2014年07月15日

暇潰しにもならぬ文章力のなさ 〜和久峻三『赤かぶ検事奮戦記23 嵯峨野光源氏の里殺人事件』〜

文章が読みやすい、というのが小説の重要な要素の1つではなかろうか。
あるいは肝腎のストーリー構成力と並ぶほどの。
だから村上春樹がNo.1なのだ。
ミステリーでは東野圭吾、宮部みゆきなのだ。
巷間過大に評価されている宮部みゆき人気の謎の答えが1つ解けた気がする。

例えば
「そこは、茶室風にしつらえられた部屋で、真ん中に大きな掘り炬燵があり、足を伸ばして座れるように座布団が配置されていた」(P.97)
という文がある。
なぜ座布団が配置されていると足を伸ばして座れるようになるのか、さっぱり分からない。
こんな文に出くわすと、読む気が失せる。
こなれぬ言葉の結び付きは無数に見られるし、読点は不必要に多い。

こうした違和感をもたらす様々なバリエーションに共通するよってきたる要因というのは、端的に言ってしまうと行数稼ぎに他ならないのである。
ああ、また冗長主義批判をしなくてはならなくなった。

思えば以前、私は松本清張『けものみち』を読んで、その満ち充ちる悪文を類型化して整理したことがある。
ひたすら労力の要った作業であった。
それと同じ気持に駆られているが、あらゆる意味でその余裕がないので、それはしない。

主立った3点だけあげると、
@中止法あるいは並列で異なることではなく同じことを繰り返したり、
A「すると、こういうことだね?〜」と言って話を再び繰り返してまとめたり、
B1度思いついたフレーズを“異口同音”に話させたりする。

@の例。
「そう言えば、夕顔の上品な身のこなしや、おっとりとした風情ある立ち居振る舞いなどから考えても、下町の女のそれではなかったことに源氏は気づきます」(P.114)。
「身のこなし」と「立ち居振る舞い」はどうちがうのか。

Bの例。
「現代の女性の心の中にも、夕顔のような可憐でやさしい気持ちと、その一方では、六条御息所のように好きな男を独り占めにしておきたいと願う妄執や、嫉妬に身を焼く“恋の鬼”が、じっと息をひそめながら同居しているんじゃないでしょうか」(P.42〜43)、
これは行天燎子
(諏訪警察署の警部補。行天珍男子(うずまろ)(同じく諏訪警察署の警察官)の妻)
のセリフ。
「それどころか、女心の中には、必ずと言っていいくらい、六条御息所が棲んでいるのではないでしょうかね。
つまり、愛する男を独り占めにしておきたいと願う、愛の妄執とでも言いますか、嫉妬に身を灼く恋の鬼が、人を愛する女の心の中に、いつも、息をひそめるようにして棲みついているのではないでしょうか……」(P.115)、
これは錦部哥夜子(六条御息所)のセリフである。
「妄執」なんて言葉を違う2人が偶然使うはずがなかろう。

一番の問題点は、なぜ当然最大の関心点に話の流れがズバッといかないのか、という点である。
これも行数稼ぎか。

殺された北本英一カメラマンの残したフィルムに、犯人の姿がバッチリ写っている
(そもそもなぜカメラマンに撮られるような所で殺したのか?)。
で、その犯人が明かされるのは5ページ後である。
それまでは他のコマの写真の話をしているのである。

石塚真津子
(石塚輝雄(光源氏。諏訪温泉の老舗旅館「石長」の7代目当主、社長)の妻。葵の上)
はトロッコ列車から錦部と山添増雄(錦部の従弟)に突き落とされたのではないかということになるのだが、それなら乗客が満員だったのだから目撃者がいるのではないかというごくまっとうな疑問には全く言及されることなく話が進んでいく。

『源氏物語』では六条御息所が夕顔と葵の上を呪い殺すので錦部が疑われる形で話が進んでいくのだが、では夕顔こと玉置静香(23歳。石塚の愛人)と北本カメラマンが殺された時のアリバイは? という話も一切出てこない。

長峰警部補(京都府警)と行天燎子と赤かぶ検事
(名前は柊(ひいらぎ)茂。長野地検松本支部勤務)
が錦部の家に行って話を聞く時も、さっさと追及を進めずに錦部に『源氏物語』の講釈を許し、夕顔が呪い殺される話が終わると次に葵の上が呪い殺されるくだりを話そうとし、赤かぶ検事もそれを止めるどころか要望するのだ。

読み手としては冗長部分・読みにくい部分を捨象し、ストーリーのみを再構築し直す必要を迫られる。
この程度の文章力でも作家になれるのだと解釈すれば希望をもたらしてくれる作品ともいえよう。
                                     (2014.1.21  42歳)



ラベル:和久峻三
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2014年07月12日

己を愛し、然る後に人を愛すべし。されば愛されん 〜瀬戸内寂聴『生きることば あなたへ』〜

「愛したとたん、苦しみがはじまるのが恋というものです」(P.6「まえがき」)。
なるほど、愛とは苦しみなり、か。

「孤独は人間の本性なのです」(P.8同)。
俺以外の人はそうは見えないが、そうなのか。

「逢った者は必ず別れます。
別れのつらさには、決して馴れるということがない。
いくどくり返しても、別れはつらく苦しい。
それでもわたしたちは、こりずに死ぬまで、人を愛さずにはいられない。
それが人間なのです」(P.11「一  わかれ」扉)。
唯一の例外は本物の恋愛だと思うのだがなあ。

「逢った人間は必ず別れなければなりません。
死なない人間がいないように、別れのない人間どうしの関係も
ありえないのです」(P。22同)。
会者定離。
無常……。

「人との出逢いのあとには、必ず想い出が残されます。
(略)
生きるとは、人に出逢い、やがて別れていくこと」(P.32同)。
サヨナラダケガ人生ダ……。

「生きている与えられた限られた時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います」(P.40同)。
死んでいく時は独りなのだから……。

「人間が好きで、だからこそ小説書きになったわたしにとっては、人との出逢いが、たといそのため、苦痛や悲哀を伴っていても、生きている何よりの証しとして嬉しく有難いことに思われます。
まことに、人はなつかしく、恋しく、哀しいものです」(P.42同)。
出会いこそ生きている証し、か。

「人は孤独だから互いに手をつなぎ、肌と肌であたためあおうとします。
心と心で語りあいたいと思い、相手をほしがるのです。
自分の孤独をわかってくれる相手がほしい。
そしてその孤独を分かちあってほしいのです」(P.57「二  さびしさ」)。
でも誰でもいいというわけじゃあない。

「自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない」(P.61同)。
俺は充分孤独だと感じているがなあ。

「自分はこんなにさびしいのだから、あの人もきっと人恋しいだろうと思いやった時に、相手に対して同情と共感が生まれ、理解が成り立ち、愛が生まれるのです」(P.64同)。
思いやりから、愛は生まれる。

「愛する人があって、自分が愛されている自覚が、生きることにはいちばん大切なうれしいことです」(P.75同)。
あまりにも当たり前過ぎることの再確認。

「孤独に甘えてはいけません。
孤独を飼い馴らし、孤独の本質を見きわめ、自己から他者の孤独へ想いをひろげるゆとりを手に入れないかぎり、孤独の淵から這い出ることはできないのです」(P.78同)。
おっと、ピリッときた。

「男の背のさびしさに気づき、それに惹かれてしまったら、女はもう、その男に捕らえられたといってもいいと思います」(P.81同)。
背中で語る、か。

「『時』はその人とともに生きつづけます。
肉親よりも、夫婦よりも、空気や太陽よりも、人は自分の時と永遠につきあわなければならないのです。
そして時をふり返るというのは、よほど幸福な時か、ほんとうに孤独に打ちひしがれた時であるようです」(P.85同)。
まさに今。
もちろん後者。

「恋愛が下手、恋人ができないという人は、相手の気持ちを察する想像力に欠けている人です」(P.116「三  くるしみ」)。
誰だ、えらそうに「現代人は想像力が欠けている」と言っていた奴は。

「女は恋人の上に理想の男の仮面をかぶせ、ほんとうの恋人と思いこんで身をやいていきます」(P.117同)。
なるほど、これが女性の恋か。

「み仏は、ただ向こうから何かを与えて下さるのではなくて、人間のなかに自分で立ち上がり、自分で考える力をよみがえらせて下さるのだと思います。
それにみ手をかして下さるのです」(P.145「四  いのり」)。
他力本願を誤解すべからず。

「死者の魂は、生き残された者がいかに、彼らのことを切に思い出すかによって輝きます。
死者を忘れないということは、自分の原点を忘れないということです」(P.156同)。
自分の原点は、吉田松陰だ。

「人を怨む心ほど辛いものはありません」(P.159同)。
愛の対極。

「神や仏は、人間の弱さのすべてを見とおして、すべてをゆるし、受け入れ、励まし、ときには叱ってくれるものなのです。
(略)
わたしたちが忘れていてもいつでも一方的にわたしたちを見守り、はらはらしながら、弱いまちがいの多いわたしたちの生を大過なきよう、幸せであるよう祈ってくれている力なのです」(P.166同)。
最も得心できる神仏論。
「はらはらしながら」というのがいい。

「自分をよくととのえたなら
自分こそ得がたい
主人になるだろう
(法句経一六〇)」(P.175同)。
己を客観視するというのは真理なのだなあ。

「幸福になるためには、人から愛されるのがいちばんの近道です。
そのためにはまず、自分が自分を愛さないといけません。
よくがんばっているなと、自分をほめる。
そして自分が幸せな気分になるのです。
自分が自分を愛して幸せになったら、そのあなたを見て、必ず人が近づいてきます。
するとその人も幸せになり、自分ももっと幸せになる。
幸せとは、循環なのです」(P.190「五  しあわせ」)。
つまり、頑張らないといけない。

「みんな自分の身に起きた不幸が、世界一のように思いこみたがります。
けれども世の中には不幸と同じくらいの幸福もばらまかれているのです」(P.201同)。
むむっ、よく見ると「世の中には」か。
「自分」じゃないの?

「自分以外に心にかかる人がいるということ、それが生きる喜びです」(P.202同)。
自分ではないわけか。

「大いに人を愛し、たとえそこで傷ついても、次にさらに愛は深まることになるでしょう。
恐れることはありません。
傷を恐れていては愛することはできないのです」(P.209同)。
ノブと同じこと言ってるなあ。

「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです」(P.214同)。
ん?  「才能に努力しつづける」?

「『己れを忘れ他を利するものは慈悲の極みなり(これを「妄己利他(もうこりた)という)』
自分の幸せだけを考えない。
自分の利益だけを考えるような生き方はしない。
自分の生きていることが人の幸せにつながるよう、自分を犠牲にして他の幸福のために奉仕する。
そういう生き方をしてこそ、わたしたちはほんとうに生きているという、生きる喜びにつながるのだと思います」(P.216同、カッコ内引用者)。
堤さんを思い出すなあ。

「どうせ何かの縁で引き受けてしまった以上、どの仕事も喜びをもって心から進んでやりこなすのです。
厭々することには情熱は湧きません。
情熱の湧かない仕事は成功するはずがありません。
仕事をはじめるとき、必ずこれはできる、うまく予想以上にできると自分に暗示をかけます。
必ず成功するのだから嬉しいはずだと自分にいいきかせます。
すると、やりたい気持ちが盛り上がってきて、肉体も精神もいきいきしてきます」(P.217同)。
仕事の方法。

「昔のこと、済んだこと、いやなことは忘れて、かわりにいいことはいつまでも覚えているようにしましょう。
(略)
腹の立つことは毎日毎日いっぱいあります。
いっぱいあるけれどそれにこだわっていたら、ただでさえ悪い器量が、ますます悪くなります。
だからそういういやなことは忘れようと決めたのです。
それからは気持ちがとても楽になったのです」(P.218同)。
長生きの秘訣。

「愛というのは、人を喜ばせること、人のために尽くすことです。
それには気持ちの先まわりをすること。
相手がいま、何を欲しがっているかを見抜き、そのことをしてあげる。
いやがることはしない。
愛とは、想像力です」(P.219同)。
では“自己愛”とはなんだ?

