2014年06月20日

地球環境論は常に曖昧 〜福岡克也『地球大汚染 黙しているのはもう限界だ』〜

狂気の沙汰としか言いようのない無為の時間が過ぎた。
実質的に、大学時代に入って完読し切った本は、未だにこの1冊のみである。
「実質的に」というのは、小室直樹のカッパブックスなどを買い集めて、それらを部分的に読んでいたりしたからだ。

買ったのが確か今年(1990年)の4、5月。
それから約7ヵ月。
緑ガ丘公園の四阿でほっかほっか弁当を食いながら読み、息苦しく疲れも癒せない電車の中で立ち読みし、読み終わったのが夏休みに入る少し前の、7月初め頃。
これだけでも恐るべき遅さだが、ここまでならまだいい。
問題は、ミニ感想文執筆が、今日までさらに4ヵ月延ばし延ばしになったことである。
言い訳を言って済む問題ではとうの昔になくなっている。

部屋(と呼べる代物では到底ない)ではほとんど全く読まなかった。
いや、読めなかった。
隣のバカ野郎が毎日毎日毎日毎日×100、テレビを声高くして見ているからである。
このバカ男ときたら、ともかく、部屋に入るやいなや、まるで尿意をもよおした人がやっとトイレに入れたかのごとく、すぐさま、即刻、テレビをつける。
そしてつけたまま平気で寝、外出する。
電灯など1日中、ひいては永久につけているのではないか。
決して誇張ではない。
電気代は、新聞奨学生と従業員が使用した総額を、平均して負担して払う仕組みになっている。
つまり、このバカが遠慮会釈なく湯水のように使っている電気代は、私などの平均以下の電気しか使っていない者に上乗せされ、結局バカは得しているのである。
理不尽どころの話ではない。

このバカに関して最も腹立たしかったことは、今年の5〜6月頃のことだ。
この間、私は新聞配達のあまりの過酷さに耐え切れず、大学を1ヵ月以上長期に渡ってズル休みを続けていた。
「耐え切れず」ということはつまり、眠いのだ。
もし自分の部屋が本当の個室だったら、夕刊まで寝ていればいい。
それには何の問題もない。
しかし、この部屋もどきが本当の個室ではなかったため、それはできなかった。
どういうことかというと、このバカ男がいるため、部屋に入って眠れなかったのだ。
1度、眠りかけていた時、大学に行く準備をしたバカが私の部屋を通りながら、
「あれえ!?」
とか言っていた。
必ず何か一言言うのである。
だから、私はソーッと自分の部屋なのに物音を立てないように自分の財布を取って外に出たり、まだ開いていないゲーセンに行ったり、前にも書いたように人目を気にしながら緑ガ丘公園の芝の上で寝たりしなくてはならなかった。
そして、9時、10時、11時とかになって、もういないだろうと思って部屋に帰ってきても、なんとまだいるのである。
それは例のテレビの音と、スクーターのDioによって確かめられた。
だから、私はDioが大っ嫌いになった。
いくらなんでももういないだろうと思って帰ってきて、あのDioがある時の悔しさ、悲しさ。
とても言葉では表せない。
将来私がスクーターに乗る機会を得たとしても決してDioだけには乗るまいと心に誓った。
そこで私は文字通り、JITTERIN'JINNの「アニー」という曲にあるような、
「自転車に乗って毎日ブラブラ」
という自堕落な生活を余儀なくされた。
そこで最も腹が立ったことというのは、“時間を無駄に過ごさねばならなかった”ということだ。
とにかくこの時間は寝たかった。
それなのに寝れなかった。
つまり何もできなかったということだ。
この時間に寝ておけば、夜、目が冴えて、本が読めたはずだ。
ところが寝れなかったため、結局夕刊配達が終わって貧弱なメシを食ったらもう眠いのである。
何もすることがないのだったら本を持っていって公園で読めばいいじゃないか、と思うかもしれないが、午前中にそれだけの意欲があれば大学へ行っている。
とにかくこの時間、私が為すべき唯一の行動は、睡眠であった。
前に書いたように、この本や新聞を、公園で読んだりしたこともある。
しかしあれは稀なことだ。
他にどうしようもなかったから、やった1つの実験的行為だ。
毎日できることではない。
とにかく、あのバカ男のせいで私は時間を無駄に過ごさざるを得なかった、このことが物凄くムカついてしょうがないのである。

