながら、息もたえだえになってゆくわたしを、面白そうにながめて、栗田とその手下の男とが、かわるがわる鉄棒でうちつづけた」__中本たか子『わが生は苦悩に灼かれて』」
特高の拷問は、記録し伝えていかねばならない。

「1928年10月2日、日本共産党中央委員三田村四郎のアジトが特高警察に襲われ、三田村は逃れたがハウス・キーパー森田京子は逮捕された。森田はその後発狂し松沢病院に入れられた。逮捕後の流れは中本たか子と同じである。してみると森田にも性的なものを含めた凄惨な拷問が加えられたのであろう」

「戦前日本共産党に幹部遊興事件というのがあった。5ヵ月間で待合で5千円(当時帝大出エリート初任給55円)、党資金の4割を消散した。断トツだったのが中央常任委員渡辺政之輔で、53回。3日に1度は待合にあがっていた計算になる。なんだこいつはと一時は見下げ果てていたものだった。しかし渡政の最期はどうだったか。『党の秘密は死をかけて守れ』という党の鉄の規律を他の党員が守り切れぬ中、台湾キールン港で警察に追われ刑事を1人射殺し、拳銃をコメカミにあて引き金を引いた。…人の本性を、我々はその人の生き様(=死に様)によって知る。立花隆の筆致にもそれが伺われる」
なんだか死んでしまった者を尊重する傾向があるようである。渡政、市川正一、国領伍一郎、野呂栄太郎等々……。
なにか渡政には天晴に感じるところがある。

渡政と言えばもう一つ、
「渡辺政之輔が台湾でピストル自殺したのは1928年10月6日である。この事実が一般に伝えられたのは記事解禁になった1929年11月6日だった。
その19日後の11月25日、ようやく遺骨が遺族の手に戻り葬られたが、焼香を許されたのは母1人だった。参会しようとした者は全員検束された」

「戦前日本共産党中央委員鍋山貞親は、
『聖人君子ぶるわけではないが、待合では女は抱かなかった』
と証言した。待合にあがった回数は1928年4〜9月の間で29回である。で、彼は1929年4月29日、三田村四郎と共に赤坂の待合で芸者を抱いて寝ているところを特高警察に逮捕された」
これは鍋貞、矛盾するのでは?

党活動家と性のテーマも気になるところである。
上記の豊富な資金による待合遊興。
そして“ハウスキーパー”の存在。
立花は本論から逸れるため深くは触れていない。

「戦前の網走刑務所は真冬には零下30度、暖房を入れても零下9度まで下がる。蒲団に潜り込んでも吐く息で周りに霜柱が立ちバリバリに凍ってしまう。転向を拒否した市川正一と国領伍一郎は寒さと食糧不足で骨と皮になり獄死した。辛うじて生き延びた徳田球一は『網走送りは計画的な死刑である』と言った」

「株屋カネハンの小林武次郎は戦前の日本共産党のシンパで、浅草に世帯をもった徳田球一の生計をみ続け、徳球逮捕後は残された妻子の生活をみ続け、三・一五事件を逃れた幹部を匿った。党に絶大なる助力を成した。数年後、彼は共産党シンパとして世間の白眼視を受け、事業も不振に陥り、自殺してしまう」
共産主義に助力する株屋とはいかなるものか。
しかし小林もまた死ぬ。

「ブハーリンに対する福本和夫評価の豹変、『米軍の機関銃の前に立たされても強行する』と主張していた戦後二・一ゼネストの突如たる中止等をもって、徳田球一はよく変節漢と評される。ならば拷問に口を割ることなく、収監された党員が雪崩をうって転向していく中18年間“変節”しなかったのはなぜか」
「立花隆『日本共産党の研究』を読んでいると、徳田球一がかわいそうになってくる」
「マルクス『境遇が人間の思想を作る』。ある純真無垢な魂がある。それが産み落とされた時空に応じて、例えば坂本龍馬に、吉田松陰に、幸徳秋水に、大杉栄に、チェ・ゲバラに、徳田球一に変成する」
「返す返すも、徳田球一が宮本顕治に党内権力闘争で破れ去った時が、戦後日共の分かれ目だった。徳球の敗因は何だったか。どこかで宮本系の論客が吐露していたように、そうしなければ党員は食っていけなかった、という生活現実主義が優ったのだ。するとやはりこれは戦後特有の心的風景ということになる」
徳球に関心を抱き、夏堀正元『日本反骨者列伝』所収「陽気な指導者__徳田球一」を併読した。
そして彼も本物だと認めた。
彼の本格的追究は戦後編となろう。

「我々は立花隆とか司馬遼太郎とか、膨大な読書量・知識量を誇る“知の巨人”ならば、それに基づいて他者及ぶべからぬなんらかの真理なり世界観を築き上げているに違いない、と信じる。だが、それは幻なのだ」
「膨大な読書量と知識を誇る言論人がいる。その言論を読めば読むほど、その結果として途轍もない知識体系がその人の頭の中に築き上げられていることはなく、ただ『多くのことを知っている』だけに過ぎないと思わされるようになった。やはり人の評価は行動でなすべきなのか。サルトルの言うように」
私は本書を精読しながら随所に「立花苦しい」と書き込んだ。
冒頭に引いたような論理上の難点も見られる。
何か巨大な間違いのない知性が考察を進めているのではないのだ。
それにも関わらず立花には偉大なところがある。
それは“記憶力”だ。
これは後述の主要素に関わってくる。

スパイMに関しては、小林峻一・鈴木隆一『スパイM』を併読する。
「私は、父のことを尊敬していたというより、男性として好きだった__スパイMこと飯塚盈延の次女」
「さて飯塚盈延の動機は何だったか。山崎正和による以下の推測が一番近いところだろう。
『2人の主人に仕えるのが最も自由に生きる方法かもしれない。こっちの力であっちを倒し、あっちの力でこっちをひしぐというのは、機械のようになっている社会の中で個人が自由になる1つの道かもしれない。自分を押えてくるやり切れない2つのもの、それを操っているときに解放感があったんじゃないか』
スパイ活動時代のMは、共産党及び特高というバックを持ち、双方からの支持を受けつつ、しかし、そのいずれからも離れて自主独立の立脚地を見出し得ていたのだ」
以上2つは小林峻一・鈴木隆一『スパイM』より。
「生まれてこないのが最も幸せだ。しかし、生まれた以上はどんなことがあっても生きつづけるべきだ。__飯塚盈延(スパイM)」
「スパイMこと飯塚盈延の死去が1965年9月。立花隆『日本共産党の研究』の連載が1976年1月から。その差、10年4カ月。惜しかった。立花が飯塚をインタビューしていたら……。中核派の本多延嘉へのインタビューは、死の直前、奇跡的に実現していたがなあ」
「スパイMこと飯塚盈延の人生はまさに小説より奇なるものだった。ただ画竜点睛を欠く点が1つ、それは飯塚の戸籍問題である。戸籍の問題は子供らの就職にも影を落とし飯塚も『毛利(特高課長)が何とかしてくれる』と期待を寄せていたが結局好転せず終わった。毛利、そこは面倒見てやるべきだったろう」
「スパイM飯塚盈延は非常時共産党時代、党の家屋資金局を党の外に置き中央委員会の干渉を全く受けず自分一人で完全に統括していた。活動報告もする必要はなかった。1932年6〜10月の間だけで現在の貨幣価値に換算して10億のカンパを手にした。いくらでも流用しようと思えばできただろう。だが晩年の飯塚は家族に貧窮生活を強いた。娘は弁当を学校に持っていけなかった。自分一人だけ白飯を食べ妻子らには稗・粟を食わせた。妻の医療費すら自分が遣った。あの大金さえあればこんな窮乏はしなくてよかった。飯塚は着服していなかったのだ。ここに彼の本性の一端を垣間見ることができる」
「Mに関する部分は同書中の圧巻として評価が高い」(『スパイM』)
「立花『研究』には、いくつかのヤマ場がある。なんといってもスパイM=松村=飯塚盈延の追跡と、宮本顕治議長の直接関わったリンチ査問事件の探求が圧巻である」(加藤哲郎「『日本共産党の研究』金脈批判以上の衝撃」『立花隆のすべて(下)』所収)
こっちは全文全身全霊を込めて精読しているのに、やはり“一般には”このような読まれ方をしているのか。

「スパイMこと飯塚盈延には立花隆は接触できなかったが超スパイ松原には69歳で存命で会うことができた。そして現党員高江州重正(当時全協委員長)と直接対決させ、松原のスパイ汚名を雪いだ。残念なのは松原を直接リンチして殺そうとした岸勝(当時党中央委員候補)と直接対決させなかった点である」
加藤哲郎は上の寄稿中でこの件を史実の解明で最大の功績としている。

「日本人には難解なものをありがたがる卑屈な特性がある。いわゆる権威主義であり、王様は裸だと言えないのだ。『日本共産党の研究』を読んでいたら転向論のところで吉本隆明が出てきた。もうこれだけで吉本隆明など読みたくなくなった。「『非転向』も転向の一形態」など、レトリックの遊びに過ぎない。難解さでけむに巻くためにわざと「モデルニスムス」などという近寄り難い用語を使う。初めから「近代主義」と言えばよい。
難解な現代思想を解りやすく解きほぐしているのを売りにしている『そうだったのか現代思想』の著者・小阪修平すら、同書の中で『わかりやすい思想のほうがいいんだろうか』といった言い方をしてわかりにくさの必然性を認めさせようとする。吉本も『解りやすく言う必要など全くない、解らないのは読者の頭のせいだ』としてふんぞり返っている。
見るに耐えないのは読者の方で、そんな奴の言説など無価値とすればよいのにかえってありがたがり権威づけている始末である。解りやすく言えないのは言ってる者の頭が悪いからなのだ(これが『王様は裸だ!』にあたり、言えない)。〈知る〉ことにとって〈解る〉とはアルファでありオメガである。解らないことには〈知る〉の第一歩も踏み出せない。吉本隆明は井沢元彦、立花隆、小室直樹の爪の垢でも煎じて飲めばよかろう」
呉智英も『吉本隆明という「共同幻想」』の中で解りやすく言えないのは頭が悪いからだと言っているそうだ。

「小室直樹は三島由紀夫の決起自決において自衛隊員のサラリーマン化を慨嘆したが、より深刻なのは学者のサラリーマン化である。現在の社会科学系学者は、一切信用しない。戦後抜け出ようとしたのは高橋和巳くらいではないか。戦前の河上肇、野呂栄太郎は偉かった。己の言説に責任をもった。
1933年、逮捕された山本正美に代わり委員長となった野呂栄太郎は、幼少時関節炎を患い右脚を切断して隻脚となりさらに結核と慢性盲腸炎と闘いながら自らの学者生命(講座派始祖)も肉体的生命も党再建の為に投げうった。休養を決め最後の連絡で逮捕。最後まで調書を取らせず、33歳で絶命した」
本当に現代の知識人は怯懦極まりない。
彼らの最高の望みはせいぜいテレビ・コメンテーターになることだ。

「幼少の頃私は母と子の読書会というのに属していた。町で会を仕切っていたのは波多という温和なおばさんだった。その夫が、戦前日共で数十日間に渡り凄惨なリンチを受けた波多然だった。彼はスパイ容疑を頑なに否定し通し、最後は額に焼火バシで×印の烙印を焼き付けられ、額を髪で隠して余生を送った」