「自分のなかで表現されたがっている命のうめき声を聴く能力を持たなければ、わたしたちはものを創るきっかけがつかめません。
そのうめき声を聴きとる耳と心を持つには、努力して自分を磨いていかなければならないのです。
そのためには自分が好きなことを一生懸命やってみることでしょう。
どれをやっていいか分からないときは、片っぱしからやってみたらいいのです。
そうすると、自分が一番好きだと思っていたものが二番目で、それよりもっと好きなものがあったのに気がつくこともあるのです」(P.220同)。
「命のうめき声」か。


既成仏教が権力=体制の護持役にしか過ぎぬことは歴史が証明しているところであり、オウム事件でも見たところであった。
「仕事があることはとても有り難いこと」(P.186)
「どこでも自分の置かれた場所で一生懸命努力すればそこに真の生きがいを見いだせる」(P.198)
あたりはその役割を遺憾なく発揮している。

しかし筆者の面白いところは、単なる仏教徒(仏教が全て)ではない点である。
「神や仏」という言い方をしている。
そして原爆犠牲者の例をあげ
「わたしは仏教に帰依した者ですが、因果応報という意味を、このような形では納得できません」(P.162)としている
(ちなみに彼らには「定命」(じょうみょう)があったのか?)。
ある意味仏教批判であろう。

この線を伸ばしていくと、反体制志向が垣間見えるところまでくる。
「しかしいつの時代でも、掟からはみだし、その罰を骨身のたわむほど受けても尚、反逆の道を歩かねばならない人間がいます。
その人の流す血によってのみ、女の歴史は書きつづけられているような気がします」(P.120)。

出典一覧(本作はアフォリズム集である)には
『瀬戸内寂聴・永田洋子  往復書簡─愛と命の淵に─』
の書名も見える。
まあしかし別に反体制志向までいかなくとも、仏は
「すべてをゆるし、受け入れ」(P.166)
るものなのだから、本来の仏教は永田をも許し受け入れるはずなのだが、逆に体制護持に回っているのは摩訶不思議というしかない。

「わたしは宇宙と一つにとけあった自分を感じ、山の聖霊の気がからだじゅうに流れこむのを受けとめていた」(P.221結び)。
宇宙との一体感。
これはP.176にも出てくるのだが、私は宇宙まではいかないにしても、P.176〜177にある
「大自然の雄大さ、美しさが心を満たし、自分という卑小な存在が、山河大地と一体となり、自若として動じない大安心が得られるように思えます」
というような大自然との一体感なら味わったことがあるのだ。
あれは忘れもしない、初めてRと会った後福智山に登りその山頂に立った時のことだ。
大自然に吸い込まれ、溶けてしまいそうな感覚に陥った。

またP.221といい
(「その夜はたまたま中秋の名月であった」で始まる)、
P.204〜205といい
(「鈴虫をくれた客が帰った夜、ひっそりとした庭におりて、わたしは、いただいた鈴虫をどこに放とうかといい場所を探してまわった〜月光の下でわたしはふと、浄土だなと思っていた」)、
まるで散文詩のような趣の文章もある。
後者は見開き2ページで、センター寄せの配置がしてある。

アフォリズムは最長が見開き2ページで、ほとんどは1ページのセンター寄せである。
最短は1行。
段落・行頭1マス空けもなく(この辺はネット的)、必ずしも行末まで埋められず、詩のように途中で行替えしているところもある。
おのずと余白が多い。
私もこのような装丁で本を出してみたい。
字数(分量)も少なくて済み、読者もサクサク読めるから一石二鳥というものである。

P.101の
「一(いち)を十(じゅう)にきりかえてしまう」は、
「−(マイナス)を+(プラス)にきりかえてしまう」
の誤植であろう。

筆者は
「出家とは生きながら死ぬこと」(P.45)
と言う。
この辺の境地は、私などに分かるべくもないのだろう。
                                   (2014.1.2  42歳)

ラベル:瀬戸内寂聴
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2014年07月10日

惜しいところで埋まらない宮部みゆきとの距離感 〜宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』〜※ネタバレ

コメディ・クライム(クライム・コメディ?)と呼ぶらしい連作短編集である。
表題作「ステップファザー・ステップ」以下
「トラブル・トラベラー」
「ワンナイト・スタンド」
「ヘルター・スケルター」
「ロンリー・ハート」
「ハンド・クーラー」
「ミルキー・ウェイ」
と全7編から成るが、既読の『峠』『見知らぬ妻へ』の読書録執筆も完結していないので、さすがにここは各編ごとに書いていくのはやめておこう。

筆者自身
「ライトなライトな仕上がり」
と評している通りで、連作仕立てではあるが一応1編ごとにごく軽めのミステリーが含ませてある。

それにしてもこの文庫本はなんと第57刷で、世人が
「いま、宮部みゆきが断然スゴイ!」
などとそこまでもちあげているのが読後をもってしてもどうしても解せない。
私自身の宮部みゆき体験というのは『理由』で
「なんとまあ朝日新聞が好きそうな作家なことよ」
やられてしまったから。
ただ『模倣犯』は映画で観てわけが分からなかったから原作にあたってみたいとは思っていたが。

宗野直(ただし)と哲(さとし)という双子の中学1年生が、セリフの短い部分部分を交互に喋る。
すると行数が稼がれる。
筆者が自分で
「会話を割って行数を稼ぐなんて、三文作家がとる姑息な手段である」(P.257「ハンド・クーラー」)と言う次第になる。
これは村上春樹『1973年のピンボール』で既出なのだ。

そして本作の双子は徹頭徹尾明るくかわいく描かれている。

だからこそ、たいへんに惜しかったのは(これが本稿の最重要点)「ヘルター・スケルター(周章狼狽)」であった。
もしここで私の思い通りの展開であったなら、私の宮部みゆきへの評価も変じていたろう。

ここまで全くのノーマーク固定キャラだったこの双子が、実は両親
(ともに同時に愛人と駈け落ちし、双子を遺棄した)
を殺した犯人ではないのか? という展開になったのである。
残念ながら真相はシロだった
(ダム湖から引き上げられた車中から発見された2体の白骨死体とも両親のものではなかった)。

主人公の「俺」
(職業的な泥棒。35歳。双子の疑似親父)
は疑われていることに気付いた哲が自分の料理の皿に毒を盛ろうとしていると勘違いして激しく詰め寄ったのだが、その後の“仲直り”も今一つ釈然としないものだった。

「トラブル・トラベラー」の結びは
「考えてたんだよ。
君らは実の親を『父さん、母さん』と呼び、俺を『お父さん』と呼ぶ。
なぜ、俺には『お』がつくんだろう。
案外、深い意味があるのかもしれない──と」(P.109〜110)
なのだが、「案外深い意味」にはついに触れられずじまいだった。

筆者は意図的にエロを避けているのだろうが……。
哲の担任の灘尾礼子先生
(美人。25、6歳。強姦されて、全面否認している犯人の公判の尋問に出廷するために双子の妹と入れ替わるというトリックを使う)
は「ワンナイト・スタンド(1日限りの芝居)」で登場した後も出てくるのだが、「俺」は口説こうと思った割には進展は全くなかった。

そしてついに、双子の両親は最後まで直接登場することはない
(電話では登場する)。
物語の締め括り的には消化不良感が残るのだが。
「俺」も父親の声は最後に留守録で聞きはするのだが、ついに写真も見ず顔は分からないまま終わるのである。
写真を1枚も見ることがないというのも不自然な話だ。

「俺」がパイル地のシーツに右足の小指の爪を引っかけて剥がすシーンでは、声を上げて笑った(「ヘルター・スケルター」)。

今私は、定まった運命をあらかじめ知ることのできぬ焦燥感に身を焦がしているところなのだが、そんな時には次の「ミルキー・ウェイ(天の川…自訳)」の結びがふさわしい。

「明日のことを思い煩うことなかれ、だ。

天の川の流れつくところが何処かなんて、いったい誰に知ることができる?
運命も、未来の出来事もそれと同じようなものだ。
行くべきところに行き着く。
だからそれまでは、流れのままに気楽にしていこう。

それで充分、俺たちは幸せなのだから」。
                                        (2013.12.30  42歳)

ラベル:宮部みゆき
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2014年07月09日

ひたすら連絡、移動、会議 〜東野圭吾『白銀ジャック』〜※ネタバレ

パッと見よく分からない題名であるが、「ジャック」というのは「ハイジャック」「バスジャック」のジャック、すなわち「スキー場ジャック」という意味である。
スキー場に爆弾が埋められ、金
(「身代金」という言葉を使っているが違和感を覚える)
を要求する脅迫状が次々に届く。
犯人は誰か。

もう1つ、昨年入江香澄
(義之の妻。達樹(当時小4)の母)
に激突しスノーボードのエッジで頸動脈を切断して死なせてしまい逃げ去った犯人は誰なのか。

私が脅迫犯として疑ったのは、1に入江義之
(スキー場を恨まず、損害賠償を求めていない。「現実を受け止めさせる」という理由で息子とともに宿泊しにきている)、
2に桐林祐介
(1回目の金の受け渡しの時、金を運ぶ根津昇平
(パトロール員のリーダー的存在。準主役)
の後でリフトに乗っていた。直後に置いた金がなくなったので彼が関係しているのではと思った。タネ明かしでは回収したのは増淵英也
(“二次犯人”の1人(もう1人は桐林)。北月町長増淵の息子。桐林とは友達で、入江香澄を死なせた「犯人」)、
とあった。しかし彼のボードの腕前は大したことはなく、
「だとしたら、スキーにしろスノボーにしろ、かなりの腕前だ」(P.130)に反する)
だった。

桐林は半分当たったことになるが
(あくまで“二次犯人”だから)、
入江は後半で根津と倉田玲司
(主役。40歳過ぎ、独身(最後には藤崎絵留(28歳。美人。パトロール員)と結ばれる)。索道部(リフトやゴンドラの運行を行う)マネージャー)
が疑い出したから犯人の可能性は消えた。

大穴で日吉老夫妻
(夫は浩三、妻は友恵。初登場時から北月エリア
(本作のカギを握るスキーエリア。新月高原スキー場中、採算がとれないお荷物ゲレンデで、新月高原ホテルアンドリゾート株式会社がスキー場を売却するために、ここに爆弾を埋めて雪崩を起こし、そうして転売時に切り離そうとしたのだった。つまり真犯人は筧純一郎社長、中垣ホテル事業本部長、松宮忠明索道事業本部長、宮内総務部長、増淵町長らなのだった。爆弾を実際に埋めたのは小杉友彦社長秘書。北月エリアが営業停止されたことで北月町は大ダメージを受けなんとか再開をと懇願したが、会社は経費がかかるので昨年の事故を口実にクローズしておいた方が都合がよかった)
に拘っていた。実は売却先の星雲興産会長。結局北月エリアを含めて買い取ることにし、ハッピーエンドを作り出す)
かと射程を変えたが、別の意味の意外な正体だった。

真相を補足しておくと、英也と桐林は、爆破計画を阻止するために
「爆弾を逆手にとってスキー場を脅迫する」(P.388)
ことにしたのだ。
クロス大会の開催が決定しており、そのコースを作れるのはアタックコース・ゴールドコース・北月コースの3つしかなかった。
脅迫状の中で、北月コースのみに安全宣言を出した。
すると大会のコースは北月コースに作るしかなく、そうすると北月コースは営業再開するしかなくなるので、したがって爆破はできなくなる。

脅迫(現金授受)は計3度行われているが、2人は1度目と2度目しかやってなく、3度目のは初めから取引中止→爆破にもっていこうとした真犯人連中によるものだった。

2人が警察に届けなかった理由は、英也が
「父親を犯罪者にはしたくなかった」(P.388)から。
2人がなぜそこまでスキー場を守ろうとしたかの根拠が弱い。
それに肝腎の奪った金はどうしたのかは分からないままだ。