さて、そろそろ本題である本の感想に入らねばならない。
内容については、大いに不満だった。
環境問題は今や一般的に大きく広まっている。
みんなの関心事である。
「どうなる」
「どうすればよいか」、
この2点を明確にする必要がある。
なぜなら、これまでの環境問題の論じられ方は、
「このままだと〜になるだろう」
「〜なるかもしれない」とかあまりにも曖昧だった。
歯切れが悪かった。
だから一般大衆の反応も曖昧になる。
また、
「ならばどうすればいいのか」、
これは誰もが思うことなのに、明確な答えはなかった。
だから、汚染がますます進む。
せいぜい、フロンガスの入ったスプレーを買わないようにしよう、とかいうバカげた行動しかとれない。
長い目で見れば それは確かに環境保護運動の第1歩かもしれないが、問題解決の方法として根本的に間違っている。
そんなもん、ごく一部の人が買おうが買うまいが、それに依存している生産体制が存在する限り、関係なく生産され続け、消費され続けるのである。
それに、もはや長い目で見ている余裕などないのだ。

したがって、これからの環境問題論に必要な視点は、正確な事実認識(「こうなるだろう」ではなく「こうなる」という情報)、それに、それに対する具体的対応の方法である。
この2点がこれまでは欠落していた。

私は主に前者の視点をこの本に望んだ。
しかしそれは充分に満たされなかった。
小見出しは衝撃的なことが書いてあるが、内容がそれに対応してないのだ。
それに一番の矛盾は、筆者は
「ところで、ガンは患者に告知するべきだろうか」
と、この危機をガンにたとえている。
ということはもう助からないということが前提となっていなければならない。
ところが後半には
「今が地球を救える最後のチャンスなのかもしれない」
と、いくつかの保全策が書かれている。
助かるのか助からないのかハッキリしろ、と言いたい。
それと事実認識についてだが、この本から学んだことを私が一般大衆に呼びかけるとして、彼らが
「おお、それは大変だ。そんなに事態は深刻だったのか」
と、ある程度の衝撃を受けるような事実を語らねばならない。
でないと意味はない。
ではこの本を読んでそれは得られたか、というと、得ていないのだ。
確かにいくつか衝撃に近いデータもあったが、それでもまだそれらは予想の域を出ていないのだ。
つまり、やはりというか、環境論はこれまで通り曖昧さを残す結果となった。
環境論から曖昧さを除去しない限り、一般大衆が自らの危機として環境問題を捉える日は、いつまで経ってもこないだろう。

これまでは、このミニ感想を書いていなかったため、新しく別の本を読むのも、なんとなく気がひけた。
電車の中で『アメリカの逆襲』を読む時も、
「その前にミニ感想を書いてしまわなければ」
と焦り続けていた。
今、こうしてやっと書き終わったことで、やっと喉に食物が詰まったような感じで食事をするような気分から解放されることになる。
諸悪の根源は新聞配達、新聞“妨”学会である。
私は今この搾取に対する怒りでいっぱいである。

                                           (1990.10.10  19歳)



ラベル:福岡克也
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2011年08月26日

当ブログ愛読者の方へお知らせ

5年前実家から今のアパートに引っ越してきた時、一体私はここにいつまで住み続けるのだろう、村上春樹風に言えば「一体出口はどこにあるのだろう」という思いに囚われたものだった。

この5年間は、私の人生の、間違いなくクライマックスの時期だった。
その想い出に別れを告げる時が、やってきたのだ。

これから引っ越しによるプロバイダの解約→変更のため、1ヶ月弱ほどネットと断絶しなければならず、当ブログの更新も小休止します。
9月中の復旧を目指していきますので、愛読者の方は、その点ご了承下さいますようよろしくお願い申し上げます。

それでは皆様、しばらくの間ごきげんよう。
また再会しましょう。
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2011年07月27日

前田vsアンドレ

「このネット時代、あの幻の前田vsアンドレ戦の動画が観れぬはずがない!」と、突然思い立ち、検索したらあった、ニコ動に。

大学の時学祭でプロレスサークルが上映会やってたが、¥1000と有料だったので観なかった。

なんかことさら、伝説化していたようだな。
それほどでもない。

というかこの試合、前田の負けだよ。
無抵抗のアンドレに、結局前田は勝てなかったんだから。
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2011年07月14日

逢瀬

きっと人には伝わらないだろうが、私にとって、「フレッシュインセンス コーンタイプ」(輸入販売元:ノルコーポレーション)の「ULTRAMARINEタイプの香り」の箱に載っている薄紫色の水中を泳ぐイルカの写真は――そこからは、コポコポと上がる水泡やキュンキュンというイルカの鳴き声さえも伝わってくるように感じるのだが――女の子との逢瀬を象徴しているのだ。
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2011年07月13日