「日共の詭弁は、何も考えない大衆に焦点を合わせている。手法は日常用語の意味論的意図的混同。『小畑達夫の死因は特異体質によるショック死』と主張するが、法医学上のショック死の概念は日常用語におけるショック死と全く違う。法医学上は外傷性ショック死とは外傷と死の間に因果関係があるのである。火傷で死ぬのは“火傷性ショック死”。
『ああ、なんだ宮本さんのリンチで死んだんじゃないのね』
と思い込ませる。また
『宮本顕治に対する確定判決は治安維持法違反で、政治犯。刑法犯ではない』
とも強弁する。これは観念的競合なのである。宮本の行為は治安維持法違反、監禁致死傷罪、逮捕・監禁罪、傷害罪、またその共同正犯、死体遺棄罪、銃砲火薬類取締法施行規則違反全てに該当するが、法律上このように罪状が複合する場合には一番重い罪の刑を課すように定められているのである。これを『治安維持法違反による処罰だ』と繰り返し、あたかも非刑法犯かの如く印象操作する。ハマコー殺人者発言の時もすぐさま日共の正森はかくの如き紋切り型の“反論”をなし、考えない大衆を騙しおおせている。考えない大衆をイメージ印象操作で騙そうとする奴らが人民のための党である筈がない」
これはこの論考の最重点だが、本書では随所にわたり、立花が日共から浴びせられたデマ攻撃に対して反論を加えているが、それで構築される日共というもののイメージが、この上なく薄汚い。
本書を読もうとした最大の動機が、
「日共って、そもそもあいつらどういう奴なんだ」
だった。
それを解明するのに立花は「迂遠なようでそれが最も近道であると思うから」「党史から現在の党を照射してみようという方法論を」とった。
でもやはり迂遠に感じられ、長い間積ん読が続いていた。
そしてついに党史を辿りきり掴み取ったのは、日共という集団の骨絡みの薄汚い本質だった。
そしてそれは宮本顕治の長期君臨によりさらに強められている。

「仔細に読めば粗がないこともないが立花隆『日本共産党の研究』の功績は絶大である。宮本顕治に対して、リンチ共産党事件を別にしても、ここまで言うかという原理的批判を行っている。例えば考えてみるとよい。その後徹底的に客観的たることを志向した『原発の研究』は誰の手によっても為されていない」
これもまた後に“記憶力”と結びつけて論じる。

さて次に、「読書メーター」にアップした各巻ごとのミニ感想も再録しておこう。
(一)
ウィキペディアもカバー文句も「通史」としているがそれは違う(立花本人が否定している)。本書の面白さは権力対革命組織の闘いの織りなすドラマの活写にあるとされ、そう見てしまうと立花の政治分析部分は仕方なく付き合わされる感じになるが、そこが案外深い。史的唯物論が必然的に革命理論となる理由、「内なる天皇制」による日本人の心性分析、初めて合点がいった。日本人のデジタル化が進む中立花の「現在の共産党を知るためには戦前からの党史を辿り直すのが迂遠なようで実は近道」とする方法論がどれだけ受容されるかも心配なところである。

(二)
革命近しという救い難き状況認識から天皇制打倒及びソ同盟擁護という非現実的な戦略・戦術に走り大衆の離反を招き党の貯水池全協は崩壊、さらに特高による弾圧は度重なりスパイが跳梁し指導部は破産、瀕死状態にとどめを刺したのが、佐野学・鍋山貞親に始まる転向の雪崩であった。実質的には1929年の四・一六事件で勝敗は決していたが、やはり32年テーゼ(天皇制こそ国家権力の中心)の誤りが敗北を決定づけた。金融資本がヘゲモニーを握るブルジョアこそ権力の中枢で天皇制は封建的遺物に過ぎないとする31年テーゼ草案が正しかったのだ。

(三)
まあとにかく大変な労作なのだから目をつぶらないといけないのだろうが……。単行本にはあった索引が文庫版では割愛されているのが致命的で、本書の資料的価値を著しく減じている。逆に「資料」として載っている「村上・宮永鑑定書」、これは全く不要、一般読者は一人も読む者はない。そしてとどのつまりの小畑達夫の死の描写が最後まで隔靴掻痒である。最後の最後になって「逸見は出獄後、このとき同時に別のある人間が、風呂敷ないしオーバーを首のところでグルグル巻きにしていたヒモを引っ張っていたことを友人にもらしている」って何じゃそれ!

あとネット関係で言えば、本書を読んで、ウィキペディアに「尹基協射殺事件」の項を新設した。
既にあった「尹基協」の項に「評価」を挿入した。
「四・一六事件」も編集した。
「飯塚盈延」の項も改変したかったが日共の圧力を恐れやめた。

「読書メーター」の(二)のところでも概略辿っているが、結局日共の辿った道行きというのは、「単行本あとがき」に次のようにまとめられたようになろう。
「共産党の組織が頭でっかちの逆ピラミッド型構造をしており、盛んな文書活動と、指令を下部に伝達していく連絡システム=街頭細胞までは作りあげていたが、指令が組織の末端まで届いたところで、それにもとづいて現実に大衆を動かすという、かんじんかなめの運動の実体化をになう組織の大衆との接点部分があまりにも弱体であったために、共産党の運動は大衆をゆり動かす運動とはならず、もっぱら党機関内部でのイデオロギー的自己運動として終始したという歴史的事実の発見にたどりつかざるをえなかった。それが大衆と結合できなかったために、その実体としての闘争は、国家権力に対して大衆の力を対置して行なわれる真の政治的権力闘争として展開することができず、国家権力の末端である特高との地下における暗闘でもっぱら終ってしまい、その局面では完敗したのである。そして、その敗北の総括が党内でついぞなされないままに戦後の党が再建されたために、戦後の党も戦前の党のコピーとして再構成され、その敗北を生んだ組織の体質的諸欠陥がそのまま遺産として継承され、党のカルチュアとして定着してしまうことになったのである」

一般的な読まれ方としては“権力対革命組織の闘いの織りなすドラマ”として本書は評価される。
だが、その“攻防”は“波乱”や“一進一退”といったものではない。
比較にもならぬ人員数を有した国家権力=特高が、比較にもならぬ資金・物資を使いたいだけ使い(例えば熱海事件での防弾チョッキの予算は3万円。現在の1億以上にあたる)、全国的な情報網を用いて包囲し、とにかく党員というだけで治安維持法で検挙できるのである。
何百人、何千人単位の検挙、検挙、また検挙。
初めから勝負になどならないのである。
ただ、毛利基特高課長の個人的力量が絶対的であったのか否かは検討の余地を残している。

そして時はまさに世界恐慌から戦争へという時代だった。
確かに革命にとっては千載一遇の時機だったろう。
仔細に見れば、戦前よりも終戦直後の方がチャンスだったのではないかと思う。
なんといっても、
「警察官のうちにも、共産革命の必然を信ずる者が多く、署長級の幹部でさえも共産党に迎合する」「署長級の会合のときも、公然と共産主義を礼賛する人がいて、日共や第三国人に圧力をかけられると、逮捕した被疑者を釈放したり、あるいは奪還されたりした。警視庁の留置場からさえも堂々と脱出した者もいた」(三p.262)
という時代状況だったのだ。

次に、左翼の言葉遣いと組織用語について。
逸見、宮本、秋笹、袴田の4人が中華料理店の片隅などで額をよせあって何度かコソコソ話しあった結果、大泉、小畑を査問しようということになったというだけのことを、宮本に言わすとこうなる。
「こういう次第で党中央部は、両名をスパイ嫌疑者として認定した白色テロル調査委員会の報告を採択して、両名を査問委員会に付する決定をした。すなわち、両名をのぞく、党中央委員並に候補者を加えた党拡大中央委員会を開催し、そこで正式に決定したのである。査問委員会は拡大中央委員会の出席者によって構成された」(三p.35)

とにかく彼らはこういった言葉遣いが習い性となっている。
「協議会を開催した」って、一体参加者は何人で、どこで「開催」したのか。
どうせ数人集まって料理屋で話し合ったんだろ。いかにも仰々しい。

「共産党の党史で多用される述語は、『――の宣伝をおこなった』『――と主張した』『――をあきらかにした』『――と呼びかけた』といったものである。要するに、共産党が何をしたかではなく、何を語ったかが主なのである。『――の運動の先頭に立った』『――たたかった』などの記述もあるが、具体的にどういう運動を展開し、どういう成果をあげ、あるいはどう失敗したかはいっこうに記されていない。実際には、ある主張の文書を出したことが『――の運動の先頭に立った』の実体である場合がほとんどである」(三p.188)

これは戦後の連合赤軍などを見ていてもそうである。
「――を勝ち取る」だの「――を確立する」だの、よくよく考えれば何も動いていない動詞。
これに「〜しなければならない」「〜を通じて」「〜するために」などをつなぎ合わせると、堂々たるもっともらしい言い回しになる。
ただ「〜する」と言えばいいところを、いちいち「大衆的に」だの「革命的に」だの「〜的に」をつける。
機関紙というものの役割がアジにあるところからきたのだろうが、言葉だけが浮き上がることになってしまった。

「念房内膜赤褐色未消、右心室腔ノ大サ尋常内膜赤褐色ニ染リ未消、三光弁肺動脉弁肉桂、腱索、乳嘴筋ニ異常ナク壁ノ厚サ〇・四仙迷筋肉淡赤褐色光沢ニ乏シ念房内膜赤褐色ニ染リ未消、卵円窩ハ約豌豆大異常ナシ、大動脉起動始部ノ幅六・〇仙迷内膜淡赤色ニ染リ粟粒大肥厚斑数個ヲ散在ス大動脉弁ニ異常ナク、冠状動脉走行尋常内膜淡赤色ニ染リ未消ナリ」(三p..291-292)

これは「資料三」として載っている「村上・宮永鑑定書」の一部である。
この調子で13ページに渡って続く。
読みにくい理由は以下の4つである。
@漢字が読めない。
A体のどこを指しているのか解らない。
Bそれが法医学上どのような意味をもつのか解らない。
C変色部の大きさの具体的な示し方として大豆大・小豆大・豌豆大・蚕豆大・胡桃大・鶏卵大との形容が用いられているがかえって分かり辛い。

一般読者はこの13ページを一人も読み通していない。
全く不要な資料だ。
こっちはこれだけ精緻な資料に基づいてるんだぞという共産党側への威圧効果を狙ったものだろう。

逆に、絶対必要なものが欠けている。
加藤哲郎も前掲寄稿で
「単行本に入っていた人名・事項索引が、文庫版では省略されたのが残念であるが」
と指摘しているが、人名・事項索引は絶対に必要なのに、ない。

立花は純粋な党史を書こうとはしていないために、記述は必ずしも時系列通りではない。
「〜については前に述べた」と頻繁に出てくるが、読み手はどこに書かれていたか捜すのに大変なこととなる。

『三』に入ると、これまでとは違ってつくりが粗くなる。
引用部が行中から始まったり、推敲が不十分だったり。

「(鈍体の打撃による皮下出血の)経験がない方は、自分で自分の腕でも足でも皮下出血するまで殴りつけてみるとよい。
宮本氏や袴田氏たちが小畑を裸体にして、みんなで小畑の体中にキスマークをつけたとはとても考えられないから、」(三p.226)
これがこのまま出ているのは、ある種のナチュラル・ハイ状態で書いてしまったのだろう。
それを落ち着いて推敲する暇もなかったのだろう。

「村上・宮永鑑定書」の掲載必要性を十分に吟味できず、絶対必要な人名・事項索引も作成できなかったのは、ひとえに文庫版校了の時間的余裕がなかったためだろう。
そして立花からすれば、人名・事項索引の必要性を自身は本質的には感じていないのである。
前どこに書いたかは分かるからである。

さてここで、立花の驚異的な記憶力についての話に入る。
結局立花を際立たしめているところの特殊能力は、その驚異的な記憶力によるのである。
なにせ立花は、自分の何万冊もの蔵書から1冊本を取り出されても、即座にそれについて精密な話ができるのである。
手塚治虫は膨大な自分の作品を並べた本棚から、アシスタントに「上から何段目の棚の左から何冊目、何ページの何コマ目」と指定して絵を描かせたという。
それと同じレベルの記憶力である。

栗原幸夫、しまねきよし、亀山幸三、いいだももら、いくらでも日共党史の欺瞞を暴いてきた文筆家がいるにも関わらず、彼らの著書が『日本共産党の研究』ほどのインパクトを与え得なかったのはなぜか?