「英也によれば、運搬役に『荷物を背負った状態で斜度四十度の斜面を滑走できること』という条件を(真犯人らが)つけてきたのも、そうすれば必ず藤崎絵留が選ばれると見越したからだろうとのことだった」(P.391。カッコ内と太字引用者)
とあるが、なぜ根津は選ばれないのか。
根津だって滑れるのだ。

3度目の授受の際、これまでとの相違点として、
@電話にホテルの館内放送が聞こえていたこと
A以前はボイスチェンジャーを使っていたのに
「今回は口にハンカチか何かを当てて声をくぐもらせている感じ」(P.290)だったことがあるのだが、推察はできるものの、解決編で明確な言及がなかった。

それにしても、倉田と絵留が結ばれるのなら、根津と瀬利千晶
(20歳前後。「吊り上がり気味の目と大きな口」(P.26)「なかなかかわいい」(P.149)。本格的なスノーボーダーで、クロス大会にも出場する)
も結ばれそうなのに、これはあえて予感を匂わすに留めたのか。
絵留も
「根津君好みだと思うけど」(P.149)
と言っているが。

これまでの東野作品は単なるミステリーではなく、プラスラブロマンス、プラスファンタジーといった付加要素があった。
少なくともラブストーリーは必ずあったのだが、これはミステリーのみ。
読み進める原動力やワクワク感も今一欠けた。
東野作品としては、いかがなものだろうか……。
                                          (2014.1.11  42歳)


ラベル:東野圭吾
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2014年07月08日

愛する者にとって幸せな道を選ぶという生き方 〜東野圭吾『秘密』〜※ネタバレ

「和室では直子が明日の準備をしていた。
時間割を書いた紙を卓袱台に置き、それを見ながら教科書やノートを鞄に詰めていく」(P.134)。

これがおかしくってたまらないのである。
「直子」は平介(39歳。自動車部品メーカー「ビグッド」の生産工場勤務)の妻(36歳。「最近は少し太り気味で、小皺も目立つようになっていたが、小さなことにこだわらない、表裏のない性格は、一緒にいて気持ちがよく、楽しかった。頭のいい女でもあった。藻奈美(2人の娘。11歳、小5)にとっても、いい母親だと思っていた」(P.32))なのだが、それは意識(魂)で、肉体は藻奈美なのだ。

母子は長野でのスキーバス転落事故に巻き込まれ、藻奈美のみが奇跡の生還を果たすが、中身(意識・魂)は直子に入れ替わった。
つまりファンタジー・ミステリーというわけである。

ここで展開の興味が2点に絞られる。
1つは、やがては藻奈美の肉体には本人の魂が戻り、直子との本当の別れがやってきてそれがフィナーレとなるのだなあという展開予測と、もう1つは2人の“性愛”の行方である。

心は妻だが身体は娘──。
いくらでも陰猥な展開が広がるが、あいにく東野はそういう系の作家ではなかった。
16歳の「直子」と1度試みかけたことがあったが、やはり断念している。

「直子」は中学生、高校生と成長していく。
平介と「直子」の生活が続けば続くほど、「直子」との別れのシーンの辛さが増していく。

だから終わってほしくなかった。
いつまでも続いてほしかった。
だが、そんなわけにはいかない。
直子の言う通り、
「どんなことにも終わりはある」のだ。
そしてこのことは、私の追い求めているテーマとも通底する。

平介は小6〜高2にかけての「直子」と過ごした。
高2の夏、
「藻奈美の身体に藻奈美の魂が戻り、直子が消えた」。

しかしそれは、実は直子の演技だった。
平介が「直子」を藻奈美として扱い、彼女の父親になろうと決意したのを受け、直子は自分を消し藻奈美になりきろうと決意したのである。

いうまでもなく平介への愛を貫くためだ。
世間体など全て捨ててしまう覚悟があれば別の選択もあり得たろうが、それがなければそうするしかなかった。
こうして2人は愛し合いながらも別れることになる……。

25歳で「直子」は根岸文也(詳細後述)と結婚する
(「直子」は大学病院の助手になり脳医学を研究する道を進む)。

4度泣いた。
直子が肉体として死に、「藻奈美」が目を覚ますシーン(P.22〜26)、
母子を引き上げた消防団員の話のシーン
(「我々が見つけた時、大人の女性一人が下敷きになっているように見えました。
ところがよく見ると、その女性の下に女の子が隠れていたんです。
女の子を庇うように、女性が覆いかぶさっていたわけです。
様々な破片が突き刺さったりして、女性は血みどろでしたが、女の子は殆ど無傷でした」)(P.33)、
「直子」が三郎(直子の父)の蕎麦を食べるシーン(P.281〜282)、
そして「直子」が「消える」シーン(¶@)。

読み始める前に巻末の作品紹介
(「妻と娘を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだ筈の妻だった」)
を読んだのは失敗だった。
本作自体の作品紹介を載せるという粗雑なことをするのは文春文庫だけだろう。

ミステリーの方にも触れないわけにはいかないので触れておく。
事故を起こしたバスの運転手梶川幸広は、給料を多くもらうために無理を押し過労を重ね、それが事故につながった(彼自身も事故で死亡)。
彼には離婚した前妻・根岸典子(札幌在住。ラーメン屋を営む。元ホステス)がいて、ひそかにその間の「息子」文也の大学進学資金として毎月10万円以上を2年間ほど送り続けていた(梶川の現在の妻征子と娘(逸美。中2。征子の連れ子)はそれを知らず、貧乏暮らしをしていた)。
文也もそのことを知らず、幸広は女をつくって自分達を捨てて逃げたと思い込んで憎んでいた。

しかし文也は幸広の子ではなかった。
典子は幸広と結婚する直前、とっくの昔に別れた昔の男と
「1日だけ付き合ってくれ」
と頼まれて情交し、それでできた子供が文也だったのだ(文也もずっと本当の父を知らなかった)。

幸広は本当の父が自分でないことを知り、文也の父親としてやっていけないといって家を出たのだった(典子は8年間幸広を「騙し続けていた」(P.372)。真の父親が幸広でないことに気付いていた)が、その後文也にとって父が自分であるのとないのとどちらが幸せかを考え、あえて文也の父親であり続けることにしたのだった。

幸広の選択の指針は「自分が愛する者にとって幸せな道を選ぶ」というものであり、これは平介が「直子」に対して、そして「直子」が平介に対してとった選択ということにもなるのである。
                                                     (2014.1.7  42歳)

§名シーン§
¶@曲が流れるのとほぼ同時に彼女は目を開いた。
しかし平介はすぐに話しかけたりはせず、さっき藻奈美といた時のように海を見つめた。
彼女も同じ方向を見ていた。

「ユーミンのCDなんて、よく買えたわね」
彼女が口を開いた。
落ち着いた声だった。

「顔から火が出そうだった」

「でもがんばって買ってくれたんだ」

「直子が好きだったからな」

また少し黙って海を見た。
海の表面は眩しく、見つめていると目の奥がちくちくと痛んだ。

「最後にもう一度ここへ連れてきてくれてありがとう」
直子がいった。

平介は彼女のほうに身体を向けた。

「やっぱり……最後なのか」

彼女は彼から目をそらさずに頷いた。

どんなことにも終わりはあるのよ
あの事故の日、本当は終わるはずだった。
それを今日まで引き延ばしただけ」
そして小声で続けた。
「引き延ばせたのはあなたのおかげよ」

「もう少し何とかならないのか」

「ならないわ」
彼女はかすかに笑った。
「うまく説明できないけど、自分のことだからわかるの。
もう、これで、直子はおしまい」

「直子……」
平介は彼女の右手を握った。

「平ちゃん」
彼女は呼びかけてきた。
「ありがとう。さようなら。忘れないでね」

直子、ともう一度呼ぼうとした。
しかし声にならなかった。

彼女の目と唇に微笑が浮かんだ。
そのまま静かに彼女は瞼を閉じていった。
首がゆっくりと前に折れた。

平介は彼女の手を握ったままうなだれた。
だが涙は出なかった。
泣いてはいけない、と誰かが耳元で囁き続けていた。

しばらくして彼の肩に手が置かれた。
顔を上げると、藻奈美と目が合った。

「もう行っちゃったの?」
と彼女は訊いた。

平介は黙って頷いた。

藻奈美の顔が歪んだ。
彼女は彼の胸に顔を埋めてきた。
わあわあと泣き出した。

娘の背中を優しく撫でながら、平介は海を見た。
遠くに白い船が見えた。

ユーミンは『翳りゆく部屋』を歌っていた。(P.428〜429。太字引用者)







ラベル:東野圭吾
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2014年07月07日

レインスティックに込めた愛 〜東野圭吾『夜明けの街で』〜※ネタバレ

男と女が出会い、そして別れる。
切ない。
特に最終局面で出会いの場面を回想されるともういけない。
『宮本から君へ』の「検問突破!」がそうだった。

不倫がテーマの、甘美なラブ・ロマンスである。
ミステリーもあるが、私にとっては重要でない。
男は建設会社第一事業本部電気一課主任の渡部、30代後半。
女はそこへ派遣社員としてやってくる仲西秋葉、31歳。

「小さめの顔は奇麗な卵形で、鼻筋は定規をあてたように真っ直ぐだった」
「和風美人タイプの整った顔立ち」(P.10)。

渡部には2歳下の妻有美子と幼稚園に通う子の園美がいる。
だから不倫に煩悶する渡部の内面描写がずーっと続く。

それにしても秋葉を想う気持に気付き久しぶりの恋愛の感覚に浸る初期の渡部の内面描写はよかった。
楽しかった。

果たして最終的に渡部はどうするのか。
渡部は秋葉をとる決断をした。
翌日妻にその話をすると決めた。

しかしクライマックス・シーンの後、秋葉は言うのだ。
「もう一緒にはいられない」(P.361)。
「あたし、あなたのことを利用してた」(P.362)。

理由は、
「あの人たち(父の仲西達彦(経営学の客員教授をはじめ色々な仕事をしている)と叔母の浜崎妙子(バー「蝶の巣」のマダム))を苦しめるため。
あたしがどんな不道徳なことをしたって、あの人たちはあたしを責められないから」(同)。
もう1つは、
「不倫を体験したかった。
どんな思いがするものなのか知りたかった」(同)。

もちろん、これは嘘である。
彼女が本当に渡部を愛していたことは、別れのシーンの涙が証明している。
それでも渡部が秋葉にしがみつかなかったのは、小さくまとまらせたかったのか。
「きみにどんなことが起きても、必ず守ってやるって約束したじゃないか!」
と叫んでほしかった。
有美子は実は夫の不倫に気付いていたが、母子とも捨てられることはなくなった。

2人の愛の期間は、9月(推定)〜翌年3月までの7ヵ月だった。
なんと濃密な7ヵ月であっただろう。
秋の温泉宿への泊まり旅行、
アクロバット的に会ったクリスマス・イブ(¶@)、
秋葉のけなげさが浸みるバレンタイン・デー(¶A)、
秋葉に妻との離婚の決意を告げる横浜デートその1、
レインスティック(これが題名の方がよかったのではないか。
題名に惹かれて読んだのだが、『夜明けの街で』という題名は必然性がない)
を傾け手をつなぐ横浜デートその2(¶B)、
秋葉が目に涙を滲ませセックスをしたホワイト・デー(¶C)……。

そうなのだ。
必要なのは自分にとっての秋葉なのだ。

さて、ミステリーについても軽く触れねばなるまい。
渡部が最終的に秋葉をとるのかどうかと、もう1つの焦点は東白楽強盗殺人事件の時効が成立するかどうかだった。

秋葉は 
「三月三十一日。
その日が過ぎれば、いろいろとお話しできるかも」
「その日はね、あたしの人生にとって、最も重要な日なんです。
その日が来るのを何年も……」(P.49)
と言っており、のみならずこのセリフは後でも出てくる。

そして2人が付き合うきっかけとなったともいえるセリフ、
「それ(謝ること)が出来ればどれほど楽か……。
素直に謝れるぐらいなら、あたし、こんなに苦しくない──」(P.33)。