表出

つくづく、私は病的なまでに、人に対して思いを口にすることができないんだなと思う。
ゆえに、初対面の人に対してこれ以上ないつらい思いをすることになる。

いわんや己の要望の表出をや。

その原因はというと、機能不全家族の中でアダルト・チルドレンとして成育したからである。


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2011年07月04日

名残を惜しむ

いつもホテルに泊まって出ていく瞬間は、とても切なくなって、壁や柱をさする。

もう、この部屋に来ることは人生で二度とはないのだろう。
そういう思いにとらわれる。

卒業の日、学校の壁や柱を名残惜しくさする感覚と似ている。
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2011年07月03日

棚橋弘至

なんやかや言っても、棚橋弘至の肉体は凄い。

筋骨隆々。
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2011年07月02日

時代を憎む 〜【映画】『告白』〜

気持ち悪い。ただひたすらに、気持ち悪い。

エンターテイメント作品として、このような作品を生み出してしまった、“現代”という時代を憎む。

しばし経つといくつもアラが浮かんでくる。

森口悠子(松たか子)は渡辺修哉(少年A)の仕掛けた爆弾の配線を切って、修哉の母の研究室に持っていき、爆発させた。
配線をつなぎ直し爆弾を再起動させる知識を、森口はもっていたのか?

そもそも最重要な爆弾事件を起こす前に、ネットの自分のサイトで犯行声明動画を流すのはあまりに不用意、というかあり得ない。
絶対に、事件後である。
だから森口に気づかれ、失敗に終わったのだ。

この映画の主人公は、修哉という見方もできる。
修哉は人を殺したかった。そして天才だった。
だったらなぜ、森口を殺すことに向かわなかったのか。
ただ、やられるのみ。

1年B組は、森口の行為を秘密にする。
その秘密が何カ月にも渡ってずっと保持される、というのが不自然
(2年に進級してもクラスメートがそっくり同じのまま繰り上がり、という設定もムリヤリ)。
差出人不明(?)のメールで陰に脅していたのは森口だったのか?

下村直樹(少年B)が母を殺した際職員室に呼び出されて事情を聴取された北原美月は、突然ウェルテルを悪者にする。
なぜ突然そうしたのかが突飛に過ぎる。

世俗のレベルは低いね。
『悪人』といい、『理由』といい。
桐野夏生だけは別。

ラベル:中島哲也
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2011年06月02日

向上心

実に久々に、トレーニング(腕立て50回、腹筋50回)をやった。やり遂げた嬉しさはある。

実に長い間、トレーニングに向かうことが億劫だった。
これは精神のありようを表しているのではないか。

中学の頃など、腹筋300回やヒンズースクワット300回など、サラッとやれていた。
ちっとも億劫ではなかった。
中学の頃(今よりは)モテていたのは、そのトレーニングによる直接的な肉体的効果もさることながら、もっと根本的な要因は、努力を厭わずに物事にあたれるという姿勢が醸し出すものだったのではないかと思う。
肉体的効果は、あくまで結果の表出に過ぎない。

私が今モテない(人間的魅力を減じている)のは、外見的なことではなく、あくまでも精神的な向上心の欠如に由来していたのである。 
なるほど、「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」(夏目漱石『こころ』)。
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2011年05月26日

解析

 以前書いた“AV男優の羨ましさ”についてその要素を解析すると……。

1.不特定多数の街行く女の子的な相手と、OKの気にさせなくても、できる。
2.顔射など遠慮せずにしたいプレイができる。
3.¥が0(むしろ労働だからプラスになる)。

特に1が大きい。
不特定多数の街行く女の子とHしたければ、AV男優でなければ、ナンパするしかない。
それは至難の業だが、仮にそれで本望を遂げたとしても、それは女の子をOKの気にさせたのである。
OKの気(相手の男に体を許すほどの好感)にはなっていないにも関わらず、相手の男とセックスをする。
私はここのところが、個人的な嗜癖かもしれないが、AVの本質に関わる部分だと思う。
それはナンパでは不可能、AVでしか可能でないセックスなのである。

不特定多数のOKの気になっていない女の子とHする方法は、実はまだある。
それは、ワリキリである。
しかしもちろんそれでは、¥が湯水のごとく費消されていく。現実的には一時的なものである。
AV男優であれば、費消どころか殖財していくのである。

AVは、約30年前の日本に生まれた。
しかも日本の人口は、ピークの1億2千万だった。
それ以降の日本を、男子として生まれ、20〜30代を過ごす。
その恐るべき僥倖に恵まれながら、その機会を生かすことはできなかった。

AV男優になれなかった男はすべて敗者なのか?
そうではない。
恋人や妻がいる男性は“やりまくる”ことができている。
岸田秀の言うごとく性欲は貯金だから、それらの人は性的に本望は遂げている。

性的本望を遂げられなかった男性……。
それについて考察すると、なんだか空恐ろしいものが感じられてくるのである。

posted by nobody at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 諸感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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