立花は「研究手法」を公開している。
「私たちの手法を公開してしまえば、手間はかかるが、さして困難なことではない。要するに、あらゆる資料(聞き書きも含む)をバラバラにして、同じ時代、同じできごとについての叙述をひとまとめにして、それを比較検討していくという、研究者なら誰でもやっていることだ。ただ私たちは、ゼロックスを利用して、分業でやっているから、コツコツ一人でやっている研究者より、より多くの資料をより早くこなせることと、天才的な整理魔が三人ばかりチームの中にいるために、大量の資料を消化するための独特のノウ・ハウを開発しているだけのことである」(一p.255)
と誰でもできるような口ぶりだが、やはり実際にこなせるのは立花だけなのである。

最後に、小畑の死の描写のもどかしさについて述べておこう。
克明に描写されるとモロに宮本を攻撃することになるのであえて曖昧に扱っているふうでもあった。
だがここまで腹を括っておいて、核心のそこをボカすなど立花の気性からしてもあり得まい。
小畑リンチシーンの描写は明らかに克明の度が違う。
本書においてここの比重は明らかに重い。
立花の政治的目的がうかがえる。
それは己の意思なのか上からの要請なのか知らないが。

とにかく、もう絵として誰かにやってもらわないと、どうして小畑が死んだのかが判らない。
初めは袴田の著書『「昨日の同志」宮本顕治』からの引用である。
「宮本は、右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い全体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声を上げていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上った」(三p.108)

これは1977年発表の文章である。
で、袴田は1978年に除名され週刊新潮に手記を発表し「リンチ事件に関して新証言をした」。
以下、その「新証言」。
「小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上った。小畑は宮本のしめ上げに息がつまり、ついに耐え得なくなったのである。小畑はぐったりとしてしまった」(三p..240-241)

どこが「新証言」なのだろうか。
初めの2文など上とほとんど同じである。

また袴田の『党とともに歩んで』からの引用はこうである。
「いきなり立ち上がった。わたしは後ろから組みついたまま、足を払ったので二人ともいっしょに倒れた。しかしかれは立ち上がるやいなや大きな声で『ワアー』っといったんですね。“助けてくれ”じゃなくてただ『ワアー』という声を出して、そして倒れた。寝ていた連中はみなこの物音に驚いて、この男に組みついたのですが、もうそのときにはガクッと力がぬけてしまっていた。つまり、それきり死んじゃったんですよ」(三p.211)

より判りにくくなっている。
で、最後に出てくるのは逸見証言。
「そしてこのとき、小畑の頭部は風呂敷ないしオーバーでぐるぐるまきにされており(宮本も含む各人の証言)、頭部近くには逸見がいて『逸見ハ声ヲタテサセマイト口丿辺ヲ押ヘタ』(宮本証言、他証人はより強い表現で同様証言。逸見は出獄後、このとき同時に別のある人間が、風呂敷ないしオーバーを首のところでグルグル巻きにしていたヒモを引っ張っていたことを友人にもらしている)」(三p.244)

「より強い表現で」って何だ!
「別のある人間」って誰だ!
この時
「宮本が小畑の体の上にのり、逸見が頭部をおさえ、袴田は腰のあたりを、木島は足のほうにとりついていた」(三p.107)
ならばどう考えても袴田だろう(あるいは逸見自身か)。

役者が揃っている。
秋笹はこの後総白髪と化して発狂・獄死。
木島はどんな拷問でもお任せあれの下っ端。
私は以前テレビで「日共の木島」を見かけた時にその人相に非常に嫌な印象を抱いた。
もちろんこのリンチ事件の木島隆明ではないが、ひょっとしたら血縁者かもしれない。

日共の壊滅は、歴史の必然だったのか。
この道を辿るしかなかったのか。
よしんば戦前の帰結が運命だったとしても、戦後の再出発までなぜダメになったのか。
言うまでもなく宮本顕治がブチ壊したのだ。
宮本顕治をそうあらせたのは戦前の党史である。
れんだいこ氏は彼のスパイ説を唱えている。
なるほどそれだと随分合点がいく。
しかしスパイが12年間監獄にブチ込まれるだろうか。
とにもかくにも、日本で革命を志す党派は本書を基礎学習文献とすべきである。



続きを読む
タグ:立花隆
posted by nobody at 05:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月03日

進歩の概念への懐疑 〜宮本憲一『環境経済学』〜

近代文明と環境


かつて、「進歩」という概念は、「平和」や「自由」などの概念と同様、所与のごとく存在し、その絶対的意義を疑う者など誰もいなかったし、また疑う必要もなかった。

ところが現代という時代の最も大きな特徴は、“マネタリズムの総帥”ミルトン・フリードマンが「ノーベル賞受賞者百人による討論」の中で言ったように、その疑う余地もなく当たり前と見做してきた「進歩」という概念に対して懐疑を抱いてかからねばならなくなった点にある。

それを最もストレートな形で指摘していると思われるのが、市井三郎『歴史の進歩とはなにか』の中にみられる以下の件(くだり)である。

「だが、人間歴史の『進歩』とは何であったのだろうか。
まさに西欧近代は、人間歴史の『進歩』が必然である、という強い信仰を生んだのである。
18世紀いらい、その信仰を根拠づけようとする著述は、数多く書かれてきたではないか。
にもかかわらず、進歩の理念それじたいが、まさに懐疑にさらされているのが現代の特徴なのだ。

それを時代の病弊とはいえないだろう。
『進歩』への懐疑には、正当な理由があるからである。

科学技術の『進歩』なるものは、人類みなごろしの可能性を現実のものとした。
水爆やその運搬ミサイル技術の『進歩』なるものが、何を意味するかを少し正気で考えてみれば、そのことは自明とさえいっていい。
だがさらに、それだけではないのである。
公害の問題は、究極兵器の問題を別にしても、人類みなごろしの可能性を示唆しはじめているではないか。

(略)少なくともこれまでの『進歩』の思想には、どこか根本的にオカシイところがあったといわねばならない。
人間歴史のある面での『進歩』のゆえに、人間がすべてみな殺しの予感あるいは圧政下に生きる、といった帰結を生じるとすれば、そのような『進歩』は進歩の名に価いしないはずだからである。

『進歩』の理念と歴史の現実とは、すでに現代、このようにはなはだしいズレを見せるにいたった。

(略)無限の高度経済成長なるものは、原理的に不可能なのである。

(略)単純素朴に必然的『進歩』を信じる歴史観が、ここで根本的に吟味されねばならぬのである。」(P.9〜16)

似たような言い方は、世に氾濫するいわゆる「環境論」に必ずといっていいほど登場する。

立花隆は『エコロジー的思考のすすめ』の中で言う。

「同じように、進歩という概念についても、われわれはもう一度考え直さなければならない。

進歩とは、目的論的な方向性をもった変化のはずである。
人間が進歩ということばを用いるケースをいくつか検討してみよう。
漢字の読み書き能力の進歩、料理の腕前の進歩、よりこわれにくい時計を作る技術の進歩……こういった目的が明確に設定されている進歩はよい。
だが、こうした日常的な、ミクロの進歩のベクトルの総和がどちらを向いているのか、その到達地点であるマクロの目的についての構想はあるのか__だれもそれを考えていないようである。

どうやら、人間はこの点に関しては予定調和の幻想に酔っているらしいのだが、現実には文明のベクトルは予定破局に向かっているような気がしてならない。
そしてなお憂うべきことは、このベクトルの長さ、つまり速度がますますはやまりつつあることである。

生態学の観察する自然界での変化の速度は正常な変化であるかぎり緩慢である。
生物は、あるスピード以上の変化には、メタボリズム機能の限界によってついていけなくなるからである。

進歩という概念を考え直すに当たって、生態学の遷移という概念が参考になるにちがいない。
遷移のベクトルを考えてみる。
その方向は系がより安定である方向に、そして、エネルギー収支と物質収支のバランスの成立の方向に向けられている。
その速度は目に見えないほどのろい。
なぜなら、系の変化に当たって、それを構成する1つ1つのサブシステムが恒常状態(ホメオスタシス)を維持しながら変化していくからである。
自然界には、生物個体にも、生物群集にも、そして生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。

文明にいちばん欠けているのはこれである。
それは進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である。
進歩は即自的な善ではない。
それはあくまでも1つのベクトルであり、方向と速度が正しいときにのみ善となりうる。

いま、われわれがなにをさしおいてもなさねばならないことは、このベクトルの正しい方向と速度を構想し、それに合わせて文明を再構築することである。」(P.220〜221)

また、『地球を救え』の編者であるジョナサン・ポリットは『世界』1991年11月号に掲載された「地球を救うための三条件」と題する論文の中で指摘する。

「近年の歴史においては、1つの世代の行為は必ず次世代の生活をよくする、というほとんど暗黙の仮定が存在してきた。
戦争をしなければならないとしたら、その後には平和がつづくだろう。
犠牲が必要だとすれば、繁栄がその報いになるだろう。
それは1つの世代がごく自然に次の世代の未来を保証しようとする集合的な動機の一部であった。

明日を犠牲にすることによってのみ今日の繁栄があり、子供の安寧がわれわれ自身の飽くことなき要求(ニーズではない。というのも、地球の生命維持システムを破壊しているのはニーズを満たす行為ではないからだ)を満たすために犠牲にされつつあるという認識は、非常に重要な情緒的・心理的ターニング・ポイントを記すものである。
多くの人がそうした認識を共有した時にはじめて、指数重視の経済成長と世界的な物質的繁栄という死の罠からわれわれ自身を救いだすための真に政治的な行動の余地が生じるだろう。」(P.215)

聖学院大学専任講師(経済学)である柴田武男氏は、同誌1992年2月号の中の「企業社会は地球環境を守れるか」という論文において、バルディーズ原則の前文から以下のような引用をしている。

「企業とその株主は、環境に対して直接的な責任を負っている。
(略)企業による利潤追求は、それが地球の健康状態と保全とを損なわない限度において行われるべきものであると信じる。
企業は、次世代が生存に必要なものを手に入れる権利を侵害するようなことは、決してしてはならない」(P.63)

無論のことながら同趣旨のことは、本書でも1972年の国連人間環境会議の開会の席上におけるワルトハイム国連事務総長のことばなど、満遍なく散りばめられていることは言うまでもない。

そして「進歩の概念への懐疑」という問題提起に対する結論も、ほとんど全てのいわゆる「環境論」においてはパターン化している。
その代表的言詮を1つだけ、前出ジョナサン・ポリットの論文より引用しよう。

「私たちの未来はそうした『世界は一つ』の意義を再発見し、絶えず『自然を征服』しようとしてそれと戦うのではなく、それを祝福することを学ぶことにかかっているのだ。
当然これは大きな哲学的転換を表すが、なによりも重要なものである。
なぜなら私たち自身と自然界との最終的な疎外が癒されうるのはこのレベルにおいてなのだから。

(略)歴史は自己満足の余地をほとんど許さないが、私たちが充分に賢く、情け深いと想像するのは、最終的には信念の問題である。」(P.217)