この2つにより、秋葉は犯人ではないことになる(実際そうだったが、しかしそのために後者のセリフが宙ぶらりんになってしまっている)。

本条麗子(達彦の秘書。
達彦の愛人とされていたが、真相は真の愛人である妙子の存在をカムフラージュするために(真の不倫相手が妙子であれば、自分にとって妹なので母は離婚届に判を押さなかったから)愛人に仕立て上げられた)
は殺されたのではなく、自殺したのだった。

それを秋葉が殺したと勘違いした達彦と妙子が、秋葉への疑いを逸らすために、強盗の仕業に見せかけようとして偽装工作したのだった。

秋葉は2人に感謝するどころか罰を下すことを決意する。
「お父さんからいわれたとおりに嘘をついている間に(秋葉は死体を見て気絶したので何が起きたか全く知らないことにしろと2人に指示された)、あたしは決心した。
真実は時効の日まで黙っていようって。
あたしが黙っているかぎり、お父さんと妙子さんにとって、あたしは殺人者。
二人はあたしを守らなきゃいけない。
起きてもいない犯罪を隠蔽したという十字架を背負うことになる。
それが罰だと思った。
本条さんへの償いでもあった」(P.360)。

最大の疑問点は、なぜ秋葉は自分が殺していないことを黙っていたのかということ。
P.354にはこうある。
「でも、(父は)あたしには一度も訊かなかった。
本条さんを殺したのかって。
それであたしは決心した。
訊かない以上は、あたしも答えない。
あたしが殺したと思い込んでいるのなら、それでもいいって」。

秋葉は、偽装工作してくれるのは自分を助けるためだとは思わなかったのだろうか。
思っていれば、訊かれなくても
「私が殺したんじゃない。
自殺したのよ」
と答えているはずである。
答えないためには2人への相当強い憎しみが必要である。

で、その根拠付けとなったのが麗子の遺書(せめて秋葉には現物を持ってきてほしかったが)。
「彼女はお父さんのことを愛していたのよ。
それがどれほど深いものなのか、遺書を読んで初めて知った。
そんな彼女に対して、この人たちは、信じられないほど残酷な仕打ちをしたのよ。
恋人は本条さんという暗黙の了解の陰で、ずっと密会を続けてた」(P.358)
「この人たちは最低の人間なの。
生きる価値なんてない。
この人たちはね、自分たちの不倫関係を隠すために、一人の女性を犠牲にしたのよ」(P.357)。

今度はなぜそれほどまで(15年間かけて罰を下さないといけないと思うほどまで)秋葉は強く麗子に肩入れするのかという根拠付けが必要になってくるのだが、まあこれくらいにしよう。
犯行の偽装工作者が真犯人を勘違いしていたというのは、確かにミステリー的には斬新である。
                                        (2014.1.5  42歳)

§名シーン§
¶@八時ジャスト、僕はレストランに到着した。
店を囲むように張り巡らされたガラスの向こうに東京の夜景が広がっていた。
ボーイに案内されて窓際の席に行くと、黒いワンピースを着た秋葉が座っていた。
僕を見上げた彼女の瞳は、少し潤んでいるようだった。

「来ないかと思った」
彼女は言った。

「まさか。どうして?」

「だって」
彼女はふっと吐息をついた。
「元々無理なことだから」

「無理じゃないよ。約束は守っただろ」

「うれしい。でも……」
彼女は俯いた。

「なんだ?」

秋葉は僕を見つめ、手を伸ばしてきた。
彼女の指先が、テーブルに置いた僕の手に触れた。

「うれしいけど……こわい」

「何いってるんだ」

僕はボーイを呼び、シャンパンを二つ注文した。

12

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。

その時間が輝きに満ちていればいるほど、そしてそれを得るために払った犠牲が大きければ大きいほど、一瞬の後に僕の手から離れてしまう。

イブの夜を僕たちはホテルで過ごした。
秋葉はこれまでのどんな時よりも美しく、かわいく、さらには妖艶だった。
僕たちは裸で抱き合い、セックスをしては見つめ合い、後から振り返ると恥ずかしくなるに違いないような愛の言葉を交わし、気持ちが高まってくるとまたセックスをした。

眠ってしまうのが惜しくて、僕は彼女に腕枕をしてあげた状態でも、がんばって目を開けていた。

「眠くなったら眠っていいからね」
本心とまるで違う言葉をかけた。

大丈夫、と秋葉はいった。
だけどその数分後、彼女は寝息をたて始めた。
デジタル時計の表示は午前二時を過ぎていた。

秋葉の髪の匂いを感じながら僕は目を閉じる(P.135〜137)

¶A「二日ぐらいどうってことないよ。
もっと長い間、籠ってたことあるもん」

「長い間?」

僕が訊くと彼女は膝を抱え、その腕の中に顔をうずめた。

はっとした。
何かが頭の中で弾けた。

「年末にカナダに行ってたというのも嘘だったのか」

秋葉は答えない。
僕は彼女の肩に手を置いた。

「どうなんだ?」

彼女の肩は震えていた。
やがて細い声が聞こえた。

「あなたを苦しませたくないから……」

僕は首を振った。
かけるべき言葉が何ひとつ思いつかなかった。
僕は彼女の身体を抱きしめた。

「でも幸せ」
秋葉はいった。
「今夜会えるなんて、夢にも思わなかった」

輝く雪が僕たちに降り注いでいた。
僕は雪面に目を落とした。
彼女が描いていたのはハートマークだった。
ハートには矢が刺さっていた。(P.189〜190)

¶B食事の後、中華街を二人で散歩した。
外国の民芸品を揃えている店があったので、冷やかすことにした。
秋葉はレインスティックというものを手にした。
竹で出来ていて、中に細かい砂でも入っているらしく、傾けるとザーと雨が降るような音がするのだ。

「インドネシアの森の中にいるみたい」
そういって彼女は目を閉じ、竹筒を傾けた。
「果物を採りに森に入ったわけ。
そうするとにわか雨が降ってきて、あたしたちは大きな木の下に逃げ込んで、降り止むのをじっと待っているの」

「あたしたち?」

「あたしとあなたよ」
秋葉は目を閉じたままでいった。

「傘は持ってないのかな」

「そんなもの必要ないの。
だって、永久に降り続けるわけじゃない。
雨はいつか止むもの。
濡れたって平気」

「寒そうだな」

「寒くなんかない」
彼女は目を開け、じっと僕を見つめた。
「二人で手を握り合ってるんだから、全然寒くない。
お互いの体温を感じながら雨が降り止むのを待つの」

「降り止まない雨はない……か」

「あなたも目を閉じて」

秋葉にいわれ、瞼を閉じた。
森をイメージした。
隣に秋葉がいる。

そして雨が降ってくる。
細かい雨が二人の身体を濡らしていく。
僕は手を伸ばし、指先を動かした。
彼女の指に触れた。
僕たちはしっかりと手を繋いだ。(P.258〜259)

¶C「あたしをどこかに連れていって。
二時間でいいから。
その後は家に帰っていいから」

「秋葉……」

「不安なの」
彼女は悲愴な目をしていった。
「あなたが家に帰ると思うだけで、どうしようもなく不安になる。
もうあたしのところに戻ってこないような気がするの。
そうでないというんなら、あたしの我が儘をきいて」

彼女の訴えは、僕の心を揺さぶった。
辛い思いが伝わってきた。(略)

わかった、と僕は答えた。

僕たちが入ったのは、古びたラブホテルだった。
芳香剤の匂いがしみこんでいるようなベッドでセックスをした。
秋葉が上になった時、僕はどきりとした。
その目に涙が滲んでいたからだ。
しかし僕はそのわけを訊かなかった。
訊くのが怖かった。

「約束してほしいことがあるの」
セックスの後で彼女がいった。

何、と僕は訊いた。

「あたしにどんなことが起きても、必ず守ってくれると約束して。
あなただけはあたしの味方だと信じていたいの」

僕は息を止めた。
秋葉の言葉の意味を考えた。

「どうしたの?  約束できない?」

僕は彼女の髪を撫でた。

「そんなことはない。約束するよ」

よかった、と呟き、秋葉は僕の胸に手を置いた。(P.312〜313)

¶D※クライマックス
「さっきいったことは嘘」
秋葉は微笑んだ。
「あなたでなくてもよかったってことはない。
やっぱりあなたでよかった。
すごく楽しかったし、どきどきした。
ありがとう」

彼女の瞳が涙できらきらと光るのが、薄暗い中でもわかった。
少女のように無邪気な表情をしている。
十五年前に戻ったのかもしれない、と僕は思った。

最後のキスをしようと、一歩前に出た。
ところがそれを察したように彼女は後ろに下がった。

「もうだめ。ゲームオーバーだから」
そういうなり秋葉は手を挙げた。
一台のタクシーが、僕たちのすぐそばで止まった。

「送っていくよ」

僕の言葉に彼女は首を振った。
涙で頬を濡らしながらも微笑みを残し、無言で車に乗り込んだ。
僕は窓越しに覗き込んだが、彼女はこちらを向こうとはしなかった。(P.363〜364)

¶E「だから、考えたんだって」
秋葉は僕の手を握ってきた。
「レインスティックよ」

「あれが何か?」

「いったでしょ。
二人で手を繋いでいれば、どんなに冷たい雨が降ってきても全然寒くない。
お互いの温もりがあれば、じっと雨が降り止むのを待てる。
降り止まない雨はない。
きっとこれから、いろいろな苦労が長雨みたいに降ってくるんだろうけど、あたしは耐えられる。
あなたと一緒ならね」

中華街の民芸品店で、秋葉がなぜあんなに熱心にレインスティックを傾けていたのか、僕はようやく理解した。
彼女は自分の決意を確認していたのだ。

「手を繋いでいてくれる?」
秋葉が訊いてきた。
彼女には珍しく、甘えるような目つきをしていた。
だがその目の奥には、断崖絶壁を背にしているような必死の光が宿っていた。

否定などできるはずがない。
僕は握った手を自分のほうに引き寄せた。
彼女の身体は僕の胸に飛び込んできた。

「当たり前だろ」
そういってしまっていた。(P.263)

¶F「いつもあなたは精一杯のことをしてくれた。
イブの日だって、バレンタインデーだって。
あたし、一生忘れないと思うもの(略)」(P.280)

¶G「俺、帰るよ」

「どうして?」
大の字になったまま彼女は訊いた。

「君が酔ってるみたいだから」

歩き出そうとする僕の足に秋葉はしがみついてきた。
「行かないで」

(略)

僕は腰を落とし、彼女の肩に手を置いた。
「もう休んだほうがいいよ」

「渡部さんは?」

「俺は帰るよ」

「だめ」
彼女が抱きついてきた。
「こんなところで一人にしないで」

6

(略)

ゆっくりと秋葉の身体を抱きしめた。
指先は彼女のしなやかさを感じ取った。
彼女の体温が、静かに僕のほうに流れてきた。

なぜ彼女が泣いているのかわからなかった。
(略)

僕たちは唇を合わせた。
(略)

(略)
僕は秋葉の肩に手をかけ、自分のほうに引き寄せた。

彼女は抵抗しなかった。
そのまま自然に僕たちは抱き合い、再びキスをした。
(略)

唇を重ねながら、こんなことをしていると取り返しのつかないことになる、と考えていた。
(略)

僕は彼女をベッドに連れていこうとした。
彼女がいった。
「電気、消して」

「そうだね」

僕は電気を消した。
闇の中で僕たちはもう一度唇の感触を確かめ合った。
目が少し慣れてからベッドに移動し、同時に腰掛けた。

「ごめんなさいね」
秋葉がいった。

「どうして謝るんだ?」

彼女は答えなかった。

僕たちはゆっくりと身体を横たえていった。(P.68〜73)


ラベル:東野圭吾
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2014年07月03日

偽自己の仮面をかぶり損なった者の悲劇 〜井戸誠一『呪われた人々』〜

今の時期に、この本に出会ったというのも因縁的である。
「家族」というもののもつ2つの側面について考えさせられた。
社会制度の中における家族という一般論と、私的な、あくまで個人的問題としての現実の家族について、である。
そして「家族」について考え巡らすことは、自分の運命にも連なる。

家族とは何か。
それは社会支配制度における、最底辺の政治的・経済的単位である。
社会制度上、秩序をなすためには人間は、それを形成しなくてはならないのである。
性質上、それは人間の本性の抑圧にはたらく。
ただ、いくらそれが社会的強制とはいえ、始終顔を突き合わせていれば情が湧くものであり、世の大勢・主流を成す“円満”な家族というものの大部分はこれであろう。
それに加えて、私にはとてつもなく不思議な力と言わざるを得ない、“慣れ”というものもある。
いくら不本意とはいえ、とりあえず一緒にいればなんとかなり、うまくいく。
全ての婚姻が偽物とはいわない。
“本物の愛”で結ばれた婚姻は本物であり、貴重である。
だが残りの大部分は、仕方なしに社会的義務として結婚したのだろう。
そうでなければ、全くの作られた関係である見合い結婚の説明がつかない。
そのくせ人々は、統一協会の“無作為抽選式”合同結婚式を、自分達も本質的には同じことをしているくせに、「非常識だ」とけなす。
ちょうど、建前では女遊びをするような、あるいは女性遍歴の派手な男性は結婚相手として敬遠せよというくせに、実際にはでは1度も恋愛経験のない男性がいいのかとなるとそっちも気味悪がるのと同じである。

うってつけのエピソードを見付けた。
森鴎外が今まさに死なんとする時に、「実家裕福の後妻」(意味不明瞭。妻の意としておく)は耳元で
「パッパ、パッパ、パッパにいま死なれたら、私たちはどうして生活していけばいいの!」
と叫んだという。
以後、鴎外の無二の親友だった賀古鶴戸は二度と森邸を訪れることはなかった。
そこには、肉親の離別に対する一片の人間的悲しみもない。
ここに、私の言いたいことの重心はある。

私は最近、
「(いわゆる)親であること」、
さらに進んでは
「その親から育て上げられた子であること」、
すなわち
「家族存在すること」
そのこと自体が、体制者たるべく宿命づけられているのではないかと考えるようになった。
いわゆる、というのは、いうなればマクドナルドで微笑みながら食事をし、いっぱしのマンションなりマイホームなりに住む、広告イメージに出てくるような家族であることを指している。

定常的な親がいるということは、社会単位として家族が機能を果たしているということになる。
その機能を果たすには、維持努力がいる。
その中核は賃労働である。
親は老いれば働けないから、子に維持努力を託す。
それあらばこそ、保険として未成熟期間の養育に当たるのである。
つまり親にとって子の養育は、老後投資・将来保障に他ならない。

ただ、全てそうした打算と意味付けると、さすがに虚しいものがある。
一応、理想として“肉親の情愛”を思い描きはする。
だからそのように装う努力はする。
「家族」は、情愛を取り繕う。
それは虚栄としても作用する。

高崎隆夫は、肉親を6人惨殺し、1人自殺させた。
高崎家は、石倉屋と号する味噌屋を営んでいた。
隆夫はその若旦那で、その父安起は大旦那だった。
花江が隆夫の嫁かつご寮人で、3人の子があった。
上から、春子、隆一郎、妙子である。
安起の嫁かつお家さんがすみ。
隆夫は高崎家の次男坊で、上に長男坊の源一郎があった。
源一郎には2人の子があり、それが小夜子と千鳥だった。

“事件”当時、高崎家に生活していたのは安起、すみ、隆夫、花江、小夜子、千鳥、春子、隆一郎、妙子、五朗。
この内事件当日、安起と五朗は居合わせていなかった。
源一郎は関東大震災で3年前に死んでいた。

だから隆夫は、自分の子3人と姪2人と母を殺したことになる。
で、偽装工作のために妻に自殺させるのである。
夫から
「俺が皆殺しした後、お前は全責任をもって自殺しろ」
と言われた妻が、
「はあそうですか」と言って従うというのも、時代性を表している。
事件が起こったのは、大正15年5月15日である。

もちろん隆夫は死刑となる。
まだ当時は尊属殺人重罰規定が生きており、母すみ1人を殺しただけでも死刑となるのである。
本書は大量殺人から死刑に到る隆夫の顛末記である。

動機は、父(そして広くは両親と私はとる)への復讐である。
しかし肝心の父は生き延びている。
要するにあっさりと殺すよりも、蛇の生殺しのようにする方がより残酷だと考えたのであろう。
事実、安起は全ての財産(源一郎の遺産も含めて)を使い尽くし、家業も譲渡し、屋敷さえ売り払い、何もかも失った。

安起が最も気を払ったのは、「家」の隆盛だった。
その「家」を潰すことが、安起へのてきめんの復讐となった。
小夜子と千鳥が巻き込まれたのは、安起が隆夫を無視して2人を承祖相続人に指定したからである。
これにより隆夫は、石倉屋の跡取りの立場にありながら財産分配も受けられぬことになり、また家督相続権からも営業承継権からも除外された。
安起から徹底的にこけにされたのである。

春子と隆一郎が殺されたのは、犯行発覚を防ぐための口封じである。
妙子は一家心中の道連れみたいなもので、残すのは不憫としたのであった。

殺され方は生々しく、酸鼻極まる。
すみの殺され様はこうであった。
「面相がなくなるほど、裁縫ゴテで殴打されている。
そして、五寸釘が三本頭に打ちこまれ、喉といわず胸といわず、出刃庖丁でめった突きされている。
そのうえ、角太の火箸が腹部に打ちこまれ、蒲団をぬけ、畳にまで突き刺さっていた。
…本田主任が、すみの右耳から打ちこまれた大工用ノミを抜きながら、…」

あと、惨殺といえるのは小夜子、千鳥、春子である。
私は、すみよりも小夜子が惨殺されたのにショックを受けた。
隆夫には、直接的・個人的恨みはなく、いうなれば「家」を潰すという形式目的のために巻き添えにされたに過ぎない。
なぜ、惨殺しなければならなかったのだろうか。
殺害時の狂気が一気に迸ってそうさせたとしか解釈できない。
しかも、小夜子は「わたし」(井戸誠一)がほのかに想いを寄せていた女の子だったのである。

「わたし」の父・井戸又市は石倉屋の番頭で、隆夫の一番のシンパだった。
当然、一家は高崎家と家族同様のつきあいをしていた。

高崎家は、いっぱしの資産家ということも手伝って、地元ではしごくまっとうな体を成していた。
問題があるのは隆夫の方とされ、放蕩息子として悪名が轟き渡っていた。
だから全国はもちろん近所の人も、隆夫の一方的突発的な狂乱によって名家が瓦解してしまったと捉えただろう。

だが、それは繕った姿なのだ。
内部は腐り切っていた。
これはあらゆる箇所から自明である。
「犯人」隆夫も、その妻花江も、小夜子も、小夜子の継母さわ子も、広い意味では長男源一郎も、「家」の被害者なのである。
いうなれば隆夫は、己の運命に反逆したのだ。

「わたしはこどものころから、何べんとなく親父に殴られ、涙が出つくしてしまいました。
死刑にするといわれても、涙がでまへんわ」。
この一言に、隆夫の全ての哀しみが込められている。

対して安起の、隆夫に対する一言はどうか。
「これ(源一郎の死)が隆夫の奴と代っていてくれたらなあ。
極道息子はのうのうと生きていやがるが、親おもいのお前(源一郎)が死んでしまうなんて、ああ、ああ、いくら悔やんでもどうにもならんものか」
と、繰り返し繰り返し隆夫の面前で嘆いた。
弁護士はこれが、事件の直接的引き金となったとする。

本来家を継ぐはずだった源一郎が学問に目覚め京都帝大に入学してしまったために、隆夫はあおりを喰って中学を退学しなければならなくなった。
隆夫もまた京都帝大入学を目指して猛勉強していたし、その頃はまだ品行方正ぶりも申し分なかった。

隆夫は泣きながら、畳に額を擦りつけて中学をやめさせないで下さいとひたすら哀願した。
安起の頭には「家」を守ることしかなかった。
すみが阿吽の呼吸で「財産」をエサにしてチラつかせ、翻意を促した。
しまいには
「素直にこどもらしく、『はい』と、いいなさらんか」とイエの権威剥き出しの恫喝をした。
隆夫には従う以外術がなかった。

隆夫はこの時以来、父を憎み続けた。
安起の尋常でない暴力が続いた。
隆夫は
「おゆるしくださりませ。
どうかおゆるしを。
おねがいでございます。
おすくいください。
おたすけくださいませ」
と手を合わさんばかりに許しを乞うた。
安起の暴力はやまなかった。
隆夫が妻子をもってからも、何百、何千回と殴った。
隆夫の唯一の抵抗は、薄笑いを浮かべることだった。

彼の唯一のシンパ・又市はこう言って彼を励ました。
「日本人のよいところは、犠牲的精神やと教えられました。
わたしかていうてみれば、家の犠牲になって働いとるようなものです。
僅かの給料はほとんど父が持って帰る。
わたしの楽しみは何でっしゃろ。
それは自分が働くことによって親がよろこぶ、それだけです。
あんたかてその気になって働いてみなはれ、八人のご兄妹の犠牲になって、俺は石倉屋の商売を盛りたてるんじゃ。
そのように思えば、あんたには酬いがあります。
兄弟や親から感謝される。
これも案外気色のええもんでっせ。
こころの底から、ほのぼのとしたよろこびが湧いてきます」

見事に、最初述べた「家族」の社会制度的役割を示してはいないだろうか。
こうなればまさに、子は親の思うがままになる。
後のシーンでその“犠牲的精神”を擁護肯定し、
「それはちょっとおかしいのではないか」
という疑問を封じるのだから、既成仏教はこの頃から根本的に堕落していたのだ。

隆夫がいわれた通り家業に献身専念したとして、一番得をするのは誰だろうか。
又市がはしなくも言っているように、それは親と兄弟だろう。
では彼らは、又市の説く通り本当に隆夫に感謝するだろうか。
本当に感謝してくれるのであればまだよい。
おそらく表面的には感謝の意を示すだろう。
だが本心ではどう思っているか。
うまいこと犠牲を厭わぬように仕立て上げることができたワイ、うまくいったぞ、というのがいいところだろう。

それでも実利さえあればよいのだと割り切ったとしよう。
事実、隆夫も当初は財産分捕り計画を図ろうとした。
それがうまくいっていれば、あるいはそれで「家」への復讐心も満足できたかもしれない。

実際には安起の方から“防衛策”に出て隆夫はないがしろにされたのだが、それならもし隆夫が最後までまじめに家業に献身し続けていたならば、実利的な酬いがあったのだろうか。

「残るのはこのボロ家と借金だけよ」
と隆夫は推測しているが、私もそうだろうと思う。
とすれば、その際の隆夫の人生とは何なのか。
コキ使われるだけコキ使われ、報酬すら残らない。
体よく利用され、ボロ布のように使い捨てられるだけの人生ではないか。
そのうえ、そんな彼の気持は誰も解ってくれない。
「家」内部の腐った状態は誰も見抜けない。
もし訴え出たとしても、誰もまともには取りあってくれず、一笑に付すだろう。

これは今でもそうだ。
子供が家庭内暴力等を起こす。
悪いのは、加害者は子供の方で、親は被害者と見なされるだろう。
「親の責任」というのも、チラホラと取り沙汰されるようにはなった。
しかしそれはあくまで新聞紙上的論調で、タテマエ論である。
「清潔な選挙を、政策を基に投票しよう」
といくら言ってみても票は金で動き、企業の賄賂や談合がけしからんといくら言ってみても体質の改まることはないのと同じである。

現在、少年法を“改正”し、少年でも凶悪犯罪者には死刑を、という提唱は広く受け入れられる土壌にある。
教師夫妻が息子の家庭内暴力に耐えかねついに刺殺した事件で、北野大などは親への同情論を吐いた。
確かにそれは合理的である。
悪しき合理主義である。