と、最後は結局各個人における「意識変革」、すなわち心の問題に全てが委ねられる。
だが、こんな甘っちょろいことを言っているようでは環境問題の解決など望むべくもない、というのが私の見解である。
心の問題に解決を求めるなら求めるで、もっと徹底すべきである。
ともあれ現在の先進諸国の生活水準の維持を前提としているうちは、全ての方策は思弁の域を出ない。
人間は一度覚えたうまみからは離れられないし、自分たちだけが特別な負担を強いられることに最も強く抵抗するものなのである。

近代文明と環境を考える場合、常に「進歩」の概念への懐疑という問題と照らし合わせるべきだろう。


資本主義と公害


初め、私は公害を資本主義(自由経済競争)の専売特許だと考えていた。
しかし環境問題の鉄則は本書にもある通り、「素材からはいって体制へ」という方法論である。
どちらか一方だけを追っていたのではまさしく片手落ちそのものである。
当初の私のように「体制」のみから環境問題を捉えようとすれば、本書と同じく
「では社会主義国に公害が存在するのはなぜか」
という陥穽に嵌まるは必定である。

案の定、資本主義に公害は必然的と見做すのは短絡的であるということが、前出の柴田武男氏の論文を読んで判明した。

自由経済の下の企業経済体制に問題ありとするならば、自由経済の元祖アダム・スミスにまで遡らねばならない。

スミスの『国富論』といえば、「見えざる手」のみ有名となっているが、実はこの一節全体の主語は「会社」ではなく「各個人」である。
さらにスミスは当時の特権的合本会社の業務運営を、「怠慢と浪費」という用語を用いて批判している。
つまりスミスの考えた経済主体は決してこうした合本会社なのではなく、自然人たる各個人、すなわち「人間」そのものであったというのだ。

これがどういうことを意味するのかは、彼がまた『道徳感情論』の著者でもあったことを想起するとはっきりする。
スミスはこの中で人間本来の行動原理として「共感」原理、すなわち自己規制を挙げており、それを前提として自由な経済活動が認められるという論理構造をとっている。
ところが現代の企業経済体制の主体たる株式会社にはこの「共感」原理が働いていない。
したがって、純学説的に、公害は資本主義体制の宿命と結論づけるのは短絡的、ということになるのである。

ゆえに、資本主義も、社会主義と同じく理論より実践に問題があったということになり、今後の課題としては現実の歴史の流れの上での資本主義の展開に、素材論も付け加えて問題の所在を探るという方法論が有効であると思われる。


PPP(汚染者負担原則)


PPPという政策原理は、よく考えると、当たり前といえば当たり前である。
むしろ、それが今まで当たり前の原則として機能できなかったところに問題があるのではないか。

このPPPに関する注目すべき動きが今春(1992年)あった。
アメリカが地球サミット憲章の草案(「環境と開発に関する宣言」)の中で、PPPを強調した上で、自由市場の原理を環境保護にも貫徹させる必要性を指摘したのだ。
今後とも世界の環境政策の主流として、ますますその重要性が増していくと思われる。


公共信託財産


この概念は資本主義の眼目たる経済の自由競争という概念と真っ向から対立する。
また人間の「自然は無限である」という気宇壮大な誤解にも正面から是正を迫るものである。
その意味で、今後の環境問題への対策として欠くべからざる視点といえるが、見方によっては公共機関(政府)の特権という見方も成り立ち、やはり最終的合意に至るまでにはかなりの紆余曲折が待ち構えているだろう。
                (1992年、21歳)


タグ:宮本憲一
posted by nobody at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月02日

環境問題の凝縮としてのハイテク汚染 〜吉田文和『ハイテク汚染』〜

こういう類いの、環境問題に関する専門書(入門書)を読むと、いつものことながら「知らぬが仏」という諺がしみじみと感じられてならない。
危機だ危機だと、ただ漠然と騒がれてもそれまでだが、こういうふうに数字や物質名を逐一詳らかにされると、たちまち目の前に暗雲が垂れ込め、どうしようもない無力感・脱力感に襲われてしまう。
これまで高榎堯『地球の未来はショッキング!』、福岡克也『地球大汚染 黙しているのはもう限界だ』、岡庭昇『飽食の予言』を読んだ時もそうだった。

さてここで、本来なら環境問題についての一般論に入るところだが、とてもちょっとやそっとの枚数で述べられるものではないので、省略しておく。
ただ一言だけ言っておくと、私は環境問題に対して極めて悲観的な見方をしている。

本書の感想に戻るが、かつてハイテク産業といえば、それはいつもクリーンであると言われたが、今やその神話は崩壊した。
有機溶剤による地下水汚染、有毒化学物質問題など、やはり環境汚染の原因になりうる。
そこへもってきて“日本”という特殊性。
本書では最初の方でアメリカのシリコン・バレーの現状レポートがあり、環境保全に関して日本より遥かに法規制等が整備されている
(例えば、人の健康に関わると認定されている有害廃棄物質は日本ではたった9物質なのに対して、アメリカでは450物質である)
アメリカでさえこの有り様だ、果たして後半の日本の現状の杜撰さはいかほどか、と早くも心配になったが、その予感は見事的中した。

宮崎市では半導体工場の排水箇所よりも下流に水源がある、というのはほんの一例である。
日本政府・企業の基本方針は
「地下水保護の法整備については、『発ガン性』の疑いだけで規制するのでは不十分であり、また環境への蓄積性が確認されるまでは使用を規制しない」
ということだが、こういう本末転倒な考え方は、全て環境破壊の諸悪の根源の1つである「生産至上主義」に起因している。
この方針は要するに金儲けのためには大規模な「人体実験」をも容認しますよ、と言っているに等しい。

環境問題の一般論についてはここでは触れないと前述したが、本書には、環境問題一般についていえることが、ハイテク汚染という一例を取り上げていながら、全て集約されていると言える。

「東芝太子工場は、正式には汚染の責任を認めず、あくまで『寄付金』として、水道切り替え費などを支払っており、いまだに勇気塩素系溶剤の使用を続けている。
原因調査にあたった県当局は、地下タンクからの漏れを事実上みとめながら『原因不明』とし、土壌ボーリングによる深度別汚染分析も十分行わず、住民の健康調査も必要なしとした。
住民は井戸水の安全性に不安をもちながらも、散水や風呂に依然として使用している」(P.141〜142)

「半導体製品自体の性能向上が第一の目的であるから、そのための原料ガスや工程には苛酷な条件が求められる」(P.88)

「これらの措置(引用者注『安全な飲料水と有毒物規制に関する1986年法』(プロポジション65))が過剰警告になり、消費動向によって経済的に不利益になる人の出ることを州政府は恐れているが」(P.56)

これら3つの引用は、「環境破壊の元凶の1つは生産至上主義である」ということを象徴しているし、

「以上のように、洗浄剤は有機溶剤にしても、フロンガスにしても、いまや出口なしの状況を呈しているのである」(P.34)

「第四に、浄化のためのばっ気(蒸散)法は、大気への揮発を通じて大気汚染の可能性がのこる」(P.67)

「つまり、水の量と質に大きく依存するハイテク産業が水を汚染したことで、自らの行動の自由を制限されることになったのである」(P.73)

これはの引用は「環境保全運動の八方塞がりの状態、限界」を示唆しているのである。

また、
「工場の誘致・立地にあたっては、自治体と地域住民は、その工場が何をつくり、何を使うのかをよく知らねばならない」(P.185)

という一節は、
「環境問題にあたっての、当たり前なのに忘れられてしまった純然たる前提」
であるし、それに対しての政府の、
「化学物質についてのデータは企業の財産であるとする政策」(P.186)
は、やはり前に戻って、「生産至上主義」の成せるワザである。

ハイテク汚染問題は、これら全ての環境問題に共通する要素を内包している。
よってハイテク汚染を解決しようとすれば全ての環境問題も自ずと解決されるし、逆に言えば全ての環境問題を一括して解決する方法でなくては、どんなに小さな環境問題の1つさえも解決され得ないということを、肝に銘じるべきである。
                (1991.9.30、20歳)

タグ:吉田文和
posted by nobody at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

シュプレヒコールに耳を塞いで 〜三田誠広『いちご同盟』〜

※これは本書を貸してくれた子への手紙として書かれたものである。

山川健一『僕らは嵐の中で生まれた 第1部 初めての別れ』のミニ感想を、私はこう書き出している。

「『青春小説』というのだろうか。(略)村上龍『69 sixty-nine』や村上春樹『ノルウェイの森』、三田誠広『やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる』『高校時代』、そして本書。
これらの本はどうしてこうも読みやすいのだろうか。
抵抗なくスッと胸に入ってくる。
遅読をもって鳴る私が、この本は足掛け2日で一気に読んだ。
いや『読まされてしまった』といった方が近い。」

とにかく読みやすい。
現在では誰もが経験する学校生活、中でも色々と思い惑う、いわゆる思春期の中・高校生活をベースにしているからだろう。
読書に慣れていくには絶好の書物だ。

当初、教科書だけを読むと、どうも私の知っている三田誠広の文体よりもぎこちない気がした。
きっとこれはデビューしたての頃の作品だと思った。
だが刊行は1990年とあり、ごく新しい。
そこでこう考えた。
いつもの彼の文体の“濃さ”“アク”がないのは、意識して教科書掲載を狙ったのではなかろうかと。
教科書に載る文章というのは、最近は若干“規制”が緩くなってきたけれども、基本的に中性的な文体でなければならない。

しかし本書に没入しているうちに、そうした“教科書的折り目正しさ”はいつしか消え、いつもの彼らしさ、彼の世界に浸ってしまった。

前述したように、私が特に「青春小説」にハマるのは、まず第一に「学生生活」という普遍的体験をベースにしていることによる読みやすさがあるからだが、それともう1つある。
それは、現代作家の「青春小説」には“学生運動”がモチーフとしてあるからである。

“学生運動”__それは現在の学生からは想起できない。
だから想像もつかないだろうが、かつて日本の学生たちは、日本を変えようと起ち上がったのだ。
マスコミで取り上げられるのは、その最終的破綻である連合赤軍あさま山荘事件・同リンチ事件や内ゲバといったものばかりである。
だが1つだけ確実に言えるのは、当時の「暴力学生」の方がはるかに真剣であり、真摯に勉強していたということである。
運動の渦中で人知れず挫折、自殺していった者は数知れない。
良一の父もかつて学生運動をし、良一の読んでいた本も運動家のものであった。
「内ゲバ」「セクト」「デモ」「新左翼」という言葉の意味を、あなたは理解できただろうか。

「自殺というものが、一種の病気だとすれば、この病気は伝染する。」
この一節を目にした時、電気の走るような衝撃を覚えた。
まさに私が心で温めていたことだからである。

私の考えていた“学生運動・死者の系譜”というのは、まず60年安保闘争の中で、国会前で機動隊に殺された東大生・樺美智子(自殺志願で国会前に行ったという説もある)。
死後、彼女の遺稿集『人知れず微笑まん』が出版され、それに横浜市立大生・奥浩平が共鳴し、学生運動に身を投じ、自殺し、そして出したのが『青春の墓標』。
それに共鳴し、学生運動に身を投じ、同じく自殺したのが立命館大生・高野悦子。
彼女の著作が『二十歳の原点』。
この本こそ、座右の書どころか棺桶に必ず入れてもらいたい、我が人生の書物である。

この系譜からいけば、私も学生運動に身を投じなければならないところだったが、私が大学に入った頃にはそんなものは消え失せていた。

P.S. 『やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる』はいつ返してくれてもよろしい。
昨年使った高野悦子に関するレジュメを進呈する。
                (1998.11.7 27歳)

タグ:三田誠広
posted by nobody at 01:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月23日

私と明智光秀【序論】

明智光秀に魅かれる。
傾倒している。
なぜ明智光秀なのか。
自分でも判然としない。
何とはなしに、魅かれるといった感じである。

広辞苑をひくと、こうある。

【明智光秀】安土時代の武将。通称、十兵衛。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任(これとう)日向守と称。ついで丹波亀山城主となり、毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。わずか一三日で豊臣秀吉に山崎に破られ、小栗栖(おぐるす)で農民に殺される。(一五二八?〜一五八二)

歴史の流れは、信長から秀吉へ。
光秀の歴史的役割とは、「本能寺」しかない。
以後、光秀の名前は、常に謀叛人の代名詞として用いられることになる。

「信長は、打っても、叩いても、よもや光秀が、謀反などする気遣いはないと、安心していた。」(徳富蘇峰『近世日本国民史 織田信長(三)』)

その光秀の謀叛。
信長は全く、意表をつかれた。
しかし、それでも信長の心境は、
「是非に及ばずと、上意候。」(太田牛一『改訂信長公記』桑田忠親校注)

「是非に及ばず」。
大仏次郎は、「かく成ったことよ」と訳している(大仏次郎『炎の柱織田信長』)。

信長は天命を知っていた。
日頃から
「死のうは一定(死はすでにさだまっていることだ)。」
という小唄を愛誦し、桶狭間の戦いを前にして
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。」
と謡い舞った信長である。

ヘーゲルに、ヴェルト・ガイスト(世界精神)という歴史哲学の概念がある。
世界史のうちに働いている超越的な精神、という意味である。
換言すれば神の遣わした歴史の創造者、ということである。
信長は間違いなくそれであった。
小室直樹は
「現代日本は信長に負う。そのすべてを。」
とまで言う(『信長の呪い』)。
極言すれば、本能寺の変は信長の本望であった。
それまでに彼は、彼に課せられた歴史的使命を全うしていたのだから。

それにしても、なぜ光秀は信長を襲ったのか。
古来言われているのは怨恨説と野望説、そして最近になってにわかに脚光を浴び出したのが「黒幕説」である。
私は、野望説8対黒幕説2を、その動機ととる。

黒幕と考えられるのは何人もいる。
毛利輝元、徳川家康、堺の商人衆、比叡山宗徒、足利義昭、豊臣秀吉、等々。

秀吉は、にわか歴史ファンにはちょっと信じ難い。
あらゆる物語で、秀吉は信長の忠実なる下僕として描かれている。
しかし、彼もやはり怪しいのである。
果たして秀吉の、信長への忠誠心は絶対的だったのか。
だとしたら、
「ほんとうに織田家のためを思い、いのちを賭けて戦った、たった一人の信長の家臣」(桑田忠親『戦国武将名言集』)柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いはどう説明されるのか。

しかし、最も怪しいのは朝廷・公家衆、就中正親町天皇である。
彼が、吉田兼見、里村紹巴・昌叱をスパイとして操り、光秀を煽動した。
頼みとした細川藤孝・忠興父子や筒井順慶らにことごとく裏切られた光秀だったが、彼もまた己の天命を知っていたのだ。

                   (1993年3月、21歳)
タグ:明智光秀
posted by nobody at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月11日

題名に偽りなし 〜長谷川幸洋『日本国の正体』〜

『けものみち』にも『独断 これが日本だ』にも騙されてきた。
現代日本の権力構造を具体的に知ろうとしても、これまでの権力構造解明本は読者の前提知識の設定レベルを誤っていて、筆者は自明のこととして論を進めていくのだが読み手の方は専門用語のイメージが掴めないのでウヤムヤのままに残されていった。

いや、本当のことを言うと筆者も本当には解っていないのだ。
だから具体的に解りやすく書けるはずもない。
試みに手近の『朝日キーワード』でも何でもいいから「総会屋」の説明を読んで見るといい。
根底から理解できるか。
「利権」という言葉の内実を詳細に説明しているか。

以前歴史書でこんな経験をした。
信長と光秀のことを知ろうとして100冊くらいの本を読んだのだが、例えば松永久秀の死の様子を具体的に知ろうとしても、どの本も同じようにしか書いてないのだ。
つまりコピペ、孫引きだらけなのである。
知らないから書けない。

その点本書は、例えば「ばらまき」を「国民の特定層や特定業界に恩恵を与える財政支出」ときっちり定義してくれる。
権力構造の解明が読者を置いてけぼりにせず書いてあるので、もっと知りたいという知識欲に引っ張られてグイグイ読み進んでしまう。

日本の真の支配者は、官僚である。
官僚がご主人様で、政治家はポチである。
事務担当官房副長官と3人の官房副長官補が、日本の権力機構を牛耳っている霞が関の番頭である。

2009年、公務員制度改革では漆間巌官房副長官の水面下工作が奏功し、漆間が内閣人事局長のポストを奪取した。
政策金融改革では経済危機対応を大義名分に日本政策投資銀行と商工組合中央金庫の完全民営化を見直す法案が提出された。
かくして小泉政権以来の改革路線は同年3月に至って全面的に敗北したのである。

的場順三官房副長官(当時)は渡辺喜美行革相(当時)を、
「公務員制度改革をこれ以上やったら倒閣運動が起きるかもしれませんよ」
と脅した。
その前日の事務次官等会議で漆間巌警察庁長官(後の官房副長官)は天下り斡旋全面禁止案に対して
「こんな案とんでもない。現職の警察官に自分で職探しをやれというんですかっ」
と物凄い剣幕でまくし立てた。

さて事務次官等会議とは。 
定例閣議前日に開かれる法的根拠のない会議で、閣議にかけられる案件は同会議で承認されたものに限られる。
事務次官等会議にかけられる案件もまた、事前に官僚が密室で行う各省協議で調整済である。
したがって国会審議に全く意味はない。

議員会館では毎日のように何十人もの官僚が飛び回り、自分達が作った法案の議員への刷り込み工作を行っている。
党の部会や国会論議は、議員会館で打ち合わせた質疑応答をただそのまま繰り返すだけの三文芝居に過ぎない。

実質的な議論は各省協議で終了しているのである。
すなわち日本の行政の最高意思決定機関は閣議ではなく、法的根拠をもたない官僚同士の事務次官等会議なのである。

前期安倍政権時の法人税減税路線は、安倍の登用した本間正明税調会長の女性スキャンダル発覚により崩壊した。
これは官僚の謀略だった。
安倍は税調からの財務省の影響力排除を図っていた。
財務省幹部は、本間に長年同居している女性がいることを知った上で、公務員宿舎への入居を世話していたのだ。
事件後、主計局官僚は「あれは私達がやった」と語っている。

小沢一郎は政権就任後に各省庁の局長級以上の国家公務員を一旦退任させ、その後民主党政権に忠誠を誓う人間を政治任用する(アメリカはそうしている)計画を表明していた。
天下りの全廃も打ち上げていた。
霞が関は民主党政権誕生を絶対阻止しなければならなかった。
小沢の第一秘書が逮捕されたのはその直後である。

審議会の実態とは。
マスコミのお偉方は、審議会の委員に選ばれると箔がつくのでなりたくて仕方がない。
で、選ばれると当然官僚と癒着する。
例えば財務省主計局が牛耳る“審議会中の審議会”財政制度等審議会の会議では、あらかじめ主計官が委員を訪ねて質問や答弁内容について打ち合わせする。
会議には予行演習があり、主計官の答弁を練習する。
本番での質問は事前に適当な委員に振り分けられている。
質問も答弁も同じ主計官が書いている。
会議は進行表で時間が制限されており、主計官の説明が長引くためまともに討議できない。
政策や議論の方向性はあらかじめ決まっている。
委員の異論で政策が変更することはあり得ない。
官僚にとって審議会は、有識者の意見も伺ったというアリバイ工作をして、実行する政策の権威付け・正当化を図る場でしかない。

法務次官・警察庁長官・警視総監・事務担当官房副長官の4者の集う水曜会という会議があり、そこでは治安問題の情報交換が行われる。
ここで霞が関官僚のトップ、守護神である官房副長官の元には逮捕情報等の要人に関する重要案件が入ってくる。
それで漆間は小沢一郎秘書逮捕の際「自民党側には波及しない」と言えたのである。

学者やエコノミストは財務省に気に入られないと日銀審議委員や政府関係機関の役職に推薦され天上がりできないし、財政審などの審議会メンバーになれないので、財務省の誘導しようとする方向に追従する。
マスコミ記者は嫌われたら取材がしにくくなり己のキャリアを危うくするから官僚に逆らえない。

官僚が予算要求において真っ先に考えるのは、所管する独立行政法人に仕事を回す大義名分である。
仕事を回せばカネが回せる。
その後に形上の政策をくっつける。
真の狙いは領土を拡大し天下りポストを安泰にすることである。
そこには国民の生活のための政策立案といった観念が顔を出す余地は全くない。

各省庁は予算を受け取り、その相当部分を自分の所轄する独立行政法人や公益法人に回し、さらにそこから子会社的なファミリー企業へ仕事を発注する。
カネは天下りしたOBや任期付き研究員の人件費に消える。
財務省はこの常態化したカネの流れを一切公表することはなく、実態は厚いベールに包まれたままである。
解明しようとすると石井紘基議員のように殺されることになる。
国民の血税を、分からないように好きに使っていいのである。

07年度現在、独立行政法人や公益法人など約4500の法人に、約25000人の霞が関官僚が常務理事などの形で天下りしており、その天下り先には12.1兆円が補助金や助成金などとして国庫から支出されている。

官僚は新産業の業界団体を作り、財団法人や社団法人化を目指し、OBを専務理事で迎えるように促す。
これで天下りポスト一丁上がりである。
これが専務理事政策である。
次に基準認証制度を作って規格試験を実施し、試験料を徴収する。
これが専務理事の人件費に化ける。
舞台回しをした官僚には局長間違いなしの出世が約束される。
新産業の創出(成長戦略)は日本経済・国民生活の安泰のためではなく、官僚の利権作りのために必要なのである。

官僚の行動原理は天下りの開拓、既得権益の拡大、増税である。
官僚は係長頃になると、自分が天下りの恩恵に預かるには先輩の天下りポストを開拓せねばならないことを、先輩から聞かされて知る。
天下りポストは退官時の役所のポストに準ずるから、昇進する必要がある。
昇進の判断基準は、どれだけ先輩の天下りポストを開拓できたかである。
これが官僚が天下りを必然とするシステムである。

財務省の究極目標は増税である。
税収が増えればその分配も増え権力基盤が増していくことになる。
それを使って天下りポストも増やせる。
減税は金の使い手が国でなく国民自身であるため、財務省の権力に何のプラスにもならないのでさせない。
赤字国債は増えれば増えるほどむしろ良い。
その解決策として増税を強く打ち出せるからである。

マスコミ操縦術。
官僚は大きく取り上げてほしい(世論誘導したい)情報があると、まず書いてもらう新聞を選ぶ。
次に「○○記者だったらこっちの言う通りに書いてくれますよ」と記者を選ぶ。
そして携帯電話で呼び出し、紙(政策ペーパー)を渡して説明し「よろしく」と頼めばおしまいである。
こうして官僚御用達の記者ができあがる。

私は以前、衆院選に際して民主党のマニフェストを完読したのだが、その中に小さく一項目としてある「天下り全廃」、これだけでももし実現したら革命であると書いた。
それはその通りだったことが本書を読んで分かった。
天下りこそ官僚のレーゾンデートル、できるはずがないのだ。