だが、私の立論には1つの決定的と思える弱点があるように思われる。
「家族」の中の親と子のあり方が本当にそのように普遍的・構造的なものであるなら、世の「家族」はすべからくそのような陰惨悲惨な内情を呈すべきではないか。
ところが世の「家族」の大勢は現実にはうまくやっている(ように見える)ではないか。

私にもこれは疑問だった。
だが、木村敏『異常の構造』に、膝を打つような示唆があった。

なぜ、全員が破綻しないのか。
「分裂病者の家族成員個人個人の共感能力は非常に悪いのに、当の分裂病者自身はもっともすぐれた共感能力をもっているという結論に達している。
…分裂病者とは、各成員が共感能力を持ちあわせないような、相互信頼と相互理解の欠如した家族の中に、『場違い』に一人だけ高い共感能力をもって生まれついた気の毒な人間なのではないだろうか。
…分裂病者は、家族の中でただひとりあたたかい人間的な共感能力を持ちあわせていたからこそ、分裂病におちいらなくてはならなかったのではないだろうか。
圧倒的に多くの分裂病者が、幼いときには親孝行ないい子だった、といわれるのも、この推測を裏づける事実であるように思われるのである」

隆夫が分裂病者であったかは解らない。
だが、この推測は広く、破綻者全員に敷衍していいように思う。
家族の他の「健常者」は、共感能力を持ちあわせないのではなくて、厳密には共感能力を鈍磨・麻痺させてしまったのだろうと思う。
それはどういうことによるのか。

「分裂病者が育てられたのと同じ家族内にあって遂に分裂病におちいることをまぬかれている人たちは、多かれすくなかれ堅固で容易にこわれない偽自己の体系を作りあげていると考えてよい。
…このような家族の中に生まれあわせた子供の一人が、井村氏らの指摘するようにたまたま特にすぐれた共感能力をそなえていて、そのために家族の中で彼ひとりが冷たい偽自己の仮面を堅固に作りあげることに失敗したとする。
そのような子供が成人して、やがて彼の自己としてのありかたが根本的に問われるような関門にさしかかった場合、彼は他の兄弟たちのように巧みに偽自己の体系をはたらかせてこの危機を乗り切るということができない」(太字引用者)

要するに、演技をしているのである。
しかもそのことをあまり意識せず、不自然とも思わない。
社会というものを運営していくには、生(き)のままの人間ではダメなのである。
かつて私が「反社会」を漠然と標榜したのも、このことを直観していたのかもしれない。
高野悦子が常に自分に「演技せよ!」と命じていたのも、きっとこのことを見透かしていたのだ。
人は、共感能力(マルクスのいう「類的存在」のようなものだろうか)を擦り減らすのと比例させて、偽自己の体系を作り上げていく。
隆夫の悲劇は、「子は親を選べない」という冷徹な事実を、何よりも強く訴えかけている。
やったことは犯罪だが、私は隆夫を、運命への反逆の実践者として認めるのである。

……と、ここまで私は犯人を隆夫と断定した書き方をしてきたが、どうも釈然としないのである。
それをハッキリとさせていないのが、本書のいくつもある不備な点のうちでも最大の綻びである。
本書を素朴に読めば、犯人は隆夫ということになっていると感取することはできる。
しかしそれを疑わせる根拠はというと、

@隆夫は最後までとうとう自白しなかった。
決定的証拠となった〈花江の手紙〉を見せつけられても、
「ずいぶん手のこんだ芝居を仕組んでだしたな。
このようにしてまでわたしをおとしいれようとする人間がいるんですな。
ええことを教えてもらいました」
とやり返した。
A物的証拠・証拠物件はなく、裏付捜査で証拠書類が作られた。
B最も惨殺の度が酷かったのはすみだが、隆夫の憎しみが特にすみに集 中せねばならなかった理由は思い当たらない。
彼が最も酷く憎んでいたのは、既述の如く父安起である。
Cカルチモン(睡眠薬)は、花江、小夜子、妙子からは検出されなかった。
小夜子から検出されなかったというのは、何なのか。
D花江の犯行時のアリバイが不明。
カルチモンを飲んでいないにも関わらず熟睡していたことにされた。
E隆夫には〈花江の手紙〉が、
「妹の立場をかばうため、安達俊夫がうったトリックとしか思えなか     った」
とあること。
Fカルチモンと五寸釘の購入依頼および使用人への暇出しは、花江によ ってなされたこと。

一番解らないのはEである。
隆夫が真犯人ならば、なぜこんなことを思うのか。

隆夫の単独犯行でないならば、当初いわれた通り花江の単独犯行か、あるいは2人の共同犯行の疑いが濃くなる。
可能性としては共同犯行の線が強い。

最大の確実な“物証”は花江の遺書である。
「わたしは母を殺しました。
わたしも死にます。
隆一郎、妙子は立派に育てて下さい。…」
とある。
筆跡は確かだが、隆夫が強制的に書かせたものと考えられている。
また隆一郎と妙子の存否が事実と違う点もひっかかる。

隆夫は安起の被害者だったが、花江はその隆夫のまた被害者だったのである。
花江を怪しむ根拠はここにある。
彼女は、すみから
「あなたは、たんに隆夫の嫁としてもらったのとはちがいます。
こんなことをいうと何だけど、家にもらった嫁ですよ。
高崎家の嫁ですよ。
わたしのいうことはわかるでしょう」
と言われた。
彼女はこの言葉を家の跡取り息子を生むための女としてもらったのだ、もっというと隆夫のオモチャのためにもらったのだと解釈した。
それは決して大袈裟な被害者意識ではなかった。
ひさ(花江の母)が久方ぶりに彼女を訪れた時、娘の変わりようとくると、何も聞かなくても日々の暮らしが察せるほどの変わりようだった。
彼女の涙声は毎日のように聞かれた。
ただ蒲団の中でしみじみと身の不幸を泣くばかりだった。
そんなこんなで、彼女の憎しみはすみに集中していた。
だから彼女がすみを特に酷く惨殺したとすれば合点がいく。
また、安起への恨みもある。
本書の文脈の中で、まるで何事かを暗示するかのようにポッコリと「安起花江の風呂乱入未遂事件」が出てくる。
行為には及んでいないにしても、彼女にはこの事件が誰にも解らない重みと痛みをもって刻印されたことだろう。

しかし、隆夫真犯人説を揺るがせなくしている最大の事実は、高崎ふさ(すみの妹)の供述である。
犯行時刻に、2階の物干しにいる花江を隆夫が引きずり降ろした、と証言したのである。
ふさの新宅は安起の母屋と壁1枚で隣り合っているのだ。
これで、隆夫の
「犯行時刻、カルチモンの入れられた酒を飲んでこうじ室(むろ)で眠り込んでいた」
とするアリバイ供述は完全に覆されたのである。
ふさの証言はそのまま裁判の判決理由文にも取り入れられた。

しかしふさの側にもやや勘繰れば怪しい点が2つある。
1つは、最初の聴取ではシラを切ったこと。
これは甥すなわち隆夫をかばってのこととされる。
2度目の聴取で偽証罪適用をチラつかされてやっと、「真実」を語り始める。
2つ目は、安起夫婦とは不仲だったこと。
真犯人のつけ込む隙がここにある。

それにしても、叙述を曖昧にするのも小説作法の1つではあろうが、事実関係にきっちりと片をつけてくれるのも著者の責務であろう。
この本にはそれがない。
この点が、読後感のスッキリしない主因である。

最後に、その点を初めとする構成上の不備を何点か指摘しておこう。

まず、ノンフィクションかフィクションかの区別がはっきりしない。
おそらく脚色を加えたとしても基本的には事実なのだろう。
陸軍少尉田中静壱という終戦時の陸軍大将も出てくる。
また本書中の「わたし」の名も井戸誠一で、これはズバリ著者名そのままである。
こんな形態は初めてである。

「わたし」の父・井戸又市のキャラクターは、前半部分では夕食時に子供らに軍人勅諭や教育勅語を暗誦させるような、典型的な軍人精神の権化として描かれていた。
ところが後半になるにつれ子煩悩な面も見せ、ある種「大草原の小さな家」のチャールズ・インガルスを思い起こさせるようにさえなる。
この二面性は二律背反で、とても両立するとは思えない。

随所で感じる不備さは、文脈の時系列の混乱だ。
たまには回想シーンなどあって、時系列が逆転してもよい。
しかしあまりにも度が過ぎると、一体正確な順序はどうなっているのか混乱をきたす。
後半では井戸一家は惨劇の舞台となった高崎家に引っ越すのだが(これも近所から極端に気味悪がられた家で、よほどの強力な事情でもない限り妻や子供らが容易に了承するとは考え難い)、安起が寝込んだり又市が隆夫の遺骨を持って帰ったりするシーンが入り乱れ、一体これは引っ越し前のことなのか後なのか、後だったら安起はどこへ移ったのかなど掴み難かった。

最後の章は「結びにかえて」と題されており、「わたし」の母の死が主たる内容となっているが、これも小説本文の一部なのか、本文とは別のあとがきなのか判然としなかった。

また、終わり近くに、隆夫の葬式の場面で源徳寺住職のありがたげな説法が出てくる。
「王舎城の悲劇」というもので、石倉屋事件となにやら通底するものを含んでいるそうだ。
それが何を言わんとしているのか、明快には解らない。
話の最後には「悪逆のダイバダッタ」という登場人物が唐突に出てくる始末。
しかし「わたし」の母小春はこれをきっかけとして深く浄土真宗に帰依するようになったのだった。

また、安起の隆夫への最終的な対応も解せない。
死刑前の最後の接見で、2人は何も喋らなかった。
感極まってというのではなく、隆夫は薄笑いを浮かべたのだった。
それは彼の最後の抵抗だった。
2人の断絶はここに極まった。

それなのに、安起は渋々ながら、塩味饅頭を食いたいという隆夫の最後の頼みに応えた。
それ以前にも、裁判をなんとか無罪にもち込もうと膨大な訴訟費用をせっせとつぎ込んでいた。
これは隆夫の身よりも「家」の名誉のためと説明されてはいるが、それだけでは説得力に欠ける。

安起の行動は全てが打算的で、薄汚かった。
さわ子が源一郎の遺産の額を明かすや否や、彼はピクリと触手をはたらかせ、なんとしてもさわ子と真一郎を連れて帰らなくては、と目の色を変えた。
さわ子が「家」内部の薄汚さにほとほと参り切り、東京へ帰ると言い出しても安起は頑として譲らなかった。
遺産略取の前には親子の情も何もないのである。

「さわ子の頭の中を、遺産のことがかすめてとおった。
彼女はひとりうなずいた。
すべてが、遺産にかかわっていることを知った。
この貪欲な人間にものをいうのも嫌である」(太字引用者)。
やっとさわ子は気付いた。
真一郎の世話は花江に任された。
そこでは安起夫婦にとって、花江は「授乳機械」でしかなかった。
彼女にはまだ、自身の乳呑み児がいたのだ。

結果的に真一郎は、この裕福な高崎家という環境からすると信じ難いことに、栄養不良で死んでしまう。
遺産のために、心の底では安起夫婦は真一郎の死を待望していたのではないかと勘ぐりたくすらなる。

安起の横暴の陰で、すみの口添えもぬかりない。
夫と花江の関係をただしながらも、
「あればあったでちっともかまやしませんよ」
と、夫婦間の人間的な情愛は最初からないのだ。
ただ自分が出し抜かれたことが、不快なのである。

この辺のすみのぬかりなさというのは、女性特有というのか、現象的には見えにくく、したがって批判されにくい。
この辺が狡猾というのだ。
内田春菊『ファザーファッカー』の母親像を思い出す。
その中での母親は、一見娘に同情的で、理解者の如く見えないこともない。
が、よくよく言動を見てみると、見事に夫の意向をいつも「陰ながら」反映し、ある意味では夫よりも陰湿なのである。