全ての政治家は官僚に振り付けられる。
つまり全ての政治家はヘタレである。
西郷隆盛のような鉄の志をもった義士は、今いないのである。
田中角栄を最後として。

谷垣禎一と与謝野馨は財務省の走狗・下僕・代弁者であった。
そしてその谷垣を唯一信頼に足る自民党政治家と推していたのが、週刊現代だった。

小泉以降の政策課題、すなわち郵政民営化、政策金融改革、財政再建、地方分権・道州制、公務員制度改革は、その底で真の争点である「霞が関改革」に収斂していた。
新聞はその視点を示さずバラバラに伝え、なおかつ官僚の骨抜き工作も伝えず、それどころか「官僚バッシングは意味がない」と改革派を矮小化した。
これぞマスゴミの振る舞いだった。

今後の課題は、官僚支配の打破を標榜していた民主党政治家が政権掌握後に官僚に手もなく籠絡されていった過程の分析である。
洗脳か、弱みを握って(作って)の脅しか。
まあ後者のような大それたことを徹底する胆力を官僚は持ち合わせていないだろうから脅しは従だろう。
民主党政権の崩壊過程は、渡辺喜美『いつまで官僚の「日本破壊」を許すのか』で解明されるだろう。

結局のところ官僚が姑息な策を様々に弄することに成功するのは、屁理屈で煙に巻いて騙す能力に長けているからである。
受験ロボット教育での偏差値学力を、そこで活かすのである。
民衆が騙されてしまうのは、結局のところ己の頭で考える論理力がなく、官僚の言うことを鵜呑みにし思考停止してしまうからである。

それにしても官僚の天下り論で腑に落ちないのは、なぜ官僚のみが己の退官後の再就職先に汲々としないといけないのかだ。
官僚→定年退職、それだけで終わっていいではないか。
民間だとそれだけだろう。
しかも官僚は民間の2倍近く高い給与と退職金を得ているのだろう。
この点を明確に解説したものを未だに見ない。

あと疑問に残るのは、あれほどワンフレーズ繰り返し断言で世論を誘導するのに長けた小泉が、なぜ「霞が関をぶっ壊す!」とは言わなかったのか。
小泉は官僚と闘っているのだ。
テレビでもコメンテーターは、本書のような明快な官僚批判は「規制」されていてできないのか。
官僚悪の事象紹介は「TVタックル」などで稀にやるが、本書のような本を読まないと、官僚の薄汚い実態を体系として知ることはできない。

書籍でしか真実がバレないのならば、官僚的にはオールOKである。
本を読んで思考を鍛えるほど国民の知的レベルは高くないと安心しているからである。
書籍は世論に影響しない。
それであればこそ、「言論の自由」を与えてやっている。
また「小難しい本」を読めないようにするために、テレビを普及させた。

最後に残る疑問は、なぜ官僚だけがこのような騙しのノウハウを確立できたのかである。
それを結びで筆者は「日本社会の縮図論」で説明している。
官僚だけではなく、日本社会そのものに瀰漫する普遍的なやり口だというのである。
そうだとすると確かに謎は解けるが、同時にシラケてしまう。

まあしかしもし本書の内容を国民の共通認識にすることができたら、官僚を打ちのめすことはできるはずである。

タグ:長谷川幸洋
posted by nobody at 00:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

滅びという武士の必然 〜司馬遼太郎『峠』〜

現今の自分の境遇と重ね合わせることは、一切やめる。

継之助は己の性欲が強いことを自覚していた。
吉原での小稲、京での織部との逢瀬。
旅に出れば旅籠で女を買う。
松陰とは正逆である。
松陰の禁欲を思うと、嫉妬も湧き素直に感情移入できない。

何か反発のような感覚を抱きながら、河井継之助の生き様を辿っていった。
反発というのは、なぜ継之助は力があるのか、なぜ人は彼に従うのかということだった。

最後には彼は長岡藩7万4000石の筆頭家老になり、戦争が始まると総督になり、「諸藩連合会議(長岡・会津・米沢・村松・上山(かみのやま)・村上の6藩+旧幕軍)の座長」にまで成り上がる。
文字通りのトップであり、それなら文句はない。
問題はそれ以前だ。

客観的な権威の裏付けがないのになぜ権力があるのか。
その秘訣は威圧と屁理屈のような論理にあるように思う。

前者に関しては
「気ニヨリ圧スノミ」といった記述があったし、後者については横浜への対露警備行軍を途中で放擲しての遊郭行きにおける言い訳
(その分藩の経費を救った、警備に就けば逆にロシアに侮られた等)
が好例だろう。

解説で亀井俊介という米文学者が言っていた通り、継之助の人物像は
「矛盾するところがあって捉えにくい」
というのが客観的なところなのだろう
(亀井氏は「解説」中で本編への批判臭いことを書いていたが、初めてのケースだ)。

例えば
「福沢(諭吉)は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。
情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてもっとも大事なものとしている」(中P.426〜427、カッコ内引用者)
とあるかと思えば、
「継之助は、にがりきっていた。
ーー一同、それぞれの藩の宰相、もしくはそれに準ずるものではないか。
とおもうのである。
一藩を宰領してゆくのは涙ではない、乾ききった理性であるべきだと継之助はおもっていた」(中P.560〜561)
とあったりする。

しかるに司馬は継之助を
「すべてにおいて原理原則を貫かないと気が済まない」
男と道破しており、その通りなら矛盾など生じようはずもないのだが。

原理を追求する継之助は威圧と屁理屈により
(その緩衝剤として「おみしゃん」「〜してくりゃえ」というかわいらしい話し方をする)
局面を打開し、その結果として成り上がっていった。
だがそれはなんとかかわしてきた、悪くいうと糊塗してきたのだ。
本質的な方法ではない。
いつか行き詰まる時がくる。

それが彼の運命を決した小千谷談判であった。
不運はある。
相手の官軍軍監が岩村高俊という弱冠24歳の小物だったこと。
もし官軍総指揮官黒田了介(清隆)か山県狂介(有朋)であれば談判は成功していたかもしれない
(後に松門の品川弥二郎は「なぜ黒田了介か山県狂介が出て直接河井に会わなかったか」と悔やんだ)。
それは継之助の人物を知っていたから。
しかし裏を返せば、継之助の威圧と屁理屈という虚飾を剥ぎ取ってむき出しのままで本質的に対峙した場合、継之助のやりようは通用しないということの証明なのだ。

ここで初めて、継之助のやり方は挫折した。
それは見ていて痛々しいほどだった。
何度断られても断られても、何度も何度も嘆願書を官軍総督の公卿に取次いでほしいと頼み続ける。
ついにそれは叶うことなくここから継之助が去ることにより北越戦争の幕は切って落とされることになる。
後に新政府部内で一致した反省がもたれたのは、継之助を去らせたのは官軍の大きな失敗だったということであった。

北越戦争。
それは維新の内乱中最も激烈な戦争と呼ばれた。
西郷吉之助(隆盛)は喝破した。
「奥州の敵は、土佐の板垣退助にまかせる。
北越こそ、戊辰の関ヶ原である」。
この戦争では松陰門下の時山直八が戦死している。

継之助の心はこうだった。
「しかしながら智謀などはたかが知れたものだ。
智力のかぎりをつくし、あとは天をも震わせるような誠意をもって運命を待つしか仕方がない」(下P.257)。
「人間、成敗(成功不成功)の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない。
『美ヲ済(な)ス』それが人間が神に迫り得る道である、と継之助はおもっている」(下P.301)。

継之助は左肩、続いて左膝下に被弾し、それが元で命を落とす。
最も印象深く残ったのはその結びのシーンである。

「松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。
薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
『松蔵、火を熾(さか)んにせよ』
と、継之助は一度だけ、声をもらした。
そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
八月十六日午後八時、死去」(下P.431)

総括は次の文になろう。
「長岡という小藩にうまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を生んだことは不幸であった」(下P.347)。

司馬はあとがきで
「私はこの『峠』において、侍とはなにかということを考えてみたかった。
それを考えることが目的で書いた」
という。
武士というもののある意味究極まで洗練された比類のない美の人間型。
しかしその行き着く果てが藩もろともの破滅であったというのなら、それが武士の必然的帰結というのだろうか。



タグ:司馬遼太郎
posted by nobody at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月24日

感受性に賭けるしかない 〜Think the Earth プロジェクト『百年の愚行』〜

もう、地球環境問題も賞味期限が切れかかってきた頃だ。
もちろん、問題は消えたわけではない。
さらに悪化している。
我々が飽きただけだ。
今でも毎年地球上からは北海道+四国+九州分の面積の熱帯林が消え続けている。
マダガスカル島ではかつて国土の8割あった森林が、今では2割となった。

色んな揶揄はあるだろう。
「光と陰の陰だけだ」
「もっと他にもあるだろう」

私にはこの100枚の写真の選択は、なかなか味があるように思えた。

アメリカのワシントン州では低レベル核廃棄物を詰めたドラム缶が無造作に土砂に打ち捨てられている。
1961年アメリカペンシルヴァニア州セントラリア付近の炭鉱で起こった地下火災は現在でも燃え続けている。

1935年頃アフリカで捕まえられ両手を広げて上に縛り上げられたゴリラの瞳は何を見つめているのか。

サンフランシスコの道路料金所は15レーンもあり、全て上から下まで渋滞。

ニューメキシコ州アラモゴルドで人類史上初めて核爆発する時、大気が爆発して地球が破滅する可能性があった。
科学者達はその確率を「100万分の3以下」と算出し、実験に踏み切った。

1984年インド・ボパールで起こった化学工場爆発事故。
最終的な死者数は16000人。
土から顔だけをのぞかせた乳幼児の瞳は、茶色く濁っている。

チェルノブイリで被曝した赤ちゃんの頭が、後ろに細く長く伸びている。
なんだかよく分からない。

1988年アフガンのジャララバードで弾帯を巻いて大の字になって水面に浮いている顔を潰された兵士は、子供なのではないか。

1989年アフガンのカブールの病院でベッドに横たわる地雷により両足を失った少女。
写真は一瞬だが、彼女はこのままこれからの人生を生きていかねばならないのだ。

20世紀に起こった戦争は1億以上の地雷を残し、年間10万個撤去されているが、このペースだと全て除去しきるのにあと1000年かかる。
撤去は手作業のため、年間60人が作業中に死傷している。
撒布の方はハイテク化が進み1分間に1000個撒けるようになった。

白人用と黒人用と分けられた洗面台(1950年アメリカ・ノースカロライナ州)。
アパルトヘイト反対集会に集まった黒人に発砲する白人警官
(76人死亡。1960年南アフリカ・シャープヴィル)。

ルーマニアでHIVの混入した血液を輸血され、HIV感染した4308人の幼児とエイズ発症した5179人の子供。
そのほとんどが孤児である(チャウシェスクが中絶を禁止したため)。

セントルイス号の俯く2人の少女(1939年ベルギー・アントワープ)
後に乗客(907人)のほとんどは収容所に送られた。
まことに写真でしか伝えられないのは表情である。

砂の上に顔を横に向けて横たわり、「死にかけている」ルワンダ難民の子供(1994年旧ザイール・ゴマ)。
ゴミの山の上で座って泣く子供(1996年フィリピン・ルパング・パンガコ)。

99枚目の写真には「死を待つ人々の家」が出てくる。
そう、マザー・テレサ。
救済の象徴、マザー・テレサ。
目の前の1人を救ったとしても、全体から見れば微々たるものでしかない。
しかし1人の人間にできることは目の前の1人を救うことだ。
私がボランティアというものに抱き続ける割りきれないもの。

この100枚の写真を見ると、社会とは何か、政治の目的とは何かという原初が浮かび上がる。
せめて政治家だけでも見てほしい。

全ての人々がこの本を読めば、確実に何かは変わるはずだ。
まだ人々にはこれらの写真から何事かを受けとる感受性が、残されているはずだ。

posted by nobody at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月23日

厚顔無恥な矛盾の書 〜林秀彦『日本人はこうして奴隷になった』〜

徹底的に現代日本を批判し、ついには読者に喧嘩を売る。
救いもない。もうダメだという結論である。
反論する者はいないだろう。
もう“手がつけられない”レベルだと判断して。

「日本人は奴隷である」を初めとする前半の所論は、私と軌を一にするところだった。
それで引き込まれたわけだ。

だが全体は破綻している。
「次に私が一見詩のような短い文節の文章でこの本を締めくくるのは、決して詩作を試みたのではなく、君たちを信じずバカにしている現われだと知っていただきたい」(P.335〜336)
「人間を信じる以外に人間に道はない。
当たり前の話だ」(P.345)
これだけで充分だろう。

「日本人に生まれたことは、呪われたのと同じことだ」(P.330)。
で、
「人類が滅びつつあるとき、日本民族がいかにすばらしかったか、
われわれしか人類を救えなかったのだ」(P.343)
とくる。

様々な哲学書からの引用があり、筆者が博覧強記なのは分かるし、それらの部分部分はためになる。
所詮そういうものしか本に求めてはいけない時代なのだろう。

あくまで己の思想を完成させる材料として読むべきだ。
頭の中で己の世界観の点と点が結び付いていく実感は得られた。

これほどボロカスにけなし「生きていけない」とする日本社会に、筆者はどうやって生きていっているのかと思わざるを得ないが、宜なるかな、筆者はバブルの頃日本を捨てて、18年間オーストラリアで暮らしてきた。
そして死を迎えるために日本に戻ってきたのである。

一体どんな立場からの批判なのか。
筆者は高名な脚本家らしく、加えて哲学の素養がある。
語学も堪能らしく、語源からの解説が多い。

だがとりあえず脚本家の現代社会論としては、随想的な中身を期待するものだ。
それは具体的でもある。
高齢者免許講習の話や入院時の尊大な院長の話、また定住先の大分での演劇指導の話などがそれにあたるのだが、そうしたお望みの場面は少なく、なんだか落ち着かないページが結構な分量続くのだ。
それが語源知識を披瀝しながらの哲学チックな、大学入試の現代文素材に近い部分なのだが、例えば免許講習の話と病院の話に「尊厳」ということの哲学的・言語学的な説明を絡めて延々とやるのだが、要するに
「高齢者免許講習と入院の際、私は人間の尊厳を踏みにじられた」
と言いたいのだろう?  という印象しか残らない。

「ドラマのラッパ」「人間尊厳のラッパ」の章ではこうしたタイクツな文章が続く。
「ドラマのラッパ」の章では筆者の本分の演劇論に力が入る。
演劇とは最高の芸術であり、演劇こそ人間そのものなのだそうである。

かつて矢口高雄の漫画で演劇を崇高に愛する先生が出てきた時に抱いた演劇への違和感は、しかし消えることはなかった。

変なもので評論にも流行り廃りがあり、ひところの「西洋礼賛、日本は遅れている」論の流行から環境問題の生起等を経て「いや日本の良さがありそれが世界を救うのだ」論へと移り変わったが、その伝でいくと筆者の主張は前者である。
でもそれなら西洋(その中心は人間学だが)はそんなに素晴らしくうまくいっているのか?  とツッコミを入れたくなる。
その伝で、
「日本語は非論理的」で
「日本人には創造力がなく模倣しかできない」、となる。
いずれも流行りの文明論では否定されていることである。
それはやっぱりそうなのか?

「インチキゲンチャー」や「限界の根底」という筆者独自のキーワードが出てくるが、「限界の根底」という言葉遣いはどうもピンとこない。

誰にも文章のクセというのはあるのだろう。
筆者の場合は「体言、」の用法が独特で読みにくい。

確かに哲学の素養は高いのだろう。
だが筆者はイルミナティの陰謀を信じている。
もしそれがと学会の言う通りトンデモ論だとしたら、高度な学識が途端に虚しくなってしまう。

個人的には「遺伝計量学」に関する記述が一番ショックだった。
バカの子はバカという……。




タグ:林秀彦
posted by nobody at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月19日

青春時代の恋愛こそ人生至上のものである for「踊子」 〜浅田次郎『見知らぬ妻へ』〜

◆「踊子」
珠玉である。
誰しも1編だけだったらこうした物語を人生にもっている。
触発されて私も書いてみたくなった。
先にやられた感もある。

「死ぬまで損なわれず、傷つきもしない宝石のような記憶を、ナオミは僕の胸にそっと置き、そしてたぶん僕も、ナオミの白い腕にそれを托したと思うから」(P.41)

村上春樹『風の歌を聴け』の最も好きな一節を彷彿とさせる。
青春時代の恋愛はまさに一生の宝であり、換言すればそれこそが人生の目的なのだ。

「忘れない」という言葉も重要だ。
お互いがお互いを「忘れない」と言い合っている。

ひと夏の恋愛だった。
ナオミは同棲している大学生の子を孕んでしまい、産む決意をして中央本線で帰っていくのだ
(コーはその大学生を袋叩きにし、ナオミと別れさせるのだが)。

幕開けのシーン、出会いのロング・キスシーン、そして別れのシーン……。
実に素晴らしい。

性的な描写はあるが、主人公コーとナオミは情交していない。
代わりにコーから譲られる形で親友のマモルがナオミを抱く。
といってもコーは18歳の高校生ながらセフレが3人いる。
なおかつ回想している30年後の現在は医者になり社会的成功も収めているとくれば、セフレなど絶無で社会的地位もない私は嫉妬せざるを得ない。

朝まで踊れる螺旋階段の店にいる時少年課の一斉補導が入り、外に出て逃げ出そうとするコーにいきなりナオミがキスをして恋人のふりをすることによって助けたのが2人の出会い(=恋の始まり)なのだが、ファインプレー賞はそのラブ・シーンをしばらく観賞して
「たいがいにしろよ」
と見逃した刑事かもしれない。

青春時代の火の出るような熱い恋愛が、人生には必要なのだ。

◆「スターダスト・レヴュー」
スターダストというサパー・クラブで主人公圭二がピザソースを作るシーンなんか特に、『テロリストのパラソル』を彷彿とさせる。

10年前にチェロを捨てた圭二
(今はスターダストでピアノの弾き語りをしている)
が凱旋記念コンサートで今や世界的指揮者となった関東交響楽団音楽監督小谷直樹と再会し、オーディションとして10年ぶりにチェロを弾くシーンはよかった。
演奏イコール節子を回想するシーンなのである。

ただ、圭二の別れた恋人節子が小谷の妹だというのが判りにくい。
圭二と別れた後小谷と結婚したのかと誤解していた。
では圭二が小谷に感じた「暗い嫉妬」(P.75)とは何なのか。

普通物語の設定としては、圭二のチェロの腕前は極上でなくては収まらぬはずだが、圭二がオーケストラをドロップ・アウトした理由(節子と別れた理由)は指揮者からヴァルガー(下品)と言われたからだし周囲も同調している様子だった。
またオーディションの結果も小谷に 
「暗い音」「何のために、こんなことをした」
と言わしめるものだった。
ならば小谷はなぜそんなに圭二の腕前を買いかぶっていたのか。

圭二の節子への愛も、
「夢に見ぬ日は、一日もなかった。
君はどうか知らないが、僕は十年の間ずっと、君を愛し続けてきたよ」(P.76)
と言うが、
「本当のことを言うと、君と恋をして結婚すれば、僕の未来は拓けると思っていた。
つまり君に恋するより先に、僕は君の家に恋をしていた」(P.77)
「あなたが好きですと言ったのは君の方だった。
正直のところ、僕はあのとき感激するより先に、しめたと思った」(P.78)
とあるので感情移入できない。

さらに言うと
「高校生のころからずっと、僕らみんなのマドンナだった」(P.76)
節子がなぜ「内気で変わり者」(P.76)で「まわりに敵も多い」(同)圭二に惹かれたのかの描写も弱い。

圭二が後半でエリ
(十代の家出娘の頃知り合った。赤坂の夜をくらげのように漂っている。最後は圭二のアパートに居候することになる)
を抱いた後
「けさのエリは妙に自分と似合った。
エリが変わったのだろうか。
いや、そうではあるまい」(P.74)
との描写があるが、これが
「勝手ばかり言ってすまないけど、君を愛することは、もうやめる。
赤坂も、それほど悪い町ではないから──」
との決意につながっているのだろうが、結局節子を諦めるのは本心なのかどうかがはっきりしない。
本心ならもっと強い現在の生活(赤坂)への思い入れの描写があってしかるべきだ。

結びも、
「『ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン』
牛刀を握って俎板に掌を置いたとき、さて右にしようか左にしようかと、圭二は少し迷った」(P.82)
となっているが、「右にしようか左にしようか」の意味が解らない。
あえて謎を含ませているのか。
まさか掌を切ろうとしているのではあるまいが。

◆「かくれんぼ」
『20世紀少年』のような趣がする。
題は「もう、いいよー!」の方がよかったのではあるまいか。

結局ジョージが行方不明になった真相は明かされぬままである
(英夫の推理するように恨み重なる
(ジョージはパンパンのあいのこだから差別された)
町への復讐としての狂言という蓋然性が高いが
(と書いたら「大がかりな狂言よりも、そう(失踪だと)考える方がやはり自然だろう」(P.112)とある)、
そうするとジョージの母親の立ち去る時の「恨みがましい目つき」(P.110)の説明がつかない)。

刑事が聞き込みに来た時英夫は
「一緒に遊んだけれども、夕方かえで山で別れた」(P.110)
と答えたが、
「口裏を合わせたわけではなかったが、由美子も同じ答えをした」(同)。
偶然としてはできすぎであろう。

英夫と由美子との「乾いた結婚生活」(P.113)
(由美子は結婚前に武志と付き合っており、英夫との結婚は腐れ縁の尻拭い(これもよく考えると分からないことだが)だという考え方)
はこの少年時代のトラウマとつながりがあるという設定なのだが、由美子がその事件の起きた日である8月9日に英夫に一緒にかえで山へ行ってと頼む理由が
「私、あなたのこと好きだから。
信一や紀子のおとうさんっていうだけじゃなくてね、あなたのこと愛していたいから」(P.116)
となると、ムリヤリ感が出てくる
(ちなみに結びの一文は
「汗ばんだ頬が肩にもたれかかったとき、英夫は妻を愛していると思った」(P.122)
で、整合性は見事にとれている)。

それにしても登場人物が簡単に社会的成功を収めている奴ばっかり(子供もエリート校生)で妬んでしまう。

◆「うたかた」
なかなかの良品である。
房子は幸せの象徴である団地から離れたくなかった。
そこは房子の人生そのもので、それを失うことは考えられなかった
(団地は取り壊されることになっていた)。


世俗的には房子は人生の成功者のはずだった。
ただ、10年前に夫を亡くした。
子供は2人とも成績優秀で、息子は一流商社のニューヨーク支店長となり新聞記者になった娘はフランス人と結婚してパリ在住となって、外国へ出ていったのだった。
もし国内だったら……。
もちろん2人とも、母に一緒に暮らすように促してはいた。

ところで現場検証している刑事のうち上司の方は
「倅はおまわり。娘は売れ残っている」(P.127)
という家庭状況で、部下に
「最悪の環境ですねえ」(P.128)
と言われてしまっている。
しかしこれは最高というアイロニーなのではないか。