高崎家内部の陰惨さは、内部の者しか解らないだろう。
腐った土壌からは、まともな芽が育つはずもない。
なのに社会的すなわち法的断罪は、芽にしか及ばない。
このような腐った土壌から隆夫のような破綻者(破綻させられた者)が出てくるのは、無理からぬことなのである。
そしてもちろん、破綻の責任は土壌にある。

思えば私は「現代」、そしてそこに現される病症についてあまりにも狭く考え過ぎていたようである。
本書に現れている社会の病弊は、本質的には今と同じである。
既に「金が全てだ」という記述が随所に現されている。
今よりましなところといえば、まだ農業従事者が圧倒的であり賃労働の悪弊がそれほどあからさまではなく、クルマが皆無だったということくらいである。

構成上数々のホコロビがあるにしても、私が魅き込まれた理由は、すんなりと入りやすい私にフィットする文体にあったことは否定できない。
特にセリフの部分だけをとってみると、立派な練成度に達しているといえる。

隆夫のキャラクター設定、特に容貌面に関しては今一不充分だが、料理屋で飲んだくれる場面などから太宰に近いものを感じた。
素朴な時代背景も手伝っている。
「わたし」は隆夫が好きだった。
いつもにこにこしていた。
写真をよく撮ってくれたりした。
「わたし」の父又市がただ1人最後まで隆夫を見捨てなかったのも、息子と同じ気分だったからだろう。

いくらフェミニスト達などが頑張っても、社会がこのままであり続ける限り、その最底辺単位として機能するイエ制度はなくなりそうもない。
そもそも社会というものを形成していく以上は(人類のこのままの生存のためには)、“真”を歪め、隠蔽するしかないのである。
                                           (1995.5.24  24歳)



ラベル:井戸誠一
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2014年06月28日

名文やや嫌味がかる 〜外山滋比古『ことば春秋』〜

もう本当に手がきつい。
ハッキリ言ってもう字を書きたくない。
今の今まで、「心に残った言葉」を書いていたのだ。
今回は、最大の規模となった。
18ページ、かかった時間はおそらく5時間を超えているのではないか。

『昨日は今日の昔』のところにも書いたように、彼の文章は本当に分かりやすく、簡潔、明快である。
つっかえるところがほとんどない。
文と文とのつながりの分かり辛い坂口安吾(今読んでいる)や、文そのものが分かり辛い谷川俊太郎とはえらい違いである。

今回、彼の文章はなぜそうまで分かりやすいのか、その原因の一端を掴んだ。
言葉の使い方が、非常に適切でタイムリーで、うまいのだ。
辞書の例文のようにぴったりフィットしているのだ。

それに彼は日本・外国問わず、いろんな諺、名言、エピソードなどを心得ている。
あまりにもボキャブラリーの豊富な人物である。

ただ今回はちょっと、嫌味になる文章が目立った。
要望をそのまま文章にしているのである。
読者はそれとなく書かれた文章に反応するのであって、そのままというのはどうかと思う。

また、
「ありがとうといえないのか」
という題名など、とにかく他に対する文句が多かった。
玉に疵といったところである。
                              (1988.8.18  17歳)

§箴言集§

¶講演を聞きにくる女の人はたいてい筆記具をもっていて、せっせとメモをする。
そちらに忙しくて講師の顔などほとんど見ていない人さえある。
これならラジオをきいているのと変わらない。
字を書けば、耳の方はお留守になる。
頭だって話に集中しにくいだろう。
メモをあとで復習するなら意味もあるが、多くはとりっ放しで、読み返さない。
ムダだ。

ぼんやり聞いていた方がよほどよく頭に残る。
数字や人の名前、書名で忘れては困るところだけメモするのが賢明である。
                                        ──「メモ」

¶私も手帖には目がない。
いくらでもほしい。
手帖をもらえば喜ぶところはアフリカ人とそっくりで、そういう遠方に同好の友がいると思うのは楽しい。
                                        ──「手帖」

¶何か思いついたことがあると、手帖に書きつける。
前後の脈絡などお構いなしで、ただ記録する。
ちょっと線を引いて、すぐ次のことを書きつける。
余白はない。
昔からそれくらい資源を大事にしている。
と言うのは冗談だが、そうでもしないと手帖がたまらないのである。

びっしり、まっ黒に記入しても多い年には六冊、七冊の手帖を書きつぶす。
メモ魔というイヤな言葉がある。
自分で自分のことを魔だなどと思ったことはないが、良識ある人から見ればメモ魔の容疑は充分であろう。
                                        ──「手帖」

¶君子ハ南面スという言葉もあるほどで、われわれの文化はもともと南方志向的である。
家屋もできれば日当たりのいい南向きに建てようとする。
南をあこがれる心理を持っているのだろう。
南は陽、北は陰だが、山陰の人たちがこの陰という字を嫌っているという話をきいたことがある。
やはり南方志向のあらわれである。
                                        ──「北面文化」

¶業者の方ははじめから「いちげん」主義である。
二度来てくれなくて結構、その代わりやって来たカモからは後悔のないだけ絞り取ろうと考えている。
客がまた成上がりレジャー族で恒心がなく、あちこちさまよっていて行きつけのところのない連中が大部分だから、まんまと網にかかる。
ものの使い捨ては批判され出したが、客の使い捨てはいっこうに反省されない。
人間はもの以下なのか。

そう言われてもしかたないくらいお客はふがいない。
豆腐が十円安いからと遠くのスーパーまで買いに行ったりするくせに、いったん旅行に出ると、デノミでも起こったみたいに気前よく札びらを切る。
不当な請求書をつきつけられても腹を立てたりはしない。
もっとも、帰ってきて、十円、二十円が気になるような生活に戻ると、ジワジワ悔恨が頭をもたげてくる。
                                   ──「使い捨て時代」

¶そのうちに(ホテルのテレビは)百円で一時間しか見られなくなった。
こんなところにも値上げはあるのだ。
ワイド番組だと百円では最後まで見られない。
それで、いかにして百円を長もちさせるかを根本は考えた。
まずCMが始まったら電源を切り、終わった頃を見はからってコンセントをさし込む。
こうしてCMのたびに何十秒かずつかせぐ。
Cが長いのはかえってありがたいそうだ。
ぼんやりメーターの進むのにまかせてコインテレビを見るのはお金を払ってCMを見せてもらうお人好しだと根本は笑った。
                           ──「ただではないCM」

¶このごろ医を仁術だと思っている人はない。
お医者の仁術はニンジツと読むのだと思っている。
さもなければ、サンジツでお金持になるのが近代医学の極意なんだろうと、貧乏人がひがみ、ささやく。

仁術でも算術でもいいが、大切なのは、いかにして人ひとりを死なすかのシジツである。
その研究の余地は大いにあると見た。
                                        ──「入院」結び

¶──君には非の打ちどころがないが、ひとついけないところがある。
服を“盗んでいる”ことだ。

おどろいた友人は、とんでもない、これは自分の服だ、と弁明したのはもちろんだ。
相手のイタリア人はそんなことではない。
日本人なのにどうしてヨーロッパの服装をしているのか、と言っているのだと補足した。
友人は二度びっくりした。
思いもかけなかった。

彼は和服をもって行っていなかったが、ぜひと言われるままに、しかたなく、寝間着に三尺帯を巻いて歩いてみせたら、やっぱり、りっぱだとほめられたそうだ。

こちらに借りているつもりがなくても!相手からは無断借用、盗用と見られることがあるから、こわい。
サルマネ日本人という国際的批判も無自覚的借用から出たサビである。
新しい文化を摂取したつもりで、いい気になっていると、思いもかけぬ冷水を浴びせられる。
われわれはどうも借りることを簡単に考えすぎるようだ。
                                  ──「借用・盗用」

¶なるべく近く見せかけて客の足を引こうとする気持ちはわからぬではないが、長い目で見れば結局は信用を失って損だ。
中学校の英語の教科書にあった“正直は最上の策なり”(オネスティ・イズ・ザ・ベスト・ポリシー)を思い出した。
                    ──「距離の“あげ底”」結び

¶大きな荷物を手にエッチラコッチラ歩いている人間の姿はお世辞にも美しいとは言えない。
それに比べると、たとえば、競走馬の見事なスタイルはどうだ。
ほれぼれするではないか。
『ガリバー旅行記』でスイフトが人間より馬の方がずっと高等だ、美しいと言ったのが決して皮肉でも逆説でもないことがわかってくる。
とにかく馬の姿には自然の美しさがある。
                                    ──「重い手荷物」

¶勉強などだれだっていやにきまっている。
放っておいて、甘い顔をしていて、させられるわけがない。
ツトメシイルと書くではないが。
いやでもやらせるのが教師のつとめだ。
笑ってばかりいられるわけがない。
教育者はコワイものだ。
                                  ──「“人間距離”」

¶適当な間合いが必要で、年齢で言えば、年がくっつきすぎても、離れすぎてもいけないのである。
師弟の年齢の差は、私の経験によると、二十五年プラスマイナス五年。
つまり、先生は生徒と二十年以上三十年以下のトシの開きのあるのがいいようだ。
                                    ──「“人間距離”」

¶まず、日曜、休日の朝は思い切り早く起きる。
勤めのある日が七時半起床なら六時ごろ床をける。
(バカも休み休み言え。
休みに早起きしてたまるか、などといきまかずに、まあ、お聞き下さい。)

顔を洗ったら飯は食べずに、ひとりでぼんやりものを思う。
何が頭に浮かぶか知れないが、朝の思想は清純である。
この神聖な時間を新聞の俗悪な記事などで汚してはもったいない。
いけないのは小説を読むことである。
心掛けのいい人は前の晩にプランをつくっておく。
そうでなくても、休みの日の朝読む本がきまっているといい。
日曜画家というのがあるが、休みにまとまった勉強をする習慣があれば日曜学者になることも可能である。

飯を食っていないのだから「朝飯前」の時間が続く。
昼になったらたっぷりおいしいものを食べる。
時起床ならすでに六時間仕事をして相当疲れている。
食事のあと眠くなるだろう。
ふとんに入って本格的に寝る。
雨戸がしめられればいっそう感じが出る。
何時間か寝て目をさまし、さて、もう朝も遅いらしい、寝過ごしたかと錯覚するようだったら成功である。
すなわち、そのときを第二の朝として、それから夕食までをまた「朝飯前」
考え別の仕事をする。
よいことうけあいで、こうして一日を二日にすることができる。
                                        ──「日曜学者」

¶勤め先の同じ連中が集まってしゃべるから、上役の悪口くらいしかサカナにするものがない。
ロータリークラブが支部の会員を一業一人に限っているのは、内輪のことは話題にしないように、なるべくおもしろい会になるように、という工夫であって、さすがと感心する。

一般に会というものをもっとおもしろくしないと、世の中もおもしろくならない。
                        ──「愉しい座談」結び

¶はじめての人に会う前に、その人の書いたものがあれば、それを少し読んで行くと、難しい話も案外すらすらはこぶものである。
インタービュアーで成功している人は、たいていこういう目に見えない努力をしている。
書いたものを読んで、相手の風にあらかじめ吹かれておけば、おのずから気心も知れようというもの。
臨時に相手の心がうつるのだ。
気風という風をもっと大切にしたい。
                                    ──「大切な気風」

¶小さな子供が電車の中で立っているから席をすすめたら、その子の母親が、ありがとうございますが、立たせておいた方がこの子のためですから、と断ったという。
ドイツ人の母子の話で、さすがに向こうの母親はしっかりしているね、という解説がつく。
                          ──「楽々人間」出だし

¶転校はいやなものだが、世の中へ出てみて、はじめてこれがどんなにプラスになるかがわかる。
日本は島国。
民族としても転校嫌いで定住を喜ぶ。
だからこそよけいに動くことを怖れず顔見知りしない雑草文化を目指すべきだろう。

子供の転校を親が怖れなくなるのは、その第一歩である。
                              ──「楽々人間」結び

¶やっぱり、と思ったが、(ひどい目にあった)次の披露宴では珍しい算術を教わった。
1から10までの数を二つに分けて掛け合わせると、1×9=9、2×8=16、……で5×5=25が最大になる。
夫婦も同じ力を持つのがいいというスピーチを社長さんがした。
こういう社長がいるというだけで何だか気の利いた会社のように思われてくるから不思議だ。
                               ──「企業イメージ」

¶自分の名前は小声でしか言わない。
われわれは天孫民族かどうかは別として、ケンソン民族なのだ。
                                    ──「名を惜しむ」

¶英語だと、グッドモーニング、ビルなどというが、日本人はおはようだけだから、グッドモーニングのあとへ名前をつけない。
相手からすれば妙な感じであろう。
                                    ──「名を惜しむ」

¶北海道の小さな駅、幸福行き愛国駅発行の国鉄切符が昨年バカ売れに売れ、三百万枚とか四百万枚とかに達したという話だ。
若ものが結婚のプレゼントなどにしていたのを大企業が目をつけて大量に買い付けた。
                                  ──「実体より名称」

¶シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』で「あいつは他人の言い出したことについてくるような人間ではない」
(He will never follow anything / That other men begin.)
という文句を見つけた。
シセロのことを言ったブルータスのことばだが、そう言われる人間になりたいと思った。

その後、ある陶芸家のことば 
「道を歩かぬ人、歩いたあとが道になる人
にめぐり逢って、これあるかな、と感心したから、こちらにくら替えした。
                            ──「道を歩く」出だし

¶もっとも、雑談を生産的にするにはちょっぴり工夫がいる。
まず、他人の噂話を避けること。
人名が出てくると、話はとかく低俗に流れやすく、夢が語れなくなる。
もうひとつは、なるべく違ったことをしているもの同士が集まって、存分に話せる雰囲気をつくることだ。
同業者の間では話が小さくなっておもしろくない。
                              ──「雑談の効用」結び

¶おしゃれはモノのよしあしによるのではなくて、身につけたものを生かすかどうかにかかっている。
                              ──「身についたおしゃれ」

¶言葉は最大の身だしなみ、最高のお化粧であることは、フランス人がいちばんよく知っている。
お嫁に行く娘にフランスの母親がいうそうだ。

「何ももたせてやるものはないが、美しいフランス語だけはもって行かれるね」

それが何よりの贈りものになる。
日本も早くそういう国にならないかなと思う。
                               ──「身についたおしゃれ」結び

¶すべては金もうけのためだと考えている。
日本の観光業者は日本人の中でももっともひどいエコノミック・アニマルである。
                              ──「ひどい観光」

¶観光業者が心を入れ変えるまで、旅行をしないようにしようと思う。
                              ──「ひどい観光」

¶「仲間」という英語コンパニヨンの語源は、ともに食事をする間柄の意味だという。
わが国でも“同じかまの飯を食った仲”は特別な親しさを感じるし、学校の寮でいっしょだった友人にはたんなる同窓とは違った気持ちをもちつづける。

中国料理は大皿に盛ったものをみんながとり分けて食べる。
西洋の料理でも食卓で肉を切り分ける。
それに対して日本料理は、はじめからめいめいの前に食べものが分配されていて、たいへん個人主義?  である。
                              ──「よき友とは……」

¶それにしても、幼年の歴史がいかに心の中でたわいもなく変容するものか、こんどのことでつくづく思い知らされた。
しかもそういう変形した幼い日の思い出を心の柱として生きてきたのである。
いまさら、その柱は中がうつろだったといわれてみても、これまでの半生をもう一度やり直すわけには行かない。

人間とは、そういうものかもしれない、と思ったりする。
                              ──「幼年の歴史」結び

¶当分は半信半疑、というよりも、まさか、と思っていたが、その後数年して、別の姓名判断の大家からも、また、すばらしい名前だとほめられた。
シェイクスピアの『マクベス』に三人の魔女が出てくる。
その魔女にあなたは王様になると言われてマクベスはその気になる。
一度だけならともかく、二度まで同じことを言われてみると、マクベスではないが、そんな気がしてくるから妙だ。
そのころ、父はいまから思うと死の病にとりつかれて入院中であった。
見舞ったついでに、このことを伝えると、前にはさほどうれしそうな顔もしなかったのに、こんどは喜んで、そうか、そうか、と何度もうなずいて見せた。
それからしばらくして父は亡くなったから、最後にいい親孝行をしたと思う。
                              ──「ジビフル・ジョンブル」

¶勉強も仕事も、果物と同じで、朝のうちが金、昼は銀、夜は銅、深夜になれば石くらいである。
                              ──「朝は金」

¶こういうぜいたくな世の中で子供を育てるには、質実剛健はりっぱな目標になる。
それでこそ心身も鍛錬できるだろう。
不自由がちな生活をしている子供たちには質実剛健と教えたくせに、いまこそ必要だという時代になったら、だれも口にしなくなってしまった。

そればかりではない。
ゆとりのある生活をしよう、豊かな人間性を育てよう、などと言い出した。
豊かさの中で、そんなことを言えば、ぜいたくをすることかと勘違いしかねない。
どうも、いつの時代も教育は逆のことばかりしているような気がする。
                              ──「質実剛健」結び

¶昔、フリジアにマイダスという王様があった。
手の触れるものをすべて黄金にして下さいと神様に願ったところ、願いは過分にかなえられて、食べものまで金になった。
困ったマイダスはまた元のようにしてもらったという話がある。
                             ──「年齢」出だし

¶そのドイツ人夫妻がイタリアのシシリー島でレストランに入り、テーブルにつくと、黙っているのにドイツ語のメニューをもったボーイが流ちょうなドイツ語で話しかけてきた。

どうしてドイツ人とわかったのか。
訊いてみると、椅子の坐り方、タバコとマッチをテーブルにのせた、その仕草でわかった、と答えたという。
                              ──「外国人」

¶西洋でも、世の中でいちばん恐ろしいのは、女房の説法と雨もりだと告白した古い詩がある。
                              ──「モルがこわい」

¶すぐれた外国商品は“ものいわぬ大使”だと言うが、このストーブがそれだろう。
                              ──「ものいわぬ大使」

¶それはそうだが、東と西の違いも、やはりはっきりしている。
タタミの大きさが同じでないなどというのは、どちらかといえば、小さな問題である。
                               ──「所変われば」

¶東の味は塩辛すぎておいしくない、と関西人が批判すれば、東の人は上方の味は妙にあまったるくて、と不平をもらす。
同じ寿司でも江戸前と大阪寿司ではまるで違う。
東がそば中心なら、西はうどんでこい、と自慢する。
                              ──「所変われば」

¶ただ、外国で生活する人たちが日本流のうるさい音をたれ流したら、たちまち“悪者”扱いされることを、外国へ行かない人も、せめて知識としてはもっていた方がよいだろう。
                              ──「大きな音」

¶それにしても、近代のもっとも聡明な知識人だと思っている漱石が稲を知らなかったというのは、やはり子規とともにおどろいていいことであろう。
                              ──「コメのなる木」

¶「学校の廊下や校庭にゴミが落ちていたら拾うか」

こういう質問に対して、拾うと答えた日本の小学生は五%、百人に五人しかいない。

わざわざ「日本」と断ったのは、国際比較調査の結果だからである。
フィリピンの子供は四〇%、シンガポールの小学生は三九%が、拾うと答えた。
                              ──「子供部屋」出だし

¶昔の人は
“売家と唐様(からよう)に書く三代目”
と言った。
初代は裸一貫からたたき上げて、産をなす。
二代目は幼いときに貧しい暮らしを知っているから、大きくすることは無理でも、家を守ることができる。
ところが三代目はいけない。
わがまま放題に育つ。
苦しいことに堪えることが難しい。
ちょっとしたつまずきで、たちまち破滅を招く。
住む家も売らなくてはならなくなる、というわけである。
                              ──「かわいい子の旅」

¶ところが、実際には、秋はあまり本が売れない。
ひどく売れないという声もある。
だからこそ、秋に読書週間があるのだ、という理屈になるのかもしれない。
ちょうど暑くて食欲のない土用は、放っておけばウナギなど食べようとする人はない。
だから知恵者が土用うしのウナギという年中行事をこしらえた、というのと同工異曲か。
                              ──「主婦の読書」

¶「パーキンソンの法則」で世界的に有名なC・N・パーキンソンという文明批評家が歯が悪くなった民族に未来はないとのべている。

それは中国の歴史を見ればわかる、という。
天下をとった部族が美食になれる。
すると歯をやられる。
ナマの食べものを食べている周辺の部族が中央に攻め上ってくると、あっという間に亡ぼされてしまう。
こんどは勝った方がまた手のこんだ料理で歯を弱くして、新手の歯のつよい“蛮族”にとって代わられる。
中国の歴史はこのくりかえしだったとパーキンソンは言うのだ。                                              ──「目と歯」

ラベル:外山滋比古
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2014年06月26日

活字で笑うという初体験 〜遠藤周作『わが青春に悔いあり』〜

110円。
この本の値段である。
もちろん定価ではなく、古本市でのものだが、
「何か安くて(100円前後で)面白そうなエッセイ集でも買ってみようかな」と本当に何気なしに買ったのがこの本だった。

買ってすぐの頃は、何か医者、病院などに関する項を多く目次に見たので、
「なんだ、そういうのが中心なのか。
もっと日常的な話題のエッセイが欲しかったのにな」、
と読む前から期待外れと思っていたのだが、まさに嬉しい誤算で、大変面白い傑作エッセイだった。

この本を読む前は、遠藤周作といえば、あまりに純文学過ぎて近寄りがたいような敬遠の気持をもっていて、著作もキリスト教とか宗教的な題材のものばかりと自分には無縁な作家と見なしていたのだが、いざこの本を読んでみて、いっぺんに遠藤周作が好きになってしまった。
特に、「外国語はムツかしい」の編では、外国語(フランス語)習得時のとんでもないエピソードこれでもかこれでもかと紹介されていて、思わず爆笑してしまい、しばらくは思い出し笑いを禁じ得ないほどだった。

──と書いてくると、この本はギャグばかりなのかと思われるだろうが、そうではない。
これから生きていく上でぜひ知っておきたいこと、大切なことを、箇条書き風に、親切にたくさん教えてくれて、大変ためになった。
どんなことかというと、手術時の様々な心構え、夫婦生活での知恵などの分野に渡ることだった。

またそれだけでなく、いわばエッセイの本流とでも言うべき、筆者の人情味溢れるいくつかの経験も回想風に書かれており、特に筆者が慶応の医学部でなく内緒で文科に入ったことを父に告げると、それを聞いた父は
「出て行け」
と言い、さらに追い討ちをかける強烈な一言
「お前は米くい虫である」
を筆者に浴びせたところなど、まだいくつか心に訴えるような体験談があった。

さらにまた別のエッセイ集、その次は『沈黙』にトライしようと思っている。
                                          (1990.3.20  18歳)

ラベル:遠藤周作
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2014年06月25日

人間とは何かという答えの見付からぬ問い 〜下里正樹『「悪 魔」と「人」の間』〜

自分と七三一は半歩も違わない──
筆者はそう言う。
日本人は、集団の中で己を隠し、行動する性質をもっている。
“赤信号、みんなで渡れば怖くない”
というフレーズがそれを如実に表している。
日本人のそういう集団性の怖さを大いに主張していた。

「丸太」と呼ばれ、様々な生体実験をされた約3000人余りの捕虜達。
この本には、その人間として扱われなかった「丸太」達の無念さも書かれていた。

909号という1人の「丸太」がいた。
彼は、
「娘に、妻に、一目会わせてくれ。
必ずここに戻ってくる」
と懇願したが、受け入れられず、赤痢菌注射で絶命した。
これまで気付かなかった、「丸太」の人間性、感情的なものを知った。
これまで七三一というと、その残酷さばかりに気持が向き、「丸太」側の気持には気付かなかった。

真理探求は、度が過ぎるとこういう人道を外れた“奇形”を生む。
筆者はこのことも強く訴えている。
人間とはいかなるものであるか、という答えの見付からない問いかけをしているようだった。
                                                     (16歳)

ラベル:下里正樹
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