団地にはほぼ同時に同年代の家族が大挙入居し、子供達はやがて成長して独立し、そして房子以外の老親達は子供の元へと引っ越していった。

房子と他の住人達との違いは何だったのだろうか。
房子には餓死以外の道はなかったのだろうか。
房子は社会的成功を収めては、幸せな人生を築いてはならなかったのだろうか。

◆「迷惑な死体」 
一気に読ませてしまう。
コミカル風味である。
加藤良次(24歳。駆け出しのヤクザ(3年目))が部屋に帰ると見知らぬ男の死体が横たわっていた。

どうするのか(ヤクザだから素直に警察に届けるわけにもいかない)。
この男は誰なのか。
誰がこの男を殺したのか。
この場を誰かに見られたら、犯人扱いは免れないだろう。
ドキドキハラハラとなる。

男は巨大組織「関西」が同「極竜会」に全面戦争を仕掛けるために送り込んだ殺され役の鉄砲玉・村野だった。
死体の始末を命じられたのは極竜の末端のチンピラ、清水(駅前でトルエンの密売をしている)。
良次は一晩だけ清水にアパートの部屋を貸したことがあり、その時清水は鍵をコピーしていたのだ。
で、始末に困って良次の部屋に、という次第。

ただ、話をコミカルに終わらせるために、清水が死体を良次の部屋に置いたのは一時的、ということになった。
最後に清水はワゴン車で死体を引き取りに来るのである。
そこのところがリアリティ面から見るとなんだかなあ、となる。

良次には幼なじみの恋人澄子がいる。
掛け値なしに一途に良次を愛している。
元はエリートの彼氏がいた。

初めてパクられた時身柄引き受け人として来てくれたのだが、
「でも俺──その晩あいつにひでえことをした。
俺のこと惚れてるんだって思ったから。
そんなはずねえよな。
俺、あいつにひでえことしちまった」(P.168)。

ちょっと待て。
時系列が混乱する。
つまり「あいつの部屋で日記のぞい」(P.167)て彼氏の存在に気付いたのは「ひでえこと」
(明示されていない。無理矢理体を奪ったということか)
をした後、ということか
(日記のくだりが先に書いてあるのだが)。

澄子は働きながら夜間の大学を出て一流企業のOLとなった。
苦労して身を立て、そしてエリートの彼氏を得た。
その絵に描いたような幸せコースをだらしない自分に振り向かせることによって壊してしまったのではないかと、良次は自責の念に駆られているのだ。

だから結びで、母に
「『おふくろは、おやじが飲んだくれだから一緒になったんか』(略)
『だからさ、あんなおやじだったから、気の毒に思って嫁さ来たのか』」(P.174)
と尋ねているのだ。

それに対して母はこう答えた。
「『そうじゃないよ。あたすは、おとさんに惚れてた』(略)
『(略)女っていうのはね、おまえの考えるほどやさしくはないよ。
嫁こさ来て苦労ばっかすると思ったら、まっぴらごめんさ」(P.174)。

つまりおふくろは澄子であり、澄子の良次への愛が本物であることを示唆している。
再読で、初読時に気付かなかったことがこれほどクリアに浮かび上がったのは初めてのことだ。

◆「金の鎖」
ちょっと反則気味、の感。
奇を衒い過ぎたか。
中川千香子
(40代。美人。トップ・ファッションメーカーのエース・デザイナー)
は、かつての恋人桑野浩之に生き写しの彼の息子に出会う。

「浩之を今も愛している。
あれからいくつもの恋はしたけれど、これは恋ではないと自分に言い聞かせていた。
そしてひとつの恋が終わるたびに、やはり愛しているのは浩之だけなのだと思った」(P.180〜181)。

で、これが嘘なのだ。
「偽りだったけれど、過ちだったとは思わない。
自分にとっても、誰にとっても必要だった嘘は、罪ではあるまい」(P.202)。

彼女が本当に愛していたのは、渡辺
(会社を一緒に大きくしてきた古くからの同僚。部長)
だった。
ところが親友だった佐知子
(彼女もまた天才的なデザイナー)
がその渡辺と結婚した
(そして彼女は3年前に癌で急死した)。

「西陽に隈取られた佐知子の微笑が、眩しくてならなかった。
だから、ありもせぬ感情を、行きずりの男の記憶の上に塗り重ねた。
そうして渡辺に対する感情を、虚偽の壁の中に塗りこめてしまおうと思った」(P.193)。
そして
「初めての男を忘れられなくて、結婚もしないファッション・デザイナー」(P.185)
を装っていた。

だが渡辺は、千香子の嘘に半ば気付いていた。
「だが、俺は半信半疑だったよ。
(略)
ともかく、俺はあんまり信じちゃいなかった。
佐知子が言うには、そのヒロちゃんとのことがトラウマになっちまってて、真剣な恋愛ができないんだって。
言いわけだろ、それは」(P.187)。
「もしかしたらおまえは、いつもそうやって飽きた男を捨ててきたんじゃないのか。
悪女になりたくないから、初めての男を勝手な偶像にまつり上げて、心変わりを正当化してきたんじゃないのか」(P.189〜190)。

筆者としては渡辺の鋭さを描きたかったのだろう。
しかしあまりに完全な鋭さだと、別れの儀式
(佐知子に渡辺と付き合っている(結婚する)ことを告げられた後、千香子は「1時間だけ渡辺を貸して」もらい、自分の気持を整理する)
の時に千香子が
「サッちゃんのこと、幸せにしてあげてよ、ナベさん」(P.195)
と涙を流したのに対して
「おまえ、いいやつだな」(P.195)
と頭を撫でてしかやらなかった彼の鈍感さと齟齬をきたしてしまうので、「初めての男を勝手な偶像にまつり上げ」たところまでは見抜いたものの、その狙いまでは見通せなかった
(飽きた男を捨てる心変わりを正当化するため、と解釈した)
ということにしたのだろう。

だがそのあおりでP.189の
「私、ナベさんの気持が初めてわかったの」
以下のくだりが極めて分かりづらいことになってしまった。
渡辺が何に対してキレているのかが掴めない。

千香子が本当は浩之でなく渡辺が好きなのだということを読者に伝えるシーンで、
「朴訥で誠実な、いつも朝早くから夜遅くまでタグの付けかえをしたり、ラックを担いで階段を昇り降りしている、恋愛などとはおよそ無縁な感じのするに、恋をしていた」(P.193、太字引用者)
とあるがこれはいただけない。
婉曲表現主義の悪例だろう。
ここは絶対に、「男」でなく「渡辺」でないといけない。

ボス
(千香子らの会社の社長。20年で会社を100倍にした)
のはからいで、千香子は渡辺と結婚しそうな、本作中では珍しいハッピーエンドの予感を残してこの小編は結ばれる。

「金の鎖」とは、彼女が別れの儀式の後シャンゼリゼの小さな宝飾店で買った金のブレスレットだった。
それを腕に巻いて、彼女はこれは浩之が買ってくれたのだと
「奥歯をきつく噛みしめながら自分自身に呪いをかけた」(P.196)。

その「縛めを解」(P.206)き、その金の鎖は浩之の息子にやった。
千香子にとって浩之はあくまで
「どうでもいい行きずりの男」
でしかなかったが、物語の設定としてはやはり深く濃く愛し合った設定の方がよかったのではないか。

別れの儀式のシーンの出だし、
「その夜、トロカデロ広場のテラスから見たパリの夜景を、千香子は忘れない」(P.194)。
煌めく名文である。

◆「ファイナル・ラック」
競馬ものの、ファンタジー。
最後まで、通読する気を催さなかったがやっと通読してみてもまあ叙情詩みたいなものか。
筆者に傾倒している人なら満足して読むのだろう。

ビギナーズ・ラックをもたらしてくれた予想屋の老人がタイムスリップ?してきて野崎一郎
(ビル・メンテナンス会社の営業。四半世紀競馬に通いつめている)
にファイナル・ラック
(50万円×40倍=2000万円。団地からマンションに移るのだろう。伏線が張ってある)
をもたらす、というもの。
他に含みは何もない。

ただ、一郎が競馬をするのはこれで最後、という書き込みが弱く結びにしかないため、P.231の妻のセリフ
「何だかかわいそうな気がするけど、たったひとつの楽しみまで取り上げちゃうみたいで」
の意味がとりにくい。

友達の梶山
(出世していく銀行員。巨額の使い込みをする)
の自殺の意味のもたせ方も今一つ。

奥野健男が太宰の「帰去来」だったかを「書かずもがなの作品」と評していたが、そんな観がある。

◆「見知らぬ妻へ」
チラッと漫画で読んでいた。
題がうまい。
「妻を見知らないってどういうことだ?」
とそそられる。

ただ、今となっては「へ」が気になる。
手紙とか伝言といった要素は感じられない。

あらためて振り返ってみるとありきたりな話ではある。
ボッタクリバーのキャッチ(客引き)をしている花田章が、中国人ホステス
(客と泊まる、すなわち売春する。ヤクザ昭和会に管理されている。
「日本中の昭和会のシマをたらい回しにされて、体がぶっこわれるまでコキ使われる」(P.271)運命となる)
玲明
(レイメイ(リンミン)。27歳。「雇う側にとってかけがえのない女であることは一目瞭然」(P.255)な容姿)
と偽装結婚し、情を移していくというもの。
一般受けしたのはその舞台となる裏社会の淫靡さの紹介が受けたのだろう。

クライマックスシーンで玲明は走り去ろうとするバスの窓から、花田にもらったペンダントを投げ返す。
それを受けてこうある。
「玲明がペンダントを投げたのには、深い意味はないのだろう。
もしかしたら男がそれを取り返すために、後を追っていると思ったのかもしれない」(P.275〜276)。

ブチ壊しである。
何を言っているのだ。
玲明から花田への愛の証しだろうが!

それにしては確かに、なぜ玲明が初対面から花田に媚びたのかの書き込みが弱い。
花田でなくても誰であっても、偽装結婚をして自分を守ってくれる男だったら同じように媚びたのか。
そうだとすると確かに花田プロパーへの愛、とは言い難くなる。

離婚後唯一自分を慕い
「東京の高校へ行く」
と言ってきていた娘(中学生)との電話での会話は全編を伏流しているのだが、玲明との別れの後の会話が分かりづらい。

「〈おにいちゃんがね、絶対だめだって。おとうさんも喜ぶわけないって〉
(略)
〈(略)私ね、苗字かわっちゃうんだよ。あいつがそうしろって、そうしなきゃだめだって〉」(P.277)。

東京の高校へ行くことに対して、なのだろうが確証が弱く読んでいて不安になる。
兄が「おとうさんも喜ぶわけない」とする根拠も「?」である。
で、そのことと苗字がかわることはつながりがあるのか。

それまで花田にとっては、
「娘の意思を拒否するのは、神が祈りを拒むことと同じ」(P.249)
であり、
「娘からの電話が(略)命の絆のようにも思える」(P.239)
ほどのものだった。

それをきっぱりと遮断する。
玲明を失い、それなら娘をとるというのなら分かるが、これでは自暴自棄との違いが鮮明でない。

ともかく花田は全てを失ってしまった。
玲明を失ったことがどうして娘も断つという判断に結び付くのかの説得力が乏しい。

そして総じて玲明の内面描写が弱い。
これもまた婉曲表現主義の悪弊でなければよいのだが。

「接吻は不幸の味がした」(P.259)。
痺れるねえ。
ここは「キス」でも「口づけ」でもなく、「接吻」でなければならない。
                             (2013.12.27〜2014.1.1  42歳)


タグ:浅田次郎
posted by nobody at